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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
アンノウン・ハロウィーン
81/91

覚醒の生成術士

10.






 影が、突進しました。

 凄い速さでヘンゼルの隣を通り過ぎ、その巨体がぶち当たったのは、シィちゃんです。蔦に縛られていたせいでしょう、避けることも敵わず、ぽんと吹き飛んで、壁に激突しました。

 ぐるるぅ。

 低く唸って、影は、ヘンゼルの前に立ち塞がります。

 がっしりと、丸太のような四つ脚。分厚い掌。強靱な爪。牙。その堂々たる巨躯を覆うのは、美しくも暑苦しい威圧感を放つ、黒い毛皮。

 熊です。

 唐突に現れた猛獣は、けれどヘンゼルを警戒してはいませんでした。

 眼前のシィちゃんにのみ、敵意を露わに毛を逆立てています。

 当然でした。

 だってこの熊は、ヘンゼルのもの。

 ヘンゼルの意志に、他ならないのですから。


「先生!」


 急いでムゥに駆け寄り、ヘンゼルは、ムゥの肩を揺すりました。


「ねぇ先生! 大丈夫? 大丈夫?」


 されるがままに揺れる身体は、ぐったりとして、何も答えません。

 嘘だ。

 ヘンゼルは、頭を振ります。毎日毎日、見上げてきたのに。

こんなに小さいはずがない。

 震える手で、ぐしゃぐしゃに乱れた髪を掻き分け、顔を覗き込みました。

 ぼんやり半分だけ開いた眼が、濁って、虚空を眺めていました。

 ヘンゼルを見てはくれません。

 何処も見ていません。

 長い睫毛は血に濡れて、どうにも泣いているみたいでした。


「…………ッ!」


 血塗れになった手を、ヘンゼルは握りました。

 硬く、硬く握りました。

 ぎりり。奥歯が軋みました。

 流れる涙を拭えば、目元に残る赤は血粧(ちけわい)となり、幼い顔に決意を宿します。


「……これ、先生が持ってて」


 ヘンゼルは、自分の命札を外して、ムゥの胸元へ添えました。

 あぁ。握らせることもできません。

 ついさっきまで、優しく撫でてくれた手。

 玩具も、マフラーも、不思議な道具も、美味しいご飯も。

 なんでも作ってくれた、大好きな手。

 なくなってしまったなんて、信じたくありませんでした。


「先生を守って。お願いね」


 答えるように、光の結界が、ムゥを包み込みました。

 これ以上、奪われてなるものですか。

 凄まじい怒りの波が押し寄せる中、ヘンゼルの頭は、ひどく冷えていました。

 えぇ、冷静ですとも。

 何をすべきか。わかっていました。

 どうしてできたのかは、わかりません。

 でも、やり方は、わかっていました。

 できると、いつの間にか、知っていました。


「ぼくに力を貸して。今から少しの間だけ――」


 詠唱は必要ありません。

 感覚に任せ、魔力を込めて、ただ命じれば良いのですから。


「君たちに、役割(いのち)をあげる」


 かたりと音がしました。

 部屋の隅に、木彫りの駒が散らばっています。ついさっきまで三人で囲んでいた双六。様々な動物を模した駒(そういえば熊の駒が見当たりませんね)です。

 その中のひとつ、鳥を象った駒が、ふるりと揺れ、黄金に輝きました。

 輝きは、鮮やかな色彩を乗せて輪郭を走り、内に、しっかりした骨格を形成します。そこへ仮初めの肉が付き、神経が張り巡らされ、体毛が生えて、最後に一声。気高く鳴いて翼を広げた姿は、もう木彫りなどではありません。

 一羽の美しい鳥、そのものに変わっていたのでした。


「お前は絶対に許さない!」


 ヘンゼルの怒気に併せて、熊がシィちゃんに飛び掛かりました。

 ちょうど蔦を噛み切ったところへ、強烈な前肢が振り下ろされます。シィちゃんの肩から腰までが、袈裟懸けに裂けました。次いでその背に伸し掛られ、後頭部に齧り付かれます。

 床を軋ませ、シィちゃんは身悶えします。

 じたばたと足掻く手が、熊の後肢を掴みました。

 その小さな掌には、悪夢のような口が、びっしり歯を生やしているのです。顔面の口ほど大きくはありませんが、それでも噛まれれば大変です。

 ぐぅ。呻いた熊の力が、緩みました。

 すかさず這い出したシィちゃんが、両手を熊に伸ばします。

 それを阻んだのは、頭上から降り注いだ嘴でした。

 鳥です。

 散々突かれたシィちゃんは、鳥を叩き落とそうと腕を振り回しました。

 が、相手は飛んでいます。何処へでも逃げられます。その上とても素速く、なかなか捉えられません。躍起になるほど、鳥は軽やかに身を躱し、死角から頭や首筋を突くのでした。

