アンハッピー・ハロウィーン
8.
「あっ……ッ?」
一瞬の出来事でした。
湿った熱が片方の耳を覆うと同時に、ぶつり。肉の千切れる嫌な音を、これ以上ない至近距離で聞いていました。何が起こったのか、まるでわかりません。ハッとして触れた指先には、生暖かい感触が滑るだけ。そこにあるはずの器官が、耳が、ありません。
ぽた。ぽたぽた。鮮血が床に滴ります。
「え、は?」
馬鹿みたいに瞬いて、振り返りました。
すぐ後ろで、シィちゃんが、何かを食んでいました。
くちゃくちゃぎちぐっちゃぐち、
ばきん。
不意の金属音が、ぢりっと傷に響きます。
ピアス?
「うっ……いっ、」
理解するや、鈍い痛みが襲ってきました。
やられた!
くそ、油断した!
そうです。セヴァがあれほど警戒しろと忠告したのに。
つい無防備な背を晒してしまいました。
迂闊でした。セヴァは、刺激しなければ安全だなんて、一言も言っていません。
『……タ……リ……ない』
赤く染まってゆくシーツが、咀嚼しながら、呟きました。
くちゃ、くちゃ、
腕の中のヘンゼルは、置物のように固まっています。
ぬちゃ、ぴち、ぴち、
上下に動くたび、シーツが、裂けてゆきました。
細い三日月を作るそれは、想像どおりの口でした。耳まで届く切れ込みに、狼と見紛うほどの牙。案の定、まともな人間の構造をしていません。そんな口が、ムゥの肉と自らのシーツを、むしゃむしゃ食んでいるのです。
まばらに残って糸を引く繊維が、口枷のように見えました。
実際、そうだったのかもしれません。
だとしたら今、その口を晒す意味とは――。
くちゃ、ぴちゃ。
むち、
ごくん。
「どけっ!」
力いっぱい、ヘンゼルを突き飛ばしていました。
同時に、シィちゃんが齧り付いてきます。
「う、あぁッ!」
文字通り。鋭い歯が、ムゥの肩に食い込みました。
辛うじて首筋を躱しましたが、獣じみた犬歯は、いとも容易く皮膚を破り、肉を裂いて、骨を穿ちます。凄まじい痛みに、頭が真っ白になりました。
「……ッ……離れ……!」
藻掻く指先が、シーツの背を掴みました。
愕然としました。
なんだこれ。
馴染みのある、妙に生々しい弾力。活動している細胞が、掌に応える感触。存在感と一体化した肌理は、断じて布のものではありません。確かにさっきまで、ただの薄っぺらいシーツだったはずなのに。
温度さえなくとも、それはまさしく、生き物の皮膚なのでした。
「やめ、…………!」
ごりっ。鎖骨が軋みます。
堪らず悲鳴を上げ、身を捩りました。
椅子を薙ぎ倒しざま、仰け反ります。
半ば乗り上げるような格好で、テーブルに強か腰を打ちました。
もはや意志と無関係に暴れる指が、シィちゃんの背中を掻き毟って、血を滲ませます。だというのに、この小さな身体は一向に怯まず、ますます執拗に、深く何度も牙を捻じ込むのでした。
えぇ。飢餓の落人が、耳だけで済むはずが、ないじゃありませんか。
ムゥは、今更ながらゾッとします。
これは攻撃ではない。
捕食だ。
呆気なく片耳を失い、肩口に食い付かれて、ようやく思い知りました。この落人の本当の恐ろしさ。セヴァが懸念し、あくまで回避すべきだった事態に、今まさに陥っていることを。この落人は。
きっと、際限がないのです。
善悪の区別なんて、付かないのです。
共存? 説得? もっての外です。
食欲を満たすことだけが目的で、望みで、存在意義の怪物。
――底なし、なのです。
「あ、あぁ、」
ぎちぎち、ぶちっ。
肩の肉を大きく食い千切られました。
絶叫し、髪を振り乱して頭を振ります。
と、こつん。何かが頬に当たりました。
ペンです。
メモ帳と一緒に、普段からテーブルに置いてあるものです。スタンドから外れて転がってきたのでしょう。
躊躇っている暇はありませんでした。
ムゥはそれを握って、渾身の力で、シィちゃんの背中に突き刺しました。
『!』
肩に刺さっていた歯が、僅かに浮きます。
すかさず身体を捻り、シィちゃんの頭をテーブルに叩き付けました。
とても嫌な手応えがありました。傷の痛みも、吹き出す血も、忘れるくらいに、最悪の感触でした。でも、加減する余裕はありません。
眼を眇め、息を切らせて、何度も何度も、角を目掛けて。ヘンゼルよりも小さな身体を叩き付けました。無我夢中でした。
『っ! っ! っ!』
何度目かの殴打で、やや変形したシーツの塊が、ずるりと崩れ落ちました。
「……はっ……はぁっ……」
脱力して、傍らに膝を突きます。
汗と涎と血の混じった液体が、床をぽつぽつ汚しました。
「う……はぁ」
そうだ、ヘンゼルは? 無事か?
