覚醒の生成術士
10.
影が、突進しました。
凄い速さでヘンゼルの隣を通り過ぎ、その巨体がぶち当たったのは、シィちゃんです。蔦に縛られていたせいでしょう、避けることも敵わず、ぽんと吹き飛んで、壁に激突しました。
ぐるるぅ。
低く唸って、影は、ヘンゼルの前に立ち塞がります。
がっしりと、丸太のような四つ脚。分厚い掌。強靱な爪。牙。その堂々たる巨躯を覆うのは、美しくも暑苦しい威圧感を放つ、黒い毛皮。
熊です。
唐突に現れた猛獣は、けれどヘンゼルを警戒してはいませんでした。
眼前のシィちゃんにのみ、敵意を露わに毛を逆立てています。
当然でした。
だってこの熊は、ヘンゼルのもの。
ヘンゼルの意志に、他ならないのですから。
「先生!」
急いでムゥに駆け寄り、ヘンゼルは、ムゥの肩を揺すりました。
「ねぇ先生! 大丈夫? 大丈夫?」
されるがままに揺れる身体は、ぐったりとして、何も答えません。
嘘だ。
ヘンゼルは、頭を振ります。毎日毎日、見上げてきたのに。
こんなに小さいはずがない。
震える手で、ぐしゃぐしゃに乱れた髪を掻き分け、顔を覗き込みました。
ぼんやり半分だけ開いた眼が、濁って、虚空を眺めていました。
ヘンゼルを見てはくれません。
何処も見ていません。
長い睫毛は血に濡れて、どうにも泣いているみたいでした。
「…………ッ!」
血塗れになった手を、ヘンゼルは握りました。
硬く、硬く握りました。
ぎりり。奥歯が軋みました。
流れる涙を拭えば、目元に残る赤は血粧となり、幼い顔に決意を宿します。
「……これ、先生が持ってて」
ヘンゼルは、自分の命札を外して、ムゥの胸元へ添えました。
あぁ。握らせることもできません。
ついさっきまで、優しく撫でてくれた手。
玩具も、マフラーも、不思議な道具も、美味しいご飯も。
なんでも作ってくれた、大好きな手。
なくなってしまったなんて、信じたくありませんでした。
「先生を守って。お願いね」
答えるように、光の結界が、ムゥを包み込みました。
これ以上、奪われてなるものですか。
凄まじい怒りの波が押し寄せる中、ヘンゼルの頭は、ひどく冷えていました。
えぇ、冷静ですとも。
何をすべきか。わかっていました。
どうしてできたのかは、わかりません。
でも、やり方は、わかっていました。
できると、いつの間にか、知っていました。
「ぼくに力を貸して。今から少しの間だけ――」
詠唱は必要ありません。
感覚に任せ、魔力を込めて、ただ命じれば良いのですから。
「君たちに、役割をあげる」
かたりと音がしました。
部屋の隅に、木彫りの駒が散らばっています。ついさっきまで三人で囲んでいた双六。様々な動物を模した駒(そういえば熊の駒が見当たりませんね)です。
その中のひとつ、鳥を象った駒が、ふるりと揺れ、黄金に輝きました。
輝きは、鮮やかな色彩を乗せて輪郭を走り、内に、しっかりした骨格を形成します。そこへ仮初めの肉が付き、神経が張り巡らされ、体毛が生えて、最後に一声。気高く鳴いて翼を広げた姿は、もう木彫りなどではありません。
一羽の美しい鳥、そのものに変わっていたのでした。
「お前は絶対に許さない!」
ヘンゼルの怒気に併せて、熊がシィちゃんに飛び掛かりました。
ちょうど蔦を噛み切ったところへ、強烈な前肢が振り下ろされます。シィちゃんの肩から腰までが、袈裟懸けに裂けました。次いでその背に伸し掛られ、後頭部に齧り付かれます。
床を軋ませ、シィちゃんは身悶えします。
じたばたと足掻く手が、熊の後肢を掴みました。
その小さな掌には、悪夢のような口が、びっしり歯を生やしているのです。顔面の口ほど大きくはありませんが、それでも噛まれれば大変です。
ぐぅ。呻いた熊の力が、緩みました。
すかさず這い出したシィちゃんが、両手を熊に伸ばします。
それを阻んだのは、頭上から降り注いだ嘴でした。
鳥です。
散々突かれたシィちゃんは、鳥を叩き落とそうと腕を振り回しました。
が、相手は飛んでいます。何処へでも逃げられます。その上とても素速く、なかなか捉えられません。躍起になるほど、鳥は軽やかに身を躱し、死角から頭や首筋を突くのでした。
どさくさに、背後から椅子が忍び寄ってきました。
はい、椅子です。四本の脚をそろそろと動かして、タイミングを窺っています。気配を消すのは得意なのです。なにしろ椅子ですから。
ヘンゼルは君「たち」と言いました。