 どさくさに、背後から椅子が忍び寄ってきました。

 はい、椅子です。四本の脚をそろそろと動かして、タイミングを窺っています。気配を消すのは得意なのです。なにしろ椅子ですから。

 ヘンゼルは君「たち」と言いました。

 この部屋にある道具は今、すべてヘンゼルの意志ひとつで働きます。術者の敵、すなわちシィちゃんを排除するという、与えられた役目を果たすために。


『っ!』


 椅子が一脚、シィちゃんの足下に滑り込みました。

 二脚目と三脚目が続きます。我が家のダイニングチェアはこの三脚限りですが、文字通り足止めには充分でした。三脚の椅子は、それぞれの脚を筋違いに絡ませ、シィちゃんを真ん中に組み込んで、確保してしまいました。

 そこへ熊がとどめを刺すべく、猛然と襲い掛かります。

 でも、これは失策でした。

 俯いたシィちゃんが上体を屈め、にわかに顔を上げると、その肩から新しい腕が二本、ばすんとシーツを突き破って生えてきたのです。

 シィちゃんが、新しい腕で熊の脇腹を掴みます。

 その掌にも、当然の如く歯が生えています。

 このままでは、あっという間に食べられてしまいます。少量の肉を犠牲に退避を決意した熊は、賢明でした。

 椅子の方は、そうもいきません。がっつり互いに噛み合っていますからね。次々に脚を囓られ、座面と背もたれだけになって、床に打ち捨てられます。こうなっては何もできず、三脚はくたりとしょげて、動かなくなりました。

 椅子が戦うのですから、机だって参戦します。

 だかだか慌ただしい足音と共に、背後から駆けてきたテーブルが、シィちゃんの腰へ突撃し、思いっきり縁をめり込ませました。

 こちらは、椅子よりも遙かに重量級です。匠ムゥのこだわりによる樫の一枚天板ですから、その衝撃たるや、まさに交通事故。撥ねられたシィちゃんは壁に顔面を強打して、深いヒビを作りました。


『…………ッ』


 追撃の体当たりが入ります。再びシィちゃんの腰に、どごっと天板が食い込みました。ヒビが広がり、剥がれた壁材が床に落ちました。

 壁とテーブルに挟まれて、シィちゃんは藻掻きます。椅子の反省を活かしてか、上手い具合に腕を巻き込みました。そのまま縁を押し込まれれば、軋んだ背骨が逆に「く」の字に曲がります。真っ二つにへし切れそうです。

 今にも、という瞬間、シィちゃんがしゃっくりのように肩を竦めました。


『!』


 すると、ずるり。

 シィちゃんの腕が伸びました

 そういう意味で伸びたのではなく、本当に、長さが増しました。それも尋常ではありません。自身の背丈より遙かに長く、二メートルほど不自然に伸びたのです。さながらゴムですが、しかし太さは変わらずです。

 であれば、強度や使い勝手も同じなのでしょう。伸びた腕は簡単にテーブルの脚へと届き、四本まとめて齧り付かれました。

 ごき、ごきごき。硬い音が僅かな抵抗を示しますが、駄目です。なんという歯でしょうか。樫の脚が、ごりごり食べられてゆきます。

 残念ながら、へし折られたのはテーブルの方でした。











 失敗。

 小さく呟き、ヘンゼルは眼を眇めました。

 額に浮いた汗が、眉間の皺をなぞって流れ落ちます。

 硬度は、あまり意味がない?

 鉄なら……いや、金属のスプーンも食べていたっけ。時間の問題だろう。

 それに、再生……変態? じき状況に対応して、強化する。

 腕を増やされては厄介だ。かといって半端な攻撃では通じない。

 どうする?

 どうやってこいつを……。

 ヘンゼルは、シィちゃんを睨み付けます。

 シィちゃんも、ヘンゼルを見ていました。

 いいえ。正しくはヘンゼルの後ろ、倒れたムゥを。

 顔面の巨大な口から、しとどに涎を垂らしながら。


『む……ほ、シ、い』


 怒りに、ざわり髪の毛が逆立ちました。

 いずれにせよ、待ってくれるはずもありません。

 深く呼吸し、ヘンゼルは全身に魔力を巡らせました。


 シィちゃんが向かってきます。

 長い腕は、案の定ムゥを狙っていました。

 傍に控えていた熊が、一本を払い落とします。上空から鳥が、一本を突いて軌道を逸らせます。

 残りの二本が突き出され、歯を剥きました。

 ヘンゼルは動きません。

 その手は、ムゥにも自分にも届かない。わかっていたからです。

 シィちゃんの頭上に一面、萌葱色が広がりました。

 カーテンでした。今年新調した、冬用の厚い布地です。

 無論、遊びに来たわけではありません。ばさりと覆い被さり、端を器用に使って足元を掬い上げ、ぐるぐる巻き付いて、たちまちシィちゃんを縛り上げました。

 このカーテン、デキるカーテンです。何が賢いかって、長い手足を絶妙な角度で折り畳み、すっぽり包み込んで、完全にミイラ状に仕上げてしまったのです。


『! ! !』


 ぎゅう、ぎり、きちち。弓を引き絞る音を立て、ミイラは悶え転げました。反して、声は聞こえません。普通なら、誰でも断末魔を叫ぶ圧力でしょうに。布で覆われているからなのか、そもそも悲鳴を上げる機能がないのか、シィちゃんは、ただがたがたと暴れて、床を鳴らしました。史上最悪の雑巾絞りです。

