まだ足りない
7.
「カードゲームをしよう」
生き残ったスケッチブックを隠して、ムゥはトランプを持ち出しました。
ソファへ移動して、両脇にヘンゼルとシィちゃんを招きます。自分が間に割って入ることで、喧嘩でも始まったら、すぐ二人を引き離そうという魂胆でした。此方にも小さなテーブルがありますし、後ろは窓で、玄関にも近い位置取り。これならいざという時に、ヘンゼルを逃がせる。
「わあすごい!」
リフルシャッフル。
ムゥが器用にカードを捌くのを見て、ヘンゼルが感嘆の声を上げます。
「シィちゃんやったことある? トランプだよ」
訊ねるヘンゼルに、やはりシィちゃんは答えません。
せっかく気持ちを切り替えてくれたのに、とムゥの方が罪悪感を憶えました。
「なにするの?」
「そうだな……」
まぁ、やったことはないでしょう。それなら、ルールの簡単なババ抜きか。
その後、複雑なゲームに移行して時間を稼いで……。
考えながらカードを切り、底を叩いて揃えます。
と、その腕をシィちゃんが、ぐっと掴みました。
「ひッ!?」
思わず手を引っ込めて、しまったと思いました。
これは気を悪くしただろうか?
「あ、ど、どうした?」
内心慌てふためきながら、なんでもないふうを装って、微笑みました。
頬が攣りそうでしたが、機嫌を取らねばなりません。なにせ怒らせたら不味い。気味悪がられ、忌避されるのは、誰だって不愉快ですもの。言葉にしないだけで、シィちゃんがそう感じている可能性は汲むべきでした。
『ほシい』
喋った!
……今度はちゃんと飲み込みました。
よく我慢したものです。だってその声ときたら、硝子を引っ掻いたような、錆びた蝶番が軋んだような、金切り声。そのくせ暗く低く、抑揚のない、まるでオウムの人真似で、ざわり首筋を波立たせる、ひどく無神経な雑音なのでした。
『そレほシい』
言われてムゥは、手中にあるカードの束に目を落とします。
「これか?」
試しに一枚引いて、恐る恐る差し出してみました。
「あ! 数字とマーク当てるやつ?」
ヘンゼルが無邪気に覗き込んできます。
手品だと思ったのでしょう。
カードの裏を当てるあれですね。時々、ヘンゼルにせがまれるのです。
「待ってね、えっとね、とうしの呼吸」
ヘンゼルは念力(のつもり)を眼に全集中し、じっとカードを凝視します。
毎回ムゥとセヴァが、そうやってカードを透視するという趣向でした。これを心から不思議がってくれるものですから、披露する方も結構、楽しんでいます。実は二人はグルで、仕草や表情、指の数など巧みに使い分け、こっそり教えているだけなのですが。
「うーん……ダイヤ……ちがう?」
眉間に皺を寄せ、ヘンゼルが首を傾げました。
正解はムゥも知りません。
ちょっと気になって、ちらと視線を乗り出しました。
その瞬間、目にも留まらぬ速さで、シイちゃんがカードを奪い取りました。
「あっ」
という間でした。
シーツの口元が、もごもごとカードを咀嚼していました。
ごくん。咀嚼音がして、なんともいえない空気が流れます。
『足りナい』
ムゥは慌てて、もう一枚、カードを差し出しました。
しゅる。ぺろり。
更に一枚。しゅる。ぱりぱり。
しゅる、ぱりしゅるぺり、しゅるぱりぱりぱりぱりぱりぱりぱり。