この部屋にある道具は今、すべてヘンゼルの意志ひとつで働きます。術者の敵、すなわちシィちゃんを排除するという、与えられた役目を果たすために。
『っ!』
椅子が一脚、シィちゃんの足下に滑り込みました。
二脚目と三脚目が続きます。我が家のダイニングチェアはこの三脚限りですが、文字通り足止めには充分でした。三脚の椅子は、それぞれの脚を筋違いに絡ませ、シィちゃんを真ん中に組み込んで、確保してしまいました。
そこへ熊がとどめを刺すべく、猛然と襲い掛かります。
でも、これは失策でした。
俯いたシィちゃんが上体を屈め、にわかに顔を上げると、その肩から新しい腕が二本、ばすんとシーツを突き破って生えてきたのです。
シィちゃんが、新しい腕で熊の脇腹を掴みます。
その掌にも、当然の如く歯が生えています。
このままでは、あっという間に食べられてしまいます。少量の肉を犠牲に退避を決意した熊は、賢明でした。
椅子の方は、そうもいきません。がっつり互いに噛み合っていますからね。次々に脚を囓られ、座面と背もたれだけになって、床に打ち捨てられます。こうなっては何もできず、三脚はくたりとしょげて、動かなくなりました。
椅子が戦うのですから、机だって参戦します。
だかだか慌ただしい足音と共に、背後から駆けてきたテーブルが、シィちゃんの腰へ突撃し、思いっきり縁をめり込ませました。
こちらは、椅子よりも遙かに重量級です。匠ムゥのこだわりによる樫の一枚天板ですから、その衝撃たるや、まさに交通事故。撥ねられたシィちゃんは壁に顔面を強打して、深いヒビを作りました。
『…………ッ』
追撃の体当たりが入ります。再びシィちゃんの腰に、どごっと天板が食い込みました。ヒビが広がり、剥がれた壁材が床に落ちました。
壁とテーブルに挟まれて、シィちゃんは藻掻きます。椅子の反省を活かしてか、上手い具合に腕を巻き込みました。そのまま縁を押し込まれれば、軋んだ背骨が逆に「く」の字に曲がります。真っ二つにへし切れそうです。
今にも、という瞬間、シィちゃんがしゃっくりのように肩を竦めました。
『!』
すると、ずるり。
シィちゃんの腕が伸びました
そういう意味で伸びたのではなく、本当に、長さが増しました。それも尋常ではありません。自身の背丈より遙かに長く、二メートルほど不自然に伸びたのです。さながらゴムですが、しかし太さは変わらずです。
であれば、強度や使い勝手も同じなのでしょう。伸びた腕は簡単にテーブルの脚へと届き、四本まとめて齧り付かれました。
ごき、ごきごき。硬い音が僅かな抵抗を示しますが、駄目です。なんという歯でしょうか。樫の脚が、ごりごり食べられてゆきます。
残念ながら、へし折られたのはテーブルの方でした。
失敗。
小さく呟き、ヘンゼルは眼を眇めました。
額に浮いた汗が、眉間の皺をなぞって流れ落ちます。
硬度は、あまり意味がない?
鉄なら……いや、金属のスプーンも食べていたっけ。時間の問題だろう。
それに、再生……変態? じき状況に対応して、強化する。
腕を増やされては厄介だ。かといって半端な攻撃では通じない。
どうする?
どうやってこいつを……。
ヘンゼルは、シィちゃんを睨み付けます。
シィちゃんも、ヘンゼルを見ていました。
いいえ。正しくはヘンゼルの後ろ、倒れたムゥを。
顔面の巨大な口から、しとどに涎を垂らしながら。
『む……ほ、シ、い』
怒りに、ざわり髪の毛が逆立ちました。
いずれにせよ、待ってくれるはずもありません。
深く呼吸し、ヘンゼルは全身に魔力を巡らせました。
シィちゃんが向かってきます。
長い腕は、案の定ムゥを狙っていました。
傍に控えていた熊が、一本を払い落とします。上空から鳥が、一本を突いて軌道を逸らせます。
残りの二本が突き出され、歯を剥きました。
ヘンゼルは動きません。
その手は、ムゥにも自分にも届かない。わかっていたからです。
シィちゃんの頭上に一面、萌葱色が広がりました。
カーテンでした。今年新調した、冬用の厚い布地です。
無論、遊びに来たわけではありません。ばさりと覆い被さり、端を器用に使って足元を掬い上げ、ぐるぐる巻き付いて、たちまちシィちゃんを縛り上げました。
このカーテン、デキるカーテンです。何が賢いかって、長い手足を絶妙な角度で折り畳み、すっぽり包み込んで、完全にミイラ状に仕上げてしまったのです。
『! ! !』