急ぎ面を上げ、周囲を見回します。
いました。
部屋の隅で尻餅を着き、呆然と両脚を投げ出していました。
「ヘンゼル……怪我、は」
立ち上がろうとした足首を、掴まれました。
ぽたり。汗が落ちます。
視線を落としました。
遠雷が轟いて。
走る稲光に、シィちゃんが、ゆっくりと首をもたげました。
そう見えたのです。けれど動いたのは、上顎だけ。すなわち薄汚れたシーツの、ひときわ赤く染まった部分が、更にがぱりと割れて広がり、とうとう顔面が全部、巨大な口そのものになったのでした。
中には尖った鋸めいた歯が、渦を巻いて密集しています。もうどこが歯茎だか喉だか、わかりません。鮫の悪霊だって、ここまで酷くはないでしょう。
あまりの姿に、ムゥは捨てたはずの信仰を思い出していました。
なんて冒涜的な姿だろうか。
『た、り、ナい…………』
こんな口で食い付かれたら、どうなってしまう?
「ひッ、」
えぇ。ひとたまりもありません。
「――あぁァああぁッ!」
ぶちり。一口で、右の脹ら脛が半分、なくなりました。
そのまま引き倒され、容赦なく二口目が、臑を襲います。骨が砕けました。押さえ付けられていなければ、転げ回っていたでしょう。
「ぐっ、あぁ、が」
もはや言葉になりません。
激しく身動ぎ、血を撒き散らしても、三度、四度と激痛が続きます。脚を捉えた力は緩まず、叩こうが揺すろうが離れません。抵抗も空しく、どんなに暴れても、喉から溢れる苦痛が、びりびりと神経を伝って、脳を炙るのみです。
「だめぇええッ!」
不意に、自分のものではない悲鳴が上がりました。
一人挟んでいても、わかります。あまりにも親しんだ重みでした。
ヘンゼル。
「やだっ! やめて! だめ!」
シィちゃんに飛び付いたヘンゼルは、その背中を殴ります。蹴ります。引っ張ります。掴み、抓り、噛み付き、終いには脇をくすぐり、思い付く限りの攻撃を試みているようでした。
ヘンゼル、どうして。
滲む視界で、ムゥは戸惑います。
動けるようになったなら、どうして逃げてくれなかった。
だってシィちゃんは離れません。
それでも、離れてくれません。
「ヘン、ゼ……危な……逃げ……、」
語尾は、絶叫に変わりました。
太腿に食い付かれたのです。
「ぐあァああッッ!!」
噴水のような鮮血が、飛沫を上げました。。
ぷつん、と。何か、とても大事なものが途切れたような気がします。
目の前が霞んできました。
血を失いすぎたのでしょう。
吐ききった息を吸うのが、ひどく重労働に思えました。
瞼が、重く、なってきます。
「先生を離せぇええ!」
とんでもない光景に、閉じかけた眼が見開かれました。
シィちゃんの背後で、ヘンゼルが何かを振り上げるのが見えたのです。
なんと、椅子です。
大人でも掃除が億劫な重量の、しっかりした木製です。
それを七歳のヘンゼルが持ち上げ、シィちゃんを殴ったのでした。
「この……っ! どけ……! あっちいけ……! いけったら!」
喚きながら、二度、三度。ヘンゼルは椅子を振り下ろします。
お前なんてことを…………。
ムゥの瞳に、意思が戻りました。
そうだ。呆けてる場合じゃない。
ヘンゼルを逃がさなくては!
