幸え給へ
12.
雨が、降って、います。
「これだもンなァ……」
舌打ちして、セヴァは鳥居を見上げました。
艶やかな赤を湛えていなければならないそれが、今は全身どす黒く、くすんで、曇天の色に変わっています。内側から溢れる瘴気と悪意の、臭いこと。鼻が曲がりそうです。苦労して辿り着いた結界は、やはり壊れていたのでした。
怒りよりも、だろうよという落胆が零れます。
そんなセヴァの格好も、酷いものでした。
次から次へと沸く餓鬼を相手取り、そのことごとくを蹴散らして、全力疾走してきたのです。豪奢な金髪は雨に濡れて乱れ、尻尾は毛羽立ち、化粧も剥げ落ちて、此方も普段の洒落者が、見る影もありません。
「結界の維持……俺が……どンだけ苦労してると思ッてやがンだ」
文句の一つも出ましょうが、愚痴っている時間は、ないのでした。
「“やあやあ我こそは箱庭が番。東雲施刃之尊なり”」
セヴァが真名を名乗るのは、何十年ぶりでしょうか。
此処では誰も知らない、きっとムゥも憶えていない、森の管理者の名です。
それは鍵であり、証であり、意志でした。
己が何者であったか忘れないための、縁でした。
確固たる名乗りに、鳥居は主を思い出し、応えて、ぼうと鳴きました。
術式照合完了。
セヴァの姿が、変わってゆきます。
濡れ鼠の作務衣は、純白の狩衣と紫の袴に。無骨な地下足袋は先の尖った高貴な沓に。そぞろの金髪は光に梳られて高々と結われ、烏帽子の代わりに見事な金細工を戴き、眦に魔除けの紅が差せば、それは神々しいまでの美しさ。
凜として正装を纏う、東雲施刃之尊なのでした。
「さァ、こッからが本番」
己の頬を叩き、セヴァは鳥居を潜りました。
此処からは神域です。
雨は止み、外界とは明らかに異なる空気が、ひしりと肌を刺します。玉砂利の道の両側、居並ぶ灯籠は苦しげに瞬き、歪められた術式の臭気に、セヴァは顔を顰めました。
振り返らずに往かねばなりません。
役目を果たすまでは、この道の真ん中を、ひたすらに、まっすぐです。
だというのに、来ました。
前方から、おびただしい餓鬼の大軍です。
進んだ先には、彼等を封じ込めていた空間、箱の核があります。セヴァの目的地は其処ですから、つまりは震源地に向かっているのです。数も悪意も、餓鬼の勢力が増すのは必然でした。術者の気配を察して、妨害に出向いたのでしょう。
「ンじゃァ、こッちも」
はんと鼻を鳴らし、セヴァは後ろ手で、尻尾の毛を抓んで抜きます。
「“我が眷属よ、出でませ”」
術者の吐息に吹かれた毛は、ふわり宙に舞って一回転。
たちまち一本一本が、狐の姿に変わりました。
無論、どれもこれも普通の狐ではありません。
燃えるような赤い眼に隈取りの、子馬ほどある大狐です。
「“狛犬”」
犬じゃねェけどな。
笑って、セヴァは袖を翻しました。
「頼むぜ狐公共!」
是の意味なのでしょう。
一声ケンと鳴き放ち、狐たちが、餓鬼に飛び掛かりました。
枯れ木めいた腕に、竹籤の脚に、卑しく膨らんだ腹に、果敢に噛み付いては食い千切り、主の道を開くべく奮闘します。餓鬼たちは堪りません。ぎぃぎぃと悲鳴を上げて逃げ惑いました。それでも数匹は、逆に狐を屠らんと歯を剥きます。
血飛沫と肉片の飛び交う間を、セヴァは一息に駆け抜けました。
後ろは狐に任せて、前と横から襲い来る餓鬼を、薙ぎ倒します。
殴り付け、蹴り飛ばし、弾き、術を、錫杖を見舞います。
前だけを見据えて、一度も軌跡を顧みず。
駆けました。
駆けて駆けて、駆けました。
そうして、餓鬼を百匹ほど葬った頃でしょうか。