ぎゅう、ぎり、きちち。弓を引き絞る音を立て、ミイラは悶え転げました。反して、声は聞こえません。普通なら、誰でも断末魔を叫ぶ圧力でしょうに。布で覆われているからなのか、そもそも悲鳴を上げる機能がないのか、シィちゃんは、ただがたがたと暴れて、床を鳴らしました。史上最悪の雑巾絞りです。
世にも哀れな光景でしたが、ヘンゼルは怯みません。
このとき幼い天才術士が考えていたのは、動物の駒はあといくつあっただろう、ということだけです。
次の一手が、ヘンゼルの足元で鎌首をもたげました。
蛇です。
それも大蛇です。胴回りが、大人の首ほどもあります。
未知の相手に対して有効打を探る方法は、とにかく手数。ムゥの傍で魔道具生成の苦楽を見てきたヘンゼルには、それが肌でわかります。そのために、寸法を調節しました。この程度なら拡大できるようです。
即ち、試みたのは絞殺でした。
『!!!!』
巻き付いた大蛇が、カーテンごと、シィちゃんを締め上げました。
ぎりぎりぎりぎりっ。
いえ、これは圧殺というべきでしょうか。この太さです。とんでもない圧力が、首どころか全身に加わるのです。というか、シィちゃんをすっぽり覆うカーテンを更に、すっぽり覆う大蛇です。何処に逃げ場があるでしょう。
まるで子供の掌に握り込まれた虫でした。本気で雑巾状になったカーテンと蛇の有様からして、中身が人の形だとは到底思えず、ばきごきと、それが粉々になってゆく音が、室内に響きます。
いけるか?
――いや、油断は禁物。
ヘンゼルは警戒を緩めません。
そして、それで正解でした。
なんの前触れもなく、蛇が千切れ飛んだのです。
蛇だったものの木片に混じって、何かの先端がヘンゼルの髪を掠めました。
妙な軌道でした。びゅんとしなり、引っ掻くのではなく、縄が打つように、目前を薙いでいったのです。咄嗟に振り返れば、それがムゥに齧り付く寸前で、熊の腕に叩き落とされているところでした。
ぐにゃぐにゃの、ぶらぶらです。さきほどの雑巾絞りで、骨という骨が砕けたと見えます。しかし、期待していたのはこういう形状ではありません。だってもう、それは関節がどうとか本数がどうとか、そういう次元ではなくなっていたのです。
触手。
萌黄色の端布が舞う中に立っていたのは、全身から数多の触手を生やした、口の化物なのでした。
『ほ……し……い…………』
うぞぞ、と触手がうねりました。
未練がましく人を模したままの五本指が、或いは鷲掴みにしようと、或いは齧り付こうと、ムゥへ迫ります。熊が立ちはだかりますが、鞭の軌道は、獣が最も苦手とする動きです。相性は最悪でした。
前後左右上下、自在の角度で襲う曲線に、反応が追い付きません。為す術もなく囓られ、みるみる体積を削られてゆきます。
上空から、鳥が割って入りました。
彼の機動力も、こればかりは敵いませんでした。
無造作に握り潰されます。
抜け落ちた羽根が色を失い、木片となって床へ落ちます。
シィちゃんの触手が、歯を剥きました。
ヘンゼルが瞠目します。
――がりりりっ。
触手が齧り付いたのは、ヘンゼルの鼻先数センチ。
空間に張られた、緑色の薄い膜でした。
“命札”が発動したのです。
対象者が命の危機に瀕した際、強固な結界を展開する魔道具です。その有効範囲を、ヘンゼルが自らの魔力を足して拡張したのです。セヴァが練った術式と、ムゥが仕組んだ精密性、ヘンゼルの意志。三人の天才が作った空間は、さしもの餓鬼であれ、そう簡単に破ることはできません。
「お願いっ!」
ヘンゼルの声に、熊が跳ね起きました。
全身あちこち囓られて、酷い損傷です。まだ稼働しているのが不思議なくらいでした。そんな彼が怪我を押し、最後の力を振り絞って、敵に突進したのです。
『!』
豪腕がシィちゃんを抱え込み、勢いそのままに駆け、もろとも壁に激突します。
ヒビの入っていた壁が、がらがらと崩れました。
そこへ、部屋中のあらゆる家具が飛んできます。
ソファ、本棚、植木、チェスト、照明、果てはキッチンの保冷庫まで。こぞって集い、シィちゃんと熊を踏みつけ、自壊しては積み重なってゆきます。埃と破片が飛び散り、衝撃に視界が揺れました。それでもヘンゼルは、しかと標的を見据えたまま、毅然として命じます。
集まれ。潰せ。埋めろ。
ドアが外れて、瓦礫に加わります。
寝室から、解体されたベッドが飛んできました。
床が捲れて舞い上がります。
家全体が、軋んだ音を叫んでいました。
「いなくなっちゃえ!」
轟音を響かせ、ひときわ大きく家が揺れました。
天井が、落ちてきます。




