早すぎる!
6.
泥濘を跳ね上げる地下足袋が、粘る音を立てます。
作務衣は重く雨を吸い、しとどに濡れた金髪の、首や額に張り付くのが鬱陶しいこと。遠雷も姦しく、閃光に一瞬、端正な横顔が歪めば、またすぐ夜道は真っ暗になりました。
がさり。
両脇に居並ぶ樹木の合間で、何かが、赤く光ります。
「ちッ」
次の瞬間、飛び掛かってきたそれ目掛けて、セヴァは錫杖を振り下ろしました。
ぐにゃりと嫌な感触に、悲痛な呻き声が重なります。
「餓鬼めらが」
構わず低く吐き捨て、睨み付けました。
骨と皮だけに痩せこけた体躯。枯れ木めいた手足。土色の肌、崩れた鼻。窪んだ眼窩に生気はなく、ざんばらに髪の抜け落ちた人相は、なんて卑屈なのでしょう。そのくせ眼ばかりが、ぎらぎらと赤く輝いているのです。なにより異様なのが、腹でした。身体中の水分を集めたかの如く、歪に膨らんでいます。
まさしく、伽噺に出てくる亡者そのもの。
「増えてきたな……」
地面に転がった餓鬼を蹴飛ばして、セヴァは再び走り出します。
目指すは西です。
そこは、誰も知らない秘密の場所でした。常に強固な結界で閉ざされ、ある複雑な手順を踏み、番人としての権限がなければ、辿り着くことのできない空間。ムゥにも行き方を教えていない、神域です。
セヴァは、それを“箱”と呼んでいました。
森には様々な死者が訪れます。大抵は他愛のない残留思念が実体化しただけの、無害なものです。それだって関わり方によっては面倒事に発展するのですが、基本は大人しいのです。要は付き合い方を間違えなければ良い。
でも、中には、どうしようもない魂がありました。
食物を、愛情を、権力を、才能を。欲し、求め続けて、餓えに餓え、終ぞ得られず、執着に絡め取られて、逃れられなくなったものたち。そんな重い魂が、純粋な飢餓として顕れることが、希にあるのです。
森に放しておくことはできません。なんでも食べてしまいます。草を毟り、花を手折り、樹木を囓り、虫を頬張り、兎を追い掛け、鹿に、猿に襲い掛かる。かつて目にした光景は、さながら地獄の食卓。さすがに滅入りました。
かと言って、現世へ送り返すのは、理に反します。ひとつ掛け違えればそこから簡単に崩れてしまう、あんな脆い世界では、例外は恐ろしい脅威なのです。
だから封じていたのです。
一ヶ所に集め、圧縮した空間に詰めて、蓋をする。そういう術を構築し、施してからもう、千年になるでしょうか。確かに近いうち浄化しなければならない時期でしたが、それでもあと五百年は持つ算段だったのに。
「穢れが漏れてやがる――」
やっぱり彼奴か。布野郎か。
セヴァは、奥歯を噛みしめます。
あれは最初から厄介だった。人として生まれながら、呪具として扱われ、生きていた頃から餓鬼だった。そんなのが十三人も融合して、ひとつの概念になろうとしていた。妙な仏心を起こさず、あのとき滅しておくべきだったか。
どうしてこんな早くに?
力を蓄えながら、出る機会を窺っていた?
何かの理由で封印が弱った?
中で更に蠱毒が起こった?
いや。まさか……。
現世で使った奴がいるのか? あんなものを?
「呪詛返し……?」
誰かが使ったあの呪具が、まさかの呪詛返しに遭って、開いた。
返しの呪を含んだ穢れは何倍にも膨れ上がり、封印を破って、森に溢れた。
それが、ヘンゼルの元へ訪れてしまった……?
真相は、わかりません。それなら説明が付く、という仮定です。
なんにせよ、あれに名を与え、呼び込んでしまったのは、非常に不味い。
家にも結界を張ってありますし、自分を餌にして引きつけてはいますが、漏れた餓鬼は他にも大勢いるのです。ムゥとヘンゼルの方へ移動する可能性だって、充分ありました。急がねばなりません。
「!」
左右から、小振りな餓鬼が二匹、奇声を上げて飛び込んできます。
両手を広げ、それらを押し止める姿勢で、一呼吸。次いで掌に魔力を込めれば、鋭く生じた眩い光が、球となって二匹を打ち払いました。
やや後方に三匹。
走りながら腕だけを背に回し、指を弾きます。放たれた魔力は地面へ張り付き、するすると広がって、巨大な光の網を織り上げました。そこへ餓鬼たちが踏み込むや否や、たちまち網は四方を縫い合わせ、口を閉じてしまいます。哀れ餓鬼たちは収縮する光に、そのまま飲み込まれて、為す術なく潰れてゆきました。
「ッと、」
上手く逃れたのでしょう。腰から下をなくした一匹が、倒れつつもセヴァの足首を掴んでいます。
必死の形相ではありますが、これではどのみち、たいして動けません。
石突きで串刺しにするだけで済みました。
「わんさか湧いてきやがるなァ……」
餓鬼の頭を踏み付け、前へ向き直ったセヴァは、眼を眇めます。
暗い森の中、生い茂る樹木に、おびただしい数の赤い光が隠れていました。
幹、枝、根元。およそ遮蔽の可能な部分に、或いは囁きながら、或いは泣きながら、或いは怒りを露わにして、此方を見ています。その手には、囓りかけの小枝や動物の脚。今以て草を食んでいる者。口から自分のものではない血を滴らせている者。くちゃくちゃと、不快な咀嚼音が、さざめいて合唱します。
誰も彼も、飢えていました。
まだ足りずに、セヴァを狙っているのです。
これを餓鬼と言わずして、なんと言うのでしょう。
「上等だ」
セヴァは、ぷっと掌に唾を吐きかけました。
「誘ッといてナンだがな」
まどろッこしいのは好きじゃねェ。
ここらで一丁、大掃除といくかい。
握りしめた錫杖を構え、高らかに笑います。
「俺様を取って食おうなんざ、百年早ェ!」




