あなたとワルツを
10.
セヴァが、森を駆けます。
「俺様をなんだと思ってンだ! 罰当たりが!」
「仕方ないