表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
アンノウン・ハロウィーン
83/90

幸え給へ

12.






 雨が、降って、います。


「これだもンなァ……」


 舌打ちして、セヴァは鳥居を見上げました。

 艶やかな赤を湛えていなければならないそれが、今は全身どす黒く、くすんで、曇天の色に変わっています。内側から溢れる瘴気と悪意の、臭いこと。鼻が曲がりそうです。苦労して辿り着いた結界は、やはり壊れていたのでした。

 怒りよりも、だろうよという落胆が零れます。

 そんなセヴァの格好も、酷いものでした。

 次から次へと沸く餓鬼を相手取り、そのことごとくを蹴散らして、全力疾走してきたのです。豪奢な金髪は雨に濡れて乱れ、尻尾は毛羽立ち、化粧も剥げ落ちて、此方も普段の洒落者が、見る影もありません。


「結界の維持……俺が……どンだけ苦労してると思ッてやがンだ」


 文句の一つも出ましょうが、愚痴っている時間は、ないのでした。


「“やあやあ我こそは箱庭が番。東雲施刃之尊なり”」


 セヴァが真名を名乗るのは、何十年ぶりでしょうか。

 此処では誰も知らない、きっとムゥも憶えていない、森の管理者の名です。

 それは鍵であり、証であり、意志でした。

 己が何者であったか忘れないための、縁でした。

 確固たる名乗りに、鳥居は主を思い出し、応えて、ぼうと鳴きました。

 術式照合完了。

 セヴァの姿が、変わってゆきます。

 濡れ鼠の作務衣は、純白の狩衣と紫の袴に。無骨な地下足袋は先の尖った高貴な(くつ)に。そぞろの金髪は光に梳られて高々と結われ、烏帽子の代わりに見事な金細工を戴き、まなじりに魔除けの紅が差せば、それは神々しいまでの美しさ。

 凜として正装を纏う、東雲施刃之尊なのでした。


「さァ、こッからが本番」


 己の頬を叩き、セヴァは鳥居を潜りました。

 此処からは神域です。

 雨は止み、外界とは明らかに異なる空気が、ひしりと肌を刺します。玉砂利の道の両側、居並ぶ灯籠は苦しげに瞬き、歪められた術式の臭気に、セヴァは顔を顰めました。

 振り返らずに往かねばなりません。

 役目を果たすまでは、この道の真ん中を、ひたすらに、まっすぐです。

 だというのに、来ました。

 前方から、おびただしい餓鬼の大軍です。

 進んだ先には、彼等を封じ込めていた空間、箱の核があります。セヴァの目的地は其処ですから、つまりは震源地に向かっているのです。数も悪意も、餓鬼の勢力が増すのは必然でした。術者の気配を察して、妨害に出向いたのでしょう。


「ンじゃァ、こッちも」


 はんと鼻を鳴らし、セヴァは後ろ手で、尻尾の毛を抓んで抜きます。


「“我が眷属よ、出でませ”」


 術者の吐息に吹かれた毛は、ふわり宙に舞って一回転。

 たちまち一本一本が、狐の姿に変わりました。

 無論、どれもこれも普通の狐ではありません。

 燃えるような赤い眼に隈取りの、子馬ほどある大狐です。


「“狛犬”」


 犬じゃねェけどな。

 笑って、セヴァは袖を翻しました。


「頼むぜ狐公共!」


 是の意味なのでしょう。

 一声ケンと鳴き放ち、狐たちが、餓鬼に飛び掛かりました。

 枯れ木めいた腕に、竹籤の脚に、卑しく膨らんだ腹に、果敢に噛み付いては食い千切り、主の道を開くべく奮闘します。餓鬼たちは堪りません。ぎぃぎぃと悲鳴を上げて逃げ惑いました。それでも数匹は、逆に狐を屠らんと歯を剥きます。

 血飛沫と肉片の飛び交う間を、セヴァは一息に駆け抜けました。

 後ろは狐に任せて、前と横から襲い来る餓鬼を、薙ぎ倒します。

 殴り付け、蹴り飛ばし、弾き、術を、錫杖を見舞います。

 前だけを見据えて、一度も軌跡を顧みず。

 駆けました。

 駆けて駆けて、駆けました。

 そうして、餓鬼を百匹ほど葬った頃でしょうか。

 深い穴の前に立っていました。

 ぽっかり地面が穿たれて、見渡す限りの暗黒です。底も端も露知れず、夜の帳になお暗く、眼を凝らせばますます曇り、標など到底、望むべくもない。創り出した自身が呑まれそうになる感覚に、セヴァは眉根を寄せました。

