表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
アンノウン・ハロウィーン
79/92

アンハッピー・ハロウィーン

8.






「あっ……ッ?」


 一瞬の出来事でした。

 湿った熱が片方の耳を覆うと同時に、ぶつり。肉の千切れる嫌な音を、これ以上ない至近距離で聞いていました。何が起こったのか、まるでわかりません。ハッとして触れた指先には、生暖かい感触が滑るだけ。そこにあるはずの器官が、耳が、ありません。

 ぽた。ぽたぽた。鮮血が床に滴ります。


「え、は?」


 馬鹿みたいに瞬いて、振り返りました。

 すぐ後ろで、シィちゃんが、何かを食んでいました。

 くちゃくちゃぎちぐっちゃぐち、

 ばきん。

 不意の金属音が、ぢりっと傷に響きます。

 ()()()


「うっ……いっ、」


 理解するや、鈍い痛みが襲ってきました。

 やられた!

 くそ、油断した!

 そうです。セヴァがあれほど警戒しろと忠告したのに。

 つい無防備な背を晒してしまいました。

 迂闊でした。セヴァは、刺激しなければ安全だなんて、一言も言っていません。


『……タ……リ……ない』


 赤く染まってゆくシーツが、咀嚼しながら、呟きました。

 くちゃ、くちゃ、

 腕の中のヘンゼルは、置物のように固まっています。

 ぬちゃ、ぴち、ぴち、

 上下に動くたび、シーツが、裂けてゆきました。

 細い三日月を作るそれは、想像どおりの口でした。耳まで届く切れ込みに、狼と見紛うほどの牙。案の定、まともな人間の構造をしていません。そんな口が、ムゥの肉と自らのシーツを、むしゃむしゃ食んでいるのです。

 まばらに残って糸を引く繊維が、口枷のように見えました。

 実際、そうだったのかもしれません。

 だとしたら今、その口を晒す意味とは――。


 くちゃ、ぴちゃ。

 むち、

 ごくん。


「どけっ!」


 力いっぱい、ヘンゼルを突き飛ばしていました。

 同時に、シィちゃんが齧り付いてきます。


「う、あぁッ!」


 文字通り。鋭い歯が、ムゥの肩に食い込みました。

 辛うじて首筋を躱しましたが、獣じみた犬歯は、いとも容易く皮膚を破り、肉を裂いて、骨を穿ちます。凄まじい痛みに、頭が真っ白になりました。


「……ッ……離れ……!」


 藻掻く指先が、シーツの背を掴みました。

 愕然としました。

 なんだこれ。

 馴染みのある、妙に生々しい弾力。活動している細胞が、掌に応える感触。存在感と一体化した肌理(きめ)は、断じて布のものではありません。確かにさっきまで、ただの薄っぺらいシーツだったはずなのに。

 温度さえなくとも、それはまさしく、生き物の皮膚なのでした。


「やめ、…………!」


 ごりっ。鎖骨が軋みます。

 堪らず悲鳴を上げ、身を捩りました。

 椅子を薙ぎ倒しざま、仰け反ります。

 半ば乗り上げるような格好で、テーブルに強か腰を打ちました。

 もはや意志と無関係に暴れる指が、シィちゃんの背中を掻き毟って、血を滲ませます。だというのに、この小さな身体は一向に怯まず、ますます執拗に、深く何度も牙を捻じ込むのでした。

 えぇ。飢餓の落人が、耳だけで済むはずが、ないじゃありませんか。

 ムゥは、今更ながらゾッとします。

 これは攻撃ではない。

 捕食だ。

 呆気なく片耳を失い、肩口に食い付かれて、ようやく思い知りました。この落人の本当の恐ろしさ。セヴァが懸念し、あくまで回避すべきだった事態に、今まさに陥っていることを。この落人は。

