みっつめの箱
11.
雨が降っていました。
肩で息を吐き、ヘンゼルは鼻を啜りました。二度三度、くしゃみが出ます。埃と風圧にやられた眼を擦り、やがて視界が晴れれば、部屋の反対側、墓標めいた瓦礫の山が、その姿を現しました。
住み慣れた我が家は、見る影もありません。窓は割れ床は剥げ、壁の一辺は崩れ落ちて、建材が剥き出しです。屋根ごと崩落した天井、馬鹿みたいに空いた大穴から、ざぁざぁと、家具たちの亡骸が雨に打たれていました。
嵐のような騒々しさより一転、辺りは静まり返っています。
足元に、動物の駒がひとつ、落ちていました。
蛙です。他は全部、壊れてしまったのでしょう。
「…………」
ごめんね。
ぽつり呟き、ヘンゼルは眼を伏せます。
乱暴に扱って、ごめん。
拾い上げようと、腰を屈めたときでした。
積み上がった瓦礫が、ごきりと音を立てました。
ごり、べき、ぐき。音が続いて、山積した家具の残骸が沈んでゆきます。
「……でも、ありがとう」
がしゃん!
瓦礫を撥ね除けて、口の化物が立ち上がりました。
薄汚れたシーツ状の皮膚に、全身から生えた触手。それぞれ指先は五本に分かれているので、毛虫か何かが直立したように見えます。その手で、ごりごりべきべきと、触れるものを文字通り、手当たり次第、食べています。
顔面の、いっとう大きな口が、涎を垂らして歯を剥きました。
おかげで「これ」ができた。
崩れた壁の向こうで、大きな泥の塊が、ゆっくりと身を起こしました。
手足は短く、首は胴体にめり込んで、髪どころか目鼻も口もありません。辛うじて人の形をしているといった程度の、それは、本当に泥人形でした。ただし、巨漢です。背丈は頭が天井に届くほど、横幅は大人三人分はあります。
道具たちとシィちゃんが戦っている間、ヘンゼルは、考えていました。
観察していました。試みていました。
新しい戦力――存在を創り出すことは、できるだろうか。
環境、素材、所要時間、特性。
すべての条件を満たした、現時点での模範解答。
それこそが、この。
「“泥人形”」
悪いけれど、名前は適当です。凝っている場合ではありませんから。
それでも、ヘンゼルの忠実なる創造物は今、此処に名を呼ばれたのです。
任務を遂行すべく、頷いて歩み始めました。
ぬちゃりぐちゃりと、進むたび泥が流れて滴り、身体の表面が波打ちます。いかにも不格好な歩行ですが、重心が安定しているらしく、存外危うさはありません。緩慢に、それでいて滑らかに、どこか軟体動物を思わせる仕草で、室内へ侵入してきます。
シィちゃんが気付きました。
一目で敵と認識したのでしょう。目障りとばかりに、触手を振るいました。
ぼちゃん、と呆気なく、泥人形の頭が抉れます。
二度三度。振るわれる触手に、腕が、脚が、腹が削れます。
が、倒れません。
どころか、微動だにしません。
痛がっている様子もありません。
言うまでもなく、攻撃された事実を理解できないほど阿呆なわけでも、鈍感でもありません。確かに痛覚は未搭載ですが、それは役割のために、ヘンゼルが省いただけのこと。
そもそも、負傷していないのです。
損傷ではありますが、負傷ではありません。だってこれは泥です。雨に泥濘んだ庭の泥を捏ねて創り上げた、正真正銘の、泥人形なのです。抉れようが潰れようが形が変わるだけです。痛くも痒くも、あるはずがないのです。
まぁ、多少は目減りするかもしれませんが、素材は大量にあります。なんなら、庭中森中がそうなのです。すぐ傍から、いくらでも調達可能です。
それに、重要な隠し味も。
『!?』
泥人形が、瞬く間に再生を始めました。
訂正、ちょっと違います。取れた部分が元に戻るだけですから、復元というべきでしょうか。骨こそなくとも、代りとして張り巡らされた芯は、原料の色そのままの、濃い青色をしていました。
壁のシーリング材です。
それがこの泥人形の“核”であり、肝。
かつて我が家を建てる際、ムゥが苦労して生成した建材で、熱気寒気湿気を防ぐだけでなく、難燃性や柔軟性まで備えた、実に彼らしい、いささか過剰に高性能な物質でした。