 さりとて、虚無ではありません。飢餓を、怨嗟を、悪意を。それこそ底なしの闇を湛え、腐って臭いを放つこれは、まさしく負で満たされた箱でした。

 そのくせ、まったく空っぽなのです。

 ぬらり吹き上がる風に、足元の屑が攫われ、じき掻き消えます。封印の鎖を担っていた注連縄(しめなわ)の、もう残骸でした。


 ホシイ。


 中から、声がしました。

 途方もなく虚ろで、痛いほどに切実な、何処かの誰かたちの声でした。


 ホシイ。ホシイ。ホシイ。欲しい。欲しいのに。


「ねェよ」


 セヴァは、とぼけた仕草で肩を竦めました。


「俺は持ってねェ。誰も持ってねェ」


 子供を諭す声音でした。


「お前たちが欲しかったものは、きっと初めから……ない」


 だって、セヴァも知っているのです。

 いくら欲しがっても、手に入らない。

 餓え、泣き、喚き、渇望し、求め足掻いて、叶わない。

 その、どれだけ哀しいことか。


「何処にも、ないんだ」


 けれど彼には今、守らねばならないものが、役割がありました。

 だから不敵に笑うのです。

 いつだって、そうしてきました。

 この道は、決して、振り返っては、いけない。


「我は庭番。東雲施刃之尊なり。今此処に此の名を以て、汝等を処す」


 瞳の憐憫を払い除けるように、セヴァは、錫杖を薙ぎました。

 応えて、闇が震えます。

 天が、地が、木が草が花が、そのとき森のすべてが、瞠目しました。

 訪れた静寂の刹那に、太刀風一閃。


 …………ホシイ。


 ぼそりと、穴が呟きました。


 ホシイ。ホシイ。ホシイ。欲し、

 ほ…………、

 ほおおう。


「“はらえたまへ”」


 長い溜息を吐くように、穴が風を吹き上げました。

 吐いて、吐いて、まだ吐いて、吐ききるのに、きっかり七秒。

 今度は吸い込み始めました。

 その勢いたるや、とんでもない暴風です。

 狩衣の袖が翻り、袴がはためき、金髪がごうと暴れて、荒れ狂いました。

 そこへ背後から、何かが凄い勢いで飛んできました。

 餓鬼です。

 数十匹が、一斉に此方へ押し寄せてきます。

 いいえ。正しくは、押し寄せざるを得ない。

 この暴風に、吸われているのです。

 餓鬼たちは、セヴァを襲う暇もなく、ぽんぽんと穴の中へ消えてゆきました。

 ところで、餓鬼は大勢います。

 それを皮切りに、来ます来ます。後ろから、前から、近くから、遠くから。数も数、おびただしい人数です。神域のみならず、森中に溢れた餓鬼たちが、この一点に集まってきたのでした。

 そして、次々に吸われてゆきます。

 もはや砂糖に群がる蟻どころの騒ぎではなく、どちらかというと、山盛りの砂糖の方です。いずれも醜悪な顔に驚愕と絶望を張り付け、圧倒的な吸引から逃れようと、大変な混雑です。隣の者へしがみつき、足下の者を蹴り落とし、縋る者のない手足は空を掻いて、もう阿鼻叫喚。およそ炊かれる米の形相でした。

 詰まった排水溝のように、穴は、ごぼごぼと彼等を飲み込みます。

 数が数ですから、少し時間は必要でした。

 それでも、いつしか穴は、溢れ出した餓鬼共を再び、余さず腹に収めてしまったのでした。


「“きよめたまへ”」


 セヴァが逆腕を振るいます。

 軌跡に、しゃらんと錫杖が、光の種を蒔きました。

 光は寄り添い、ほろほろと集まって繋がり、溶けて混ざって、

 ほおおう。

 溜息めいて深淵に、小さな太陽となりました。

 ええ。太陽でした。片手に乗るほどでありながら、静寂の闇をつぶさに照らし、絶対の質量と威厳を以て、その珠は輝きます。煌々と黄金にして、峻烈な赤。誰かが見れば、すわ此処だけ夜明けかと、畏れ戦き、跪いたことでしょう。