 きっと、際限がないのです。

 善悪の区別なんて、付かないのです。

 共存? 説得? もっての外です。

 食欲を満たすことだけが目的で、望みで、存在意義の怪物。

 ――底なし、なのです。


「あ、あぁ、」


 ぎちぎち、ぶちっ。

 肩の肉を大きく食い千切られました。

 絶叫し、髪を振り乱して頭を振ります。

 と、こつん。何かが頬に当たりました。

 ペンです。

 メモ帳と一緒に、普段からテーブルに置いてあるものです。スタンドから外れて転がってきたのでしょう。

 躊躇っている暇はありませんでした。

 ムゥはそれを握って、渾身の力で、シィちゃんの背中に突き刺しました。


『!』


 肩に刺さっていた歯が、僅かに浮きます。

 すかさず身体を捻り、シィちゃんの頭をテーブルに叩き付けました。

 とても嫌な手応えがありました。傷の痛みも、吹き出す血も、忘れるくらいに、最悪の感触でした。でも、加減する余裕はありません。

 眼を眇め、息を切らせて、何度も何度も、角を目掛けて。ヘンゼルよりも小さな身体を叩き付けました。無我夢中でした。


『っ! っ! っ!』


 何度目かの殴打で、やや変形したシーツの塊が、ずるりと崩れ落ちました。


「……はっ……はぁっ……」


 脱力して、傍らに膝を突きます。

 汗と涎と血の混じった液体が、床をぽつぽつ汚しました。


「う……はぁ」


 そうだ、ヘンゼルは? 無事か?

 急ぎ面を上げ、周囲を見回します。

 いました。

 部屋の隅で尻餅を着き、呆然と両脚を投げ出していました。


「ヘンゼル……怪我、は」


 立ち上がろうとした足首を、掴まれました。

 ぽたり。汗が落ちます。

 視線を落としました。

 遠雷が轟いて。

 走る稲光に、シィちゃんが、ゆっくりと首をもたげました。

 そう見えたのです。けれど動いたのは、上顎だけ。すなわち薄汚れたシーツの、ひときわ赤く染まった部分が、更にがぱりと割れて広がり、とうとう顔面が全部、巨大な口そのものになったのでした。

 中には尖った鋸めいた歯が、渦を巻いて密集しています。もうどこが歯茎だか喉だか、わかりません。鮫の悪霊だって、ここまで酷くはないでしょう。

 あまりの姿に、ムゥは捨てたはずの信仰を思い出していました。

 なんて冒涜的な姿だろうか。


『た、り、ナい…………』


 こんな口で食い付かれたら、どうなってしまう?


「ひッ、」


 えぇ。ひとたまりもありません。


「――あぁァああぁッ!」


 ぶちり。一口で、右の脹ら脛が半分、なくなりました。

 そのまま引き倒され、容赦なく二口目が、臑を襲います。骨が砕けました。押さえ付けられていなければ、転げ回っていたでしょう。


「ぐっ、あぁ、が」


 もはや言葉になりません。

 激しく身動ぎ、血を撒き散らしても、三度、四度と激痛が続きます。脚を捉えた力は緩まず、叩こうが揺すろうが離れません。抵抗も空しく、どんなに暴れても、喉から溢れる苦痛が、びりびりと神経を伝って、脳を炙るのみです。


「だめぇええッ!」


 不意に、自分のものではない悲鳴が上がりました。

 一人挟んでいても、わかります。あまりにも親しんだ重みでした。

 ヘンゼル。


「やだっ! やめて! だめ!」


 シィちゃんに飛び付いたヘンゼルは、その背中を殴ります。蹴ります。引っ張ります。掴み、抓り、噛み付き、終いには脇をくすぐり、思い付く限りの攻撃を試みているようでした。

 ヘンゼル、どうして。

 滲む視界で、ムゥは戸惑います。

 動けるようになったなら、どうして逃げてくれなかった。

 だってシィちゃんは離れません。

 それでも、離れてくれません。


「ヘン、ゼ……危な……逃げ……、」


 語尾は、絶叫に変わりました。

 太腿に食い付かれたのです。


「ぐあァああッッ!!」


 噴水のような鮮血が、飛沫を上げました。。

 ぷつん、と。何か、とても大事なものが途切れたような気がします。

 目の前が霞んできました。

 血を失いすぎたのでしょう。

 吐ききった息を吸うのが、ひどく重労働に思えました。

 瞼が、重く、なってきます。


「先生を離せぇええ!」


 とんでもない光景に、閉じかけた眼が見開かれました。

 シィちゃんの背後で、ヘンゼルが何かを振り上げるのが見えたのです。

 なんと、椅子です。

 大人でも掃除が億劫な重量の、しっかりした木製です。

 それを七歳のヘンゼルが持ち上げ、シィちゃんを殴ったのでした。


「この……っ! どけ……! あっちいけ……! いけったら!」


 喚きながら、二度、三度。ヘンゼルは椅子を振り下ろします。

 お前なんてことを…………。

 ムゥの瞳に、意思が戻りました。

 そうだ。呆けてる場合じゃない。

 ヘンゼルを逃がさなくては!