深い穴の前に立っていました。
ぽっかり地面が穿たれて、見渡す限りの暗黒です。底も端も露知れず、夜の帳になお暗く、眼を凝らせばますます曇り、標など到底、望むべくもない。創り出した自身が呑まれそうになる感覚に、セヴァは眉根を寄せました。
さりとて、虚無ではありません。飢餓を、怨嗟を、悪意を。それこそ底なしの闇を湛え、腐って臭いを放つこれは、まさしく負で満たされた箱でした。
そのくせ、まったく空っぽなのです。
ぬらり吹き上がる風に、足元の屑が攫われ、じき掻き消えます。封印の鎖を担っていた注連縄の、もう残骸でした。
ホシイ。
中から、声がしました。
途方もなく虚ろで、痛いほどに切実な、何処かの誰かたちの声でした。
ホシイ。ホシイ。ホシイ。欲しい。欲しいのに。
「ねェよ」
セヴァは、とぼけた仕草で肩を竦めました。
「俺は持ってねェ。誰も持ってねェ」
子供を諭す声音でした。
「お前たちが欲しかったものは、きっと初めから……ない」
だって、セヴァも知っているのです。
いくら欲しがっても、手に入らない。
餓え、泣き、喚き、渇望し、求め足掻いて、叶わない。
その、どれだけ哀しいことか。
「何処にも、ないんだ」
けれど彼には今、守らねばならないものが、役割がありました。
だから不敵に笑うのです。
いつだって、そうしてきました。
この道は、決して、振り返っては、いけない。
「我は庭番。東雲施刃之尊なり。今此処に此の名を以て、汝等を処す」
瞳の憐憫を払い除けるように、セヴァは、錫杖を薙ぎました。
応えて、闇が震えます。
天が、地が、木が草が花が、そのとき森のすべてが、瞠目しました。
訪れた静寂の刹那に、太刀風一閃。
…………ホシイ。
ぼそりと、穴が呟きました。
ホシイ。ホシイ。ホシイ。欲し、
ほ…………、
ほおおう。
「“はらえたまへ”」
長い溜息を吐くように、穴が風を吹き上げました。
吐いて、吐いて、まだ吐いて、吐ききるのに、きっかり七秒。
今度は吸い込み始めました。
その勢いたるや、とんでもない暴風です。
狩衣の袖が翻り、袴がはためき、金髪がごうと暴れて、荒れ狂いました。
そこへ背後から、何かが凄い勢いで飛んできました。
餓鬼です。
数十匹が、一斉に此方へ押し寄せてきます。
いいえ。正しくは、押し寄せざるを得ない。
この暴風に、吸われているのです。
餓鬼たちは、セヴァを襲う暇もなく、ぽんぽんと穴の中へ消えてゆきました。
ところで、餓鬼は大勢います。
それを皮切りに、来ます来ます。後ろから、前から、近くから、遠くから。数も数、おびただしい人数です。神域のみならず、森中に溢れた餓鬼たちが、この一点に集まってきたのでした。
そして、次々に吸われてゆきます。
もはや砂糖に群がる蟻どころの騒ぎではなく、どちらかというと、山盛りの砂糖の方です。いずれも醜悪な顔に驚愕と絶望を張り付け、圧倒的な吸引から逃れようと、大変な混雑です。隣の者へしがみつき、足下の者を蹴り落とし、縋る者のない手足は空を掻いて、もう阿鼻叫喚。およそ炊かれる米の形相でした。
詰まった排水溝のように、穴は、ごぼごぼと彼等を飲み込みます。
数が数ですから、少し時間は必要でした。
それでも、いつしか穴は、溢れ出した餓鬼共を再び、余さず腹に収めてしまったのでした。
「“きよめたまへ”」
セヴァが逆腕を振るいます。
軌跡に、しゃらんと錫杖が、光の種を蒔きました。
光は寄り添い、ほろほろと集まって繋がり、溶けて混ざって、
ほおおう。