 優しく、まんべなく、柔らかに、容赦なく。

 降り注ぐ光が、さぁと深淵を走りました。

 傷を労る手のように、光が洞を覆います。闇を凝縮した漆黒に、果てのない対岸に、ないのかもしれない底に、けれども――威光は、届いたのです。

 地面に開いた大口は、一辺の亀裂もなく、そうして塞がれたのでした。

 とぷん。

 玉砂利の敷き詰められた地面へ、ふと太陽が沈みました。


「“かむながらまもりたまへ”」


 その場所の玉砂利が、むくりと盛り上がります。

 次の瞬間、生えてきた黄金が、石柱となって、立ち上がりました。

 長方形を上下に、凸の形に重ねた、奇妙な佇まいです。ムゥにもヘンゼルにも、その意味はわからないでしょう。でもこれは、セヴァにとって馴染み深い、いつも厳かで、寂しく笑っている、誰かの眠る形でした。

 しゃらん。しゃらん。

 ゆっくりと、セヴァは錫杖を左右に振ります。

 併せて、折り目のような所作で、交互に地を踏み、魔力を紡ぎます。

 お前の術は、言語も構成もさっぱりわからん。ムゥがよく悔しがっていますが、それは仕方がないのです。理が、まるで違うのですから。

 しゃらん。

 高く響いた錫杖の音が、無数に闇を切り裂きました。

 太刀筋が、赤い紐へと変わます。それらは分かれて、三つの束となり、縒られ、絞られ、捩じられながら、更にひとつに編まれてゆきます。

 しゃららん。

 錫杖が振り下ろされました。

 同時、石柱に巻き付いたのは、太く一本に()われた、注連縄でした。

 これまた容赦がありません。ぐるぐると幾重にも、ぎちぎちと執拗に、狂った蛇も斯くやとばかりに、雁字搦めにしてゆきます。か細い悲鳴が聞こえました。幼い慟哭も聞こえました。恨み辛みも聞こえます。あぁ。

 けれど、此処で情けをかけるわけにはいきません。ともすれば湧き上がりそうになる感情を、セヴァは押し殺して、小さく頭を振ります。

 成すべきを成す。今考えることは、それだけ。

 封印の鎖に、いっそうの魔力を込めました。


「“さきわえたまへ”」


 ぱん。

 柏手ひとつ。

 術式が成りました。

 しゃらん。

 注連縄に御幣が垂れ、石柱は、眠るように瞬いて、沈黙。

 その黄金を、御影石へと変えたのでした。


「――安穏なれ」


 両手で錫杖を捧げ持ち、セヴァが深く一礼しました。

 そっと、風が吹き抜けます。

 清らかな香りでした。夜空は静まり、星屑は音もなく、灯籠は仄かに揺れ、残穢の欠片も見当たらず、宵闇を満たす気配に、もう脅威はありません。

 今夜の騒ぎが嘘のように、森は、とっぷり静かになりました。











「はっ……はぁ……ッ」


 がっくり膝から崩れ落ち、セヴァは汗を拭います。


「あぁクソ……クソッタレ……」


 神域で吐いて良い言葉ではないと思いますが、此処は彼の場所なので、まぁ大目に見てあげてください。さすがに疲れました。それ以上は悪態を吐く元気もなく、錫杖に縋って、なんとか肩で息をします。

 ちょッと休んでから……帰……、

 しおれていた耳が、大変なことに気付いて、ぴくりとそばだちました。


「……布野郎がいねェ……」


 嘘だろ、おい。

 なんで本命だけ取り零してんだよ!

 あいつらもう逃げただろうな?

 まだ家にいないだろうな?


「やッベェ……」


 慌てて踵を返し、セヴァはようやく、来た道を戻り始めました。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 やっぱり絵も描ける人だからかなあ。  セヴァから旋刃へ移り変わるシーンの色味が凄い。目に浮かぶ鮮やかさでした。映える。特に目元にすっと紅が差す辺り、まさに変身の〆といった印象です。  でもひと仕事終…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