『…………』


 シィちゃんが、振り返りました。


「“護り給え”」


 ムゥは、ヘンゼルのペンダントを指差して、唱えました。

 術者の命により、ペンダントが眩い光を発します。

 光は球となってヘンゼルを包み込み、間一髪、齧り付こうとしていたシィちゃんを弾き飛ばしました。

 “命札(タグ)”を装備させておいてよかった。

 ムゥは、心の底から安堵しました。


「先生! 血が出てる! いっぱい血が出てるよ!」


 取り縋るヘンゼルを、どれだけ抱きしめたかったでしょう。

 でも、まだです。

 まだ安全じゃない。

 ヘンゼルを庵へ。道を示す。

 この指が、あるうちに。


「“導き給え”」


 ヘンゼルを包む光はそのままに、ペンダントから、もうひとつ。

 いえ、もう一筋の光が伸びました。

 それはヘンゼルの向きとは関係なく、東の方角を差しています。


道標(しるべ)だ。それを追っていけ。庵……家がある。そこなら安全だ」

「先生は!?」

「私は…………」


 ちらと、右脚を盗み見ます。

 臑から下は欠損し、残りはほとんど骨になっていました。


「あとから行く。先に行ってくれ」

「うそ! 先生、走れないよ!」

「大丈夫。大丈夫だから」


 微笑むムゥの顔は、既に蒼白です。

 大丈夫なわけがありません。

 七歳の子供にだって、わかります。

 走るどころか、立つことすら難しいでしょう。

 あの化物を撃退できるとは思えません。

 否、それ以前の問題です。

 放っておいたら、死んでしまいます。


「やだ! やだ! やだ!」


 ヘンゼルは、ぶんぶん首を振って、ムゥに抱きつきました。


「聞き分けてくれ。此処は危な……」


 ヘンゼルの後ろに、赤く染まったシーツが伸び上がりました。

 咄嗟にヘンゼルを押し退け、ムゥは、自ら右腕を差し出します。

 当然の権利の如く、シィちゃんが噛み付きました。


「先生……っ」

「いいな? 庵へ行け。そこでセヴァを待つんだ。できるな?」


 言って、ムゥは鼻先で歯を剥くシィちゃんを見据えました。

 頭部は陥没し、シーツは赤と埃に塗れ、それでもなお食欲は失せず。あれもこれも求めて、そのどれでも満たされない、この子は飢餓そのものです。

 哀れな頬に、左手をそっと、添えました。


「私が欲しいならくれてやる。だから、ヘンゼルは見逃してくれ」


 ぶちべきっ。

 返事の代わりに、右腕が食い千切られます。

 不思議にも、さほど痛みは感じません。

 悲鳴を上げたのは、ヘンゼルでした。

 今年の恵方巻きは作ってやれないなぁ。己の右腕が丸齧りで消えてゆくのを見ながら、ムゥが考えていたのは、場違いなくらい暢気なことです。ヘンゼルもセヴァも楽しみにしているんだが。

 もっ、もっ、もっ、もっ、もっ、

 ごくん。

 右腕を食べ終えたシィちゃんが、小首を傾げて、ムゥを見下ろしました。

 何故でしょう。

 眼など何処にもないのに、それはとても、寂しげな色だと思いました。


『む……ほ、シい』


 あぁ。

 薄く笑って答えます。


「おいで」


 腹が、食い破られました。


「うわぁあああぁっ!」


 ヘンゼルの悲痛な声が、やけに遠くから聞こえました。


「ごふっ」


 途端、不快感が胃を迫り上がります。吐き出したのは、どす黒い血でした。肉を食む粘着質な音が、数秒と経たず、湿り気を帯びて悪臭を放ちます。酷い臭いに、ムゥは顔を顰めました。それで咽せて咳き込めば、また気管に絡んだ血が飛んで、繰り返す呼吸が、ひたすら苦痛の連続に変わりました。