いつだったか、原料となる植物の採取に出たとき、自慢げに語っていたのを思い出します。俺の結界が信用できねェのか。なんて息巻くセヴァに、矜持の問題だと言い放つムゥを、純粋に尊敬したものでした。
『!! !!?』
つまりはこの建材、非常に強力な粘性があるのです。
掴んだら最後、握り潰すことはおろか、指を開くことすら困難になるほどの。
『! ! ! !』
シィちゃんの触手が、泥を掴んだまま、ぶんぶんと暴れます。
離さないのではなく、離せない。離れないのです。上下の歯と歯は粘つく繊維で繋がり、舌は動かず、吸っても吐いても取れません。捨てようにも指がくっつき、それを振り回せば更に粘性が増し、どうにもならなくなったシィちゃんは、悪戯猫よろしく、尻から後退りました。
あれです。トリモチを全力で噛んでしまったと思ってください。
『!』
泥人形が、元通りになった両腕をシィちゃんへ伸ばします。
攻撃と呼ぶには、あまりに鈍重。暗闇を探るような動作でした。けれども、その何が問題なのでしょう。シィちゃんが攻撃し、触手が泥を跳ね上げれば、たちまち復元して、接近を再開するのです。この繰り返しです。
落ちた泥を踏んで、シィちゃんの脚が一本、床に接着しました。
やってしまいました。ヘンゼルにも経験があります。あのときは何をどうしても取れなくて、わんわん泣いているのをセヴァに宥められながら、ムゥに除去剤で脚を洗ってもらったのでしたっけ。
今、泣きたいのはシィちゃんでしょう。
こんな状況で、目の前に、泥人形が迫ってくるのですからね。
『っ! !!!』
シィちゃんの顔面、巨大な口が、泥人形に噛み付きました。
相当に焦ったと見えます。どうなるかは明白でしょうに。
ええ、こちらは大問題でした。本格的に動けなくなってしまったシィちゃんへ、泥人形が、両手を広げて伸し掛ります。見た目どおりの重量、質量です。抱き込まれる形で倒れ、数本ある脚は絡んでくっつき、逃げ場もなく倒れたシィちゃんは、呼吸もままならぬ状態で、毛虫めいた身体を捩りました。
捉えた。
ヘンゼルの唇が、僅かに緩みます。
でも、だから、ここからどうする?
確かに“泥人形”は優秀でした。シィちゃんを捕獲することにも成功しました。ですが、逆に言えば、それだけ。必殺の攻撃手段もなく、時間稼ぎが関の山です。決め手に欠ける方法であることは、最初から承知していました。
このままセヴァさんを待つ?
ふと浮かんだ甘えに、ヘンゼルは頭を振ります。
甘えだと思いました。嫌です。絶対に嫌です。
あれは必ず、この手で仕留める。
考えなくては。
何ができる? 何が使える?
家具も建材も、めぼしいものは使用済みです。残っているの動物の駒は、非力な蛙がただの一匹のみ。巨大化させたとして、働きを期待するのは難しいでしょう。せめてもっと、食物連鎖の強者がいれば――
熊。鳥。蛇。蛙。
はっとヘンゼルは瞬きました。
そういえば、あの話……。
あるところに、狩人がいました。
狩人は、いつものように山へ狩りに入りました。
ところが、その日に限って、まったく獲物に出会えません。
岩に腰掛けて休んでいると、一匹の羽虫が、目の前を横切りました。
それを追い掛けて、蛙が現れました。
蛙は一口に虫を頬張り、ぴょんと跳ねます。
すると、藪から、蛇が出てきました。
蛇は蛙を、やはりぱくりと飲み込んで、悠々這いずってゆきます。
ほうと目を見張る狩人の上空から、一羽の鳥が舞い降りました。
鳥は、鋭い鉤爪で蛇を一蹴り。絶命させました。
蛇を咥えた鳥が飛び立とうしたとき、がさりと音がしました。
木陰から、見事な熊が顔を出します。
熊は太い腕で鳥を叩き落とし、その場でむしゃりと食べ始めました。
しめた。ようやっと獲物にありついた狩人が、弓を取ります。
番えた矢をまさに放たんとして、しかし彼は、はっと手を止めました。
虫は蛙に。蛙は蛇に。蛇は鳥に。鳥は熊に食われてしまった。
だとしたら、今ここで、自分が熊を射れば、どうなる?