『…………』
シィちゃんが、振り返りました。
「“護り給え”」
ムゥは、ヘンゼルのペンダントを指差して、唱えました。
術者の命により、ペンダントが眩い光を発します。
光は球となってヘンゼルを包み込み、間一髪、齧り付こうとしていたシィちゃんを弾き飛ばしました。
“命札”を装備させておいてよかった。
ムゥは、心の底から安堵しました。
「先生! 血が出てる! いっぱい血が出てるよ!」
取り縋るヘンゼルを、どれだけ抱きしめたかったでしょう。
でも、まだです。
まだ安全じゃない。
ヘンゼルを庵へ。道を示す。
この指が、あるうちに。
「“導き給え”」
ヘンゼルを包む光はそのままに、ペンダントから、もうひとつ。
いえ、もう一筋の光が伸びました。
それはヘンゼルの向きとは関係なく、東の方角を差しています。
「道標だ。それを追っていけ。庵……家がある。そこなら安全だ」
「先生は!?」
「私は…………」
ちらと、右脚を盗み見ます。
臑から下は欠損し、残りはほとんど骨になっていました。
「あとから行く。先に行ってくれ」
「うそ! 先生、走れないよ!」
「大丈夫。大丈夫だから」
微笑むムゥの顔は、既に蒼白です。
大丈夫なわけがありません。
七歳の子供にだって、わかります。
走るどころか、立つことすら難しいでしょう。
あの化物を撃退できるとは思えません。
否、それ以前の問題です。
放っておいたら、死んでしまいます。
「やだ! やだ! やだ!」
ヘンゼルは、ぶんぶん首を振って、ムゥに抱きつきました。
「聞き分けてくれ。此処は危な……」
ヘンゼルの後ろに、赤く染まったシーツが伸び上がりました。
咄嗟にヘンゼルを押し退け、ムゥは、自ら右腕を差し出します。
当然の権利の如く、シィちゃんが噛み付きました。
「先生……っ」
「いいな? 庵へ行け。そこでセヴァを待つんだ。できるな?」
言って、ムゥは鼻先で歯を剥くシィちゃんを見据えました。
頭部は陥没し、シーツは赤と埃に塗れ、それでもなお食欲は失せず。あれもこれも求めて、そのどれでも満たされない、この子は飢餓そのものです。
哀れな頬に、左手をそっと、添えました。
「私が欲しいならくれてやる。だから、ヘンゼルは見逃してくれ」
ぶちべきっ。
返事の代わりに、右腕が食い千切られます。
不思議にも、さほど痛みは感じません。
悲鳴を上げたのは、ヘンゼルでした。
今年の恵方巻きは作ってやれないなぁ。己の右腕が丸齧りで消えてゆくのを見ながら、ムゥが考えていたのは、場違いなくらい暢気なことです。ヘンゼルもセヴァも楽しみにしているんだが。
もっ、もっ、もっ、もっ、もっ、
ごくん。
右腕を食べ終えたシィちゃんが、小首を傾げて、ムゥを見下ろしました。
何故でしょう。
眼など何処にもないのに、それはとても、寂しげな色だと思いました。
『む……ほ、シい』
あぁ。
薄く笑って答えます。
「おいで」
腹が、食い破られました。
「うわぁあああぁっ!」
ヘンゼルの悲痛な声が、やけに遠くから聞こえました。
「ごふっ」
途端、不快感が胃を迫り上がります。吐き出したのは、どす黒い血でした。肉を食む粘着質な音が、数秒と経たず、湿り気を帯びて悪臭を放ちます。酷い臭いに、ムゥは顔を顰めました。それで咽せて咳き込めば、また気管に絡んだ血が飛んで、繰り返す呼吸が、ひたすら苦痛の連続に変わりました。
「がっ、あっ、あ、」
腸を引きずり出され、びくんと背が反ります。
本能的に、指先が空を掻きました。
どういうわけか、痛みはないのです。
ただ、血が止まりません。
口から、鼻から、眼から。呆れるほどの血が流れ出てゆきます。
「やめてやめてやめてやめて!」
再びヘンゼルが、シィちゃんに掴み掛かりました。
シィちゃんは、ビクともしません。
「おなかがなくなっちゃうよおぉおお!」
セヴァさん。セヴァさん。助けて!