「がっ、あっ、あ、」


 腸を引きずり出され、びくんと背が反ります。

 本能的に、指先が空を掻きました。

 どういうわけか、痛みはないのです。

 ただ、血が止まりません。

 口から、鼻から、眼から。呆れるほどの血が流れ出てゆきます。


「やめてやめてやめてやめて!」


 再びヘンゼルが、シィちゃんに掴み掛かりました。

 シィちゃんは、ビクともしません。


「おなかがなくなっちゃうよおぉおお!」


 セヴァさん。セヴァさん。助けて!

 ヘンゼルが、此処にいないセヴァを呼びます。

 痙攣を始めたムゥの片脚が、片手が、血に滑って線を描きます。

 果たして自分の中身が如何ほど詰まっているものか。知りませんが、こうなったら、長くないのは明白です。おそらくあと五分か十分のうちに、綺麗な骨格標本にされてしまうでしょう。いや。骨すら、残してくれるかどうか。

 これは……。

 あぁ。困ったな。

 自嘲の笑みは、血の味がしました。

 限界です。


「シィ……ちゃん」


 シィちゃんが、顔を上げました。

 鮮血に染まる巨大な口腔。

 びっしり喉の奥にまで生えた歯に、血と肉と骨と服の破片が挟まっています。


「ほら……これも……美味い……ぞ……」


 そこへ、ムゥは左手を差し入れました。

 ばぐん。

 手首から先を一口で持っていったシィちゃんが、咀嚼を始めます。

 びくりとその肩が跳ねました。

 二、三度ひっくと喉を鳴らし、大きく仰け反って、胸を掻き毟ります。

 その直後、そこから何本もの尖った棒が飛び出しました。


『!』


 シーツから生えたわけではありません。

 それは種でした。ムゥが左手の指輪に仕込んでいる、いざというときのための術式です。命じれば爆発的に生長し、対象を拘束します。棒と見えたのは蔦で、植物本来の性質を活かした、護身用の魔道具でした。まさかこんな使い方をするとは、ちょっと想定外でしたけれども。

 欠点は、至近距離でないと効力が弱まる点。

 もっと早くにこうして、ヘンゼルを連れて逃げれば良かったんだろうか。

 判断を誤ったなぁと、ムゥはしみじみ後悔しました。


『! ! !』


 シィちゃんが、蔦を振り解こうと藻掻きます。

 どうせ、すぐに齧り切ってしまうでしょう。

 もとより承知の上でした。少し時間を稼ぐことができればいい。

 さぁ、今のうちに。


「……逃……ヘン……ル…………」


 ムゥの瞳から、生気が失せてゆきます。


「……や……」


 ヘンゼルは、がたがた震えて、動けませんでした。

 怖いのです。

 途方もなく怖いのです。

 シィちゃんが?

 いいえ。違います。

 目の前で、ムゥの命が霞んで、弱ってゆくこと。

 師が。恩人が。家族が。

 愛する人が、いなくなってしまうかもしれないこと。

 それが、なによりも怖いのです。

 生まれて初めて、心の底から感じる恐怖でした。

 喉の奥が冷たい。

 頭が痺れて。

 瞬きさえ、恐ろしい。


 どうしよう。どうしよう。

 先生が死んじゃう。

 いなくなっちゃう。

 なんにも話せなくなっちゃう。

 何処にも、いなくなっちゃう。

 ずっとずっと、先生がいなくなっちゃう。

 そんなの嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。

 絶対に!


 うぞうぞ動いていたシィちゃんの裾から、手が二本、伸びました。

 あろうことか、掌に歯が生えています。

 それが、蔦を囓り始めました。


「……やだ……」


 ヘンゼルの瞳が、見開かれたまま、焦点を絞ります。


「嫌だ!」


 そのときでした。

 ヘンゼルの背後に、ぬぅと巨大な影が立ち上がりました。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 雪麻呂先生が、またムゥにやりたい放題しておられる!  グロめと仰っていたのはここか。というかこれ大丈夫? 無事元通りになる? シィちゃん、ちゃんと洗って返してね?  冗談口はさておき、今回はシィち…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