 世にも哀れな光景でしたが、ヘンゼルは怯みません。

 このとき幼い天才術士が考えていたのは、動物の駒はあといくつあっただろう、ということだけです。

 次の一手が、ヘンゼルの足元で鎌首をもたげました。

 蛇です。

 それも大蛇です。胴回りが、大人の首ほどもあります。

 未知の相手に対して有効打を探る方法は、とにかく手数。ムゥの傍で魔道具生成の苦楽を見てきたヘンゼルには、それが肌でわかります。そのために、寸法を調節しました。この程度なら拡大できるようです。

 即ち、試みたのは絞殺でした。


『!!!!』


 巻き付いた大蛇が、カーテンごと、シィちゃんを締め上げました。

 ぎりぎりぎりぎりっ。

 いえ、これは圧殺というべきでしょうか。この太さです。とんでもない圧力が、首どころか全身に加わるのです。というか、シィちゃんをすっぽり覆うカーテンを更に、すっぽり覆う大蛇です。何処に逃げ場があるでしょう。

 まるで子供の掌に握り込まれた虫でした。本気で雑巾状になったカーテンと蛇の有様からして、中身が人の形だとは到底思えず、ばきごきと、それが粉々になってゆく音が、室内に響きます。


 いけるか?

 ――いや、油断は禁物。


 ヘンゼルは警戒を緩めません。

 そして、それで正解でした。

 なんの前触れもなく、蛇が千切れ飛んだのです。

 蛇だったものの木片に混じって、何かの先端がヘンゼルの髪を掠めました。

 妙な軌道でした。びゅんとしなり、引っ掻くのではなく、縄が打つように、目前を薙いでいったのです。咄嗟に振り返れば、それがムゥに齧り付く寸前で、熊の腕に叩き落とされているところでした。

 ぐにゃぐにゃの、ぶらぶらです。さきほどの雑巾絞りで、骨という骨が砕けたと見えます。しかし、期待していたのはこういう形状ではありません。だってもう、それは関節がどうとか本数がどうとか、そういう次元ではなくなっていたのです。

 触手。

 萌黄色の端布が舞う中に立っていたのは、全身から数多の触手を生やした、口の化物なのでした。


『ほ……し……い…………』


 うぞぞ、と触手がうねりました。

 未練がましく人を模したままの五本指が、或いは鷲掴みにしようと、或いは齧り付こうと、ムゥへ迫ります。熊が立ちはだかりますが、鞭の軌道は、獣が最も苦手とする動きです。相性は最悪でした。

 前後左右上下、自在の角度で襲う曲線に、反応が追い付きません。為す術もなく囓られ、みるみる体積を削られてゆきます。

 上空から、鳥が割って入りました。

 彼の機動力も、こればかりは敵いませんでした。

 無造作に握り潰されます。

 抜け落ちた羽根が色を失い、木片となって床へ落ちます。

 シィちゃんの触手が、歯を剥きました。

 ヘンゼルが瞠目します。

 ――がりりりっ。

 触手が齧り付いたのは、ヘンゼルの鼻先数センチ。

 空間に張られた、緑色の薄い膜でした。

 “命札”が発動したのです。

 対象者が命の危機に瀕した際、強固な結界を展開する魔道具です。その有効範囲を、ヘンゼルが自らの魔力を足して拡張したのです。セヴァが練った術式と、ムゥが仕組んだ精密性、ヘンゼルの意志。三人の天才が作った空間は、さしもの餓鬼であれ、そう簡単に破ることはできません。


「お願いっ!」


 ヘンゼルの声に、熊が跳ね起きました。

 全身あちこち囓られて、酷い損傷です。まだ稼働しているのが不思議なくらいでした。そんな彼が怪我を押し、最後の力を振り絞って、敵に突進したのです。


『!』


 豪腕がシィちゃんを抱え込み、勢いそのままに駆け、もろとも壁に激突します。

 ヒビの入っていた壁が、がらがらと崩れました。

 そこへ、部屋中のあらゆる家具が飛んできます。

 ソファ、本棚、植木、チェスト、照明、果てはキッチンの保冷庫まで。こぞって集い、シィちゃんと熊を踏みつけ、自壊しては積み重なってゆきます。埃と破片が飛び散り、衝撃に視界が揺れました。それでもヘンゼルは、しかと標的を見据えたまま、毅然として命じます。


 集まれ。潰せ。埋めろ。


 ドアが外れて、瓦礫に加わります。

 寝室から、解体されたベッドが飛んできました。

 床が捲れて舞い上がります。

 家全体が、軋んだ音を叫んでいました。


「いなくなっちゃえ!」


 轟音を響かせ、ひときわ大きく家が揺れました。

 天井が、落ちてきます。







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― 新着の感想 ―
 してやられました。  メインの三人それぞれに見せ場がある、と伺っていたのに、ヘンゼルのそれはメンタルケアや気づき的なものであろうと決め込んでいました。  このために前話で、実体化、役割、合成の話をし…
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