溜息めいて深淵に、小さな太陽となりました。
ええ。太陽でした。片手に乗るほどでありながら、静寂の闇をつぶさに照らし、絶対の質量と威厳を以て、その珠は輝きます。煌々と黄金にして、峻烈な赤。誰かが見れば、すわ此処だけ夜明けかと、畏れ戦き、跪いたことでしょう。
優しく、まんべなく、柔らかに、容赦なく。
降り注ぐ光が、さぁと深淵を走りました。
傷を労る手のように、光が洞を覆います。闇を凝縮した漆黒に、果てのない対岸に、ないのかもしれない底に、けれども――威光は、届いたのです。
地面に開いた大口は、一辺の亀裂もなく、そうして塞がれたのでした。
とぷん。
玉砂利の敷き詰められた地面へ、ふと太陽が沈みました。
「“かむながらまもりたまへ”」
その場所の玉砂利が、むくりと盛り上がります。
次の瞬間、生えてきた黄金が、石柱となって、立ち上がりました。
長方形を上下に、凸の形に重ねた、奇妙な佇まいです。ムゥにもヘンゼルにも、その意味はわからないでしょう。でもこれは、セヴァにとって馴染み深い、いつも厳かで、寂しく笑っている、誰かの眠る形でした。
しゃらん。しゃらん。
ゆっくりと、セヴァは錫杖を左右に振ります。
併せて、折り目のような所作で、交互に地を踏み、魔力を紡ぎます。
お前の術は、言語も構成もさっぱりわからん。ムゥがよく悔しがっていますが、それは仕方がないのです。理が、まるで違うのですから。
しゃらん。
高く響いた錫杖の音が、無数に闇を切り裂きました。
太刀筋が、赤い紐へと変わます。それらは分かれて、三つの束となり、縒られ、絞られ、捩じられながら、更にひとつに編まれてゆきます。
しゃららん。
錫杖が振り下ろされました。
同時、石柱に巻き付いたのは、太く一本に綯われた、注連縄でした。
これまた容赦がありません。ぐるぐると幾重にも、ぎちぎちと執拗に、狂った蛇も斯くやとばかりに、雁字搦めにしてゆきます。か細い悲鳴が聞こえました。幼い慟哭も聞こえました。恨み辛みも聞こえます。あぁ。
けれど、此処で情けをかけるわけにはいきません。ともすれば湧き上がりそうになる感情を、セヴァは押し殺して、小さく頭を振ります。
成すべきを成す。今考えることは、それだけ。
封印の鎖に、いっそうの魔力を込めました。
「“さきわえたまへ”」
ぱん。
柏手ひとつ。
術式が成りました。
しゃらん。
注連縄に御幣が垂れ、石柱は、眠るように瞬いて、沈黙。
その黄金を、御影石へと変えたのでした。
「――安穏なれ」
両手で錫杖を捧げ持ち、セヴァが深く一礼しました。
そっと、風が吹き抜けます。
清らかな香りでした。夜空は静まり、星屑は音もなく、灯籠は仄かに揺れ、残穢の欠片も見当たらず、宵闇を満たす気配に、もう脅威はありません。
今夜の騒ぎが嘘のように、森は、とっぷり静かになりました。
「はっ……はぁ……ッ」
がっくり膝から崩れ落ち、セヴァは汗を拭います。
「あぁクソ……クソッタレ……」
神域で吐いて良い言葉ではないと思いますが、此処は彼の場所なので、まぁ大目に見てあげてください。さすがに疲れました。それ以上は悪態を吐く元気もなく、錫杖に縋って、なんとか肩で息をします。
ちょッと休んでから……帰……、
しおれていた耳が、大変なことに気付いて、ぴくりとそばだちました。
「……布野郎がいねェ……」
嘘だろ、おい。
なんで本命だけ取り零してんだよ!
あいつらもう逃げただろうな?
まだ家にいないだろうな?
「やッベェ……」
慌てて踵を返し、セヴァはようやく、来た道を戻り始めました。