出すそばから、カードがシィちゃんに食べられてゆきます。山羊に餌でもやっている気分でした。そういえばセヴァの故郷に、こんな料理? 配膳? があるとか聞いたな。わんこだかにゃんこだか、蕎麦を……。
軽い現実逃避に陥るムゥは、さぞ心労が溜まっているのでしょう。もはや全自動カード排出機と化し、送っては食われ、食われては送りを繰り返して、五十四枚を給仕し終わるのに、三十秒と掛かりませんでした。
「よし! 別の遊びをしよう!」
何がヨシなのか自分でもわかりませんが、此処にいる大人は己のみです。ムゥは空になった手をパンと叩き、平和的な提案を試みました。
「…………」
おや。
てっきり反発すると思ったのに、ヘンゼルは静かです。
ただ、唇を引き結んで、鼻の頭に皺を寄せ、極めて非難がましい、じっとりした視線をムゥに突き刺してくるのでした。
「あ、ごめんな、ヘンゼル」
「…………」
「カード当てるの、やりたかったな、すまない」
「…………」
「また今度やろうな? セヴァも一緒にな?」
「…………」
「け、ケーキ焼いてやるから!」
「……いつ?」
「えっと、そのうち、あとで、いや明日!」
「…………」
「約束する! 明日だ!」
最悪の空気です。
ムゥだって、本意ではありません。こんなものは、あからさまな贔屓です。教育理念にも反します。ヘンゼルが可哀想です。えぇ。重々、承知しているのです。緑の潤んだ眼が、ずきずきと心に痛い。わかっています。
でも、堪えてくれ。
一晩。一晩だけ。
「…………」
ムゥの胸中が通じたのか、諦めたのか。
懇願するかのような笑顔に、ヘンゼルは不承不承、頷きました。
どのみち、カードがなくてはトランプゲームはできないのです。
元凶のシィちゃんは、やっぱり、じっとそんな二人を見つめていました。
お通夜のような雰囲気の中、ボードゲーム大会が始まりました。
「久し振りだなあ! よく三人でやったなあ!」
ムゥだけが、無駄にハイテンションです。密かに元気になるドリンクをキメて、半ば自棄でした。こうでもしないと、やってられません。わざと大仰な身振りで、抱えたボードを床に置き、ドンと胡座を掻きました。
これまた、よくあるゲームです。広げたボードがマップになっていて、その上で擬似的な冒険をするのです。スタートからゴールまで道順に沿って移動し、最初にゴールした者の勝ち。簡単ですね。
順路は一マスずつ区切られていて、サイコロを振り、出た目の数だけ進みます。その際、止まったマスに指示があれば、それに従わなくてはなりません。一回休みだったり一マス戻るだったり、です。セヴァは「双六だな」と言っていました。
「今日は良い子だからなあ! ヘンゼルが一番手だな!」
ムゥは精一杯の気を利かせて、ヘンゼルにサイコロを手渡します。
受け取りはしたものの、あまり嬉しそうではありません。
いつもなら、なんでも一番を喜ぶ子なのですが……。
「……うん、いいけどね、まぁ」
溜息交じりで無造作にサイコロを振る様は、不機嫌に満ちていました。
「あ」
出た目は六です。
「おぉすごいな! やるじゃないか!」
「え? そ、そう?」
「あぁ! 最初から最高の出目なんて、幸先いいな!」
「ん……うん」
それでも大袈裟に褒めれば、少しだけ、興が乗ったらしい。
やっと表情を緩めて、自分の駒に手を伸ばしました。
ムゥも僅かに人心地を取り戻します。
それなのに!