そのとき、山を揺るがす哄笑が突如、びりびりと天から降り注いだのでした。
「射なくて良かったな」
以前、寝物語にセヴァから聞いた話です。
よけい眠れなくなりました。苦笑いするセヴァと二人、こっそり夜更かししたのを憶えています。
捕食者。被捕食者。上位存在。
「――あ」
シィちゃんに、その名を与えたのは、ヘンゼルでした。
ヘンゼルが命名した瞬間、あれはシィちゃんになったのです。
僕は、あの存在の名前を創った。
だとしたら、その上に、創れるんじゃないか。
シィちゃんが「なんでも食べる化物」ならば。
その化物を食べる存在を創り出せば……!
おあつらえ向きです。足元に、折れた箒が転がっていました。
拾い上げて振り向けば、血溜まりの中、ムゥが倒れています。
その光景に一瞬だけ息を詰め、ヘンゼルは、肚を決めました。
「先生、ごめん。使わせてね」
落ちていた硝子片を手に取り、躊躇いなく指先を切りつけます。
ぽたり。乾き始めていたムゥの血に、ヘンゼルの血が滴りました。
それは細波を立てて波紋を生み、とぷんと答えるように、性質を変えます。
このインクが、そのまま“核”だ。
たっぷり素速く含ませて、箒を床に走らせます。
およそ創造物に於いて、完成形とは、何か?
頭の片隅で、いつかのムゥが、人差し指を立てます。
またいつものが始まったと、船を漕いでいたことが悔やまれます。ちゃんと聞いておけばよかったな。世紀の天才生成術士の、特別個人講義だったのに。
答えは簡素と単純。
いいか。必要最低限こそが至高なんだ。
往々にして物事は、足すよりも削る方が難しい。
何をどこまで削っても役割に影響しないか。
見極めるには、経験と勘が必要だからな。
『……! …………!』
泥人形の下で、シィちゃんの身体が痙攣します。
おえっ、ぐえっ、と気味の悪い声で嘔吐き、びたびたと触手を振り回し、すべての指で空を掻いて、自らを穿つが如く、大きく腰を曲げました。
ごごぼぁ。
得も言われぬ産声を上げ、シィちゃんの腹に、大口が歯を剥きました。
『……っ、……っ、…………!』
まぁ私は、つい意匠に凝ってしまうんだが。
緊急事態や命の危機には、そうも言っていられないだろう。
従って、いかに最小限の手札で最大限の機能を賄うかが…………、
ふやけた語尾と、柔らかい毛布。
そっと頭を撫でてくれたのは、この上なく優しい手でした。
『ホ、シ、イ!』
吠えて、シィちゃんの腹の口が、泥人形に齧り付きました。
相手は動く接着剤です。わかっていたはずなのに、言わないことじゃない。できたばかりの口が早速、くっついて開かなくなりました。しかも、泥人形にダメージはありません。胸部に突き刺さる牙をてんで意に介さず、続けてシィちゃんを圧潰し続けます。
けれども。意に介さぬのは、泥人形だけでは、なかったのでした。
なんとシィちゃんは、くっついた歯をそのままに、泥人形を啜り始めたのです。
ずぞぞぞぞ、ごっ、ごっ、ごほっ。何度も咽せ、喘ぎながら、都度身を捩り触手を震わせ、その小さな身体のすべてで、粘る泥を腹に収めようとしています。この期に及んで、まだ食べるのです。だって、足りません。これ以外に、存在する方法を知らないのです。食べても食べても、お腹が空きます。ならば喉を塞ぐ敵意も、裂けた手足の痛みも、叶わぬ願いも。残さず食べてしまえばいいのです。きっと、それでいいのです。食べたい。あぁ食べたイ。
もっともっともっともっと!