ヘンゼルが、此処にいないセヴァを呼びます。
痙攣を始めたムゥの片脚が、片手が、血に滑って線を描きます。
果たして自分の中身が如何ほど詰まっているものか。知りませんが、こうなったら、長くないのは明白です。おそらくあと五分か十分のうちに、綺麗な骨格標本にされてしまうでしょう。いや。骨すら、残してくれるかどうか。
これは……。
あぁ。困ったな。
自嘲の笑みは、血の味がしました。
限界です。
「シィ……ちゃん」
シィちゃんが、顔を上げました。
鮮血に染まる巨大な口腔。
びっしり喉の奥にまで生えた歯に、血と肉と骨と服の破片が挟まっています。
「ほら……これも……美味い……ぞ……」
そこへ、ムゥは左手を差し入れました。
ばぐん。
手首から先を一口で持っていったシィちゃんが、咀嚼を始めます。
びくりとその肩が跳ねました。
二、三度ひっくと喉を鳴らし、大きく仰け反って、胸を掻き毟ります。
その直後、そこから何本もの尖った棒が飛び出しました。
『!』
シーツから生えたわけではありません。
それは種でした。ムゥが左手の指輪に仕込んでいる、いざというときのための術式です。命じれば爆発的に生長し、対象を拘束します。棒と見えたのは蔦で、植物本来の性質を活かした、護身用の魔道具でした。まさかこんな使い方をするとは、ちょっと想定外でしたけれども。
欠点は、至近距離でないと効力が弱まる点。
もっと早くにこうして、ヘンゼルを連れて逃げれば良かったんだろうか。
判断を誤ったなぁと、ムゥはしみじみ後悔しました。
『! ! !』
シィちゃんが、蔦を振り解こうと藻掻きます。
どうせ、すぐに齧り切ってしまうでしょう。
もとより承知の上でした。少し時間を稼ぐことができればいい。
さぁ、今のうちに。
「……逃……ヘン……ル…………」
ムゥの瞳から、生気が失せてゆきます。
「……や……」
ヘンゼルは、がたがた震えて、動けませんでした。
怖いのです。
途方もなく怖いのです。
シィちゃんが?
いいえ。違います。
目の前で、ムゥの命が霞んで、弱ってゆくこと。
師が。恩人が。家族が。
愛する人が、いなくなってしまうかもしれないこと。
それが、なによりも怖いのです。
生まれて初めて、心の底から感じる恐怖でした。
喉の奥が冷たい。
頭が痺れて。
瞬きさえ、恐ろしい。
どうしよう。どうしよう。
先生が死んじゃう。
いなくなっちゃう。
なんにも話せなくなっちゃう。
何処にも、いなくなっちゃう。
ずっとずっと、先生がいなくなっちゃう。
そんなの嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
絶対に!
うぞうぞ動いていたシィちゃんの裾から、手が二本、伸びました。
あろうことか、掌に歯が生えています。
それが、蔦を囓り始めました。
「……やだ……」
ヘンゼルの瞳が、見開かれたまま、焦点を絞ります。
「嫌だ!」
そのときでした。
ヘンゼルの背後に、ぬぅと巨大な影が立ち上がりました。