『こレほしイ』
またもやそれを、シィちゃんが横から奪い去ったのです。
「っこら!」
「だめー!」
ムゥとヘンゼルは、同時に立ち上がりました。
これらの駒はムゥが木彫りで作ったもので、兎や狐など、それぞれ動物を模しています。ややコミカルにデザインされた形状は、美しくも愛らしく、中でも馬の駒は、ヘンゼルいちばんのお気に入りでした。
その大切な駒が、シィちゃんのシーツに、吸い込まれてゆきます。
ばっき。
ぼき、ごき、ごりごり、ぼりぼりごりがり、
「それっ、ぼくの……!」
「待てヘンゼル!」
ヘンゼルが、シィちゃんに掴み掛かりました。
「ひどい! お気に入りなのに! ぼくの!」
「落ち着け! また作ってやるから!」
「ぼくの! お馬さんなのに!」
どうにか押し止めましたが、ヘンゼルの勢いは収まりません。ムゥに腕を抱えられながらも、宙を蹴り上げ、身体を捩って抵抗します。宥めようと声を掛けても、聞く耳を持たないのです。これは相当、頭に血が上っています。
仕方がないので、後ろへ引きずって、力尽くで引き剥がしました。
「いたぁい! はなして!」
「駄目だヘンゼル! 落ち着きなさい!」
「ぼく悪くないのに!」
これだけ目の前が大騒ぎになっているにも関わらず、シィちゃんは、まったく気に留めたふうもありません。きょとんと小首を傾げて、こくん。さも当然の権利のように、馬の駒だったものを飲み込みました。
のみならず、更に別の駒へも手を伸ばします。
ヘンゼルが、ますます興奮します。
「返せ! 返してよう!」
「ヘンゼル、ヘンゼル! 落ち着いてくれ頼むから!」
「やだ! ぼくの大事なもの全部食べられちゃう!」
「あれは怒らせたら駄目なんだ! 我慢してくれ!」
「いっぱいしたもん! ぼくばっかり! シィちゃんが悪いのに!」
「――いいから黙れ!!」
びくっ、とヘンゼルの身体が硬直します。
あぁいけない。つい。焦りに任せて。
ムゥは慌てて、小さな身体を羽交い締めにしていた腕を緩めました。
こんなに力を込めていたなんて。気付きませんでした。
「…………ぅ」
がくりヘンゼルの肩が落ち、ムゥに背を預けて、項垂れます。
拘束を解かれても、もう暴れようとはしませんでした。
その代わり、大粒の涙が、ぽろぽろと頬を伝います。
「うぅええ……ひっぐ……」
やってしまいました。
ムゥも大変ですが、ヘンゼルだって限界だったのです。
ろくな説明もしないまま、散々理不尽を強いて、本来不要な我慢をさせました。お腹も空いているでしょう。日常ではない時間に、初めての人間関係に、疲れたでしょう。七歳児が我慢できるはずが、なかったのです。
「すまない。すまなかった。今のは私が悪い」
怒鳴ってしまった後悔で、ムゥは頭が冷えました。
でも却って、どうすればいいのわからなくなりました。いつも取り持ってくれるセヴァもいません。ただ不器用に、泣きじゃくるヘンゼルを抱きしめて、とんとんと背中を叩くことしか、できないのでした。
「先生、ぼくきらい?」
「そんなわけあるか! 大好きに決まってる」
「じゃあなんで? いじわる言うの?」
「意地悪じゃないんだ。これはな……」
屈んで、ヘンゼルの金髪を撫でます。汗ばんでいました。
もう全部、説明するべきだろうか。
お前の初めての友達は、決して関わってはいけない類いのものだと。
そんな残酷な事実を突きつける必要があるのか?
いや。いや。そうじゃない。ヘンゼルの安全が最優先だろう。
本当に危険だということだけ、理解させるんだ。
心配だが、一人で“庵”へ行かせても……。
『…………』
背後に、いつの間にか、シィちゃんが立っていました。
ムゥはヘンゼルのことで頭がいっぱいです。気付きませんでした。
シィちゃんは、二人を見ていました。
ずっと、ずっと見ていました。
此処へ来たときから、ずっと見ていました。
自分にないものを、なんでも持っているヘンゼルを。
ヘンゼルに、なんでも惜しみなく与えてくれるムゥを。
どうして、二人とも満たされているのでしょう。
そんなに与えて、何故なくならないのでしょう。
何処に、それほど持っているのか。
ムゥ。
見ていると、お腹が空きます。
喉が渇きます。
胸が、頭が、そわそわします。
その感情の名前を、シィちゃんは知りません。
あぁ。
『ムゥ、ほしイ』
食べたら、わかるでしょうか。