「欲しい?」
ヘンゼルが、筆を止めます。
描き上がったのは、絵ではなく、図でした。
正六面体の展開図です。
何故でしょう。
これが、この形こそが、シィちゃんには相応しいと思いました。
「だったら、ぼくがあげるよ」
血の展開図が、剥がれた床を纏って、ぱたぱたと閉じられてゆきます。
大きく描いたつもりが、面が塞がるたびに小さくなって、床材はうねり、さぁと色を変え、骨組みの赤が息づき、二呼吸の間にはヘンゼルの両手に、確かな存在感が乗っていました。
箱でした。
極めて簡素。
模様もなく、ケーキでも入っているみたいな、それは白い箱でした。
「シィちゃん」
ヘンゼルは、見据えました。
幼い眼差しに、有りっ丈の侮蔑を込めて、友達だったかもしれない彼を。
泥人形を半分ほど飲み込んで、その腹が、ぱんぱんに膨らんでいます。くたくたに汚れきったシーツは、いえ皮膚は、無理に伸び縮みしたせいで、突っ張っている箇所と弛んでいる箇所が、歪に混在していました。手なのか足なのか、身体中から生えた触手は至極おぞましく、巨大な二つの口の、なんて醜いことでしょう。
この欲張り。
「お前なんか、嫌いだ」
そんなに欲しいなら、受け取れ。僕からの。
「“空箱”」
言葉と共に放たれた箱が、まっすぐに宙を飛び、蓋を開きました。
その裏側には、びっしりと、シィちゃんそっくりの鋭い歯が並んでいます。
ぱくり。噛み付かれた触手が、消えました。
千切れたのではありません。箱の囓った部分が、嘘のように消えたのです。
『!!?』
ぱくり。ぱくん。箱が噛み付くたび、シィちゃんの身体が欠けます。
どうにか逃れようと、シィちゃんは身動ぎしました。でも駄目です。未だ泥人形と一体化しているのです。泥人形は、己の役割を、すべきことを知っていました。だから離しません。自分が消滅する、そのときまで。半分の身体で、いっそう力を込めて、シィちゃんを押さえ付けます。
箱は構わず、泥人形ごと、ぱくぱくとシィちゃんを食べてゆきます。
数本の触手……たぶん脚が、たぶん腕が。
肩が、腰が、腹が。消えて、ゆきます。
囓られた部分が何処へ行くのか、ヘンゼルは知りません。特に考えてもいませんでした。あんな小さな箱に入るはずはないのですが、今となっては些事です。目的さえ果たせれば、理屈はどうでも良いのでした。
ヘンゼルが箱に込めた願いは、ただひとつ。
いなくなれ。
消えてなくなれ、永遠に。
これから先、お前は――
シィちゃんは抵抗しました。暴れました。戦慄きました。
無駄です。
この箱は、シィちゃんを抹消するためだけに創られた存在でした。
シィちゃんの存在意義が、食欲であるのなら。
それを食べ尽くすことこそが、この箱の、存在意義なのです。
もう、何処にも存在しない。
『ア……ア……ぃ』
いつしか、残っているのは頭と、片腕一本だけになっていました。
その一本を、シィちゃんは、どうしてか、ヘンゼルに差し伸べます。
『し……、…………』
何か言っていました。
どこまでも暗く、陰鬱で、貪欲な声です。
恨みでしょうか。謝罪でしょうか。命乞いでしょうか。
どれであっても、ヘンゼルはもう、その手を取るつもりはありませんでした。
『 あ シ て 』
ぱくん。
役割を終えた箱が、ことりと床に落ちました。
はらり面が剥がれて舞い上がり、骨格を担う赤い辺が、するするとリボンのように解けます。そうして畳まれた順の逆を辿って展開し、平面の図形に戻れば、あとには数滴の血が、ぽたり。
跡形もなく乾いてしまって、それきり、静かになりました。
「…………うっ……」
がくりと膝を突き、ヘンゼルは、両の掌で顔を覆いました。
先生。
呟いて、応えるのは、遠雷のみでした。
「うっ……ひっく……うぅ……うぃい…………」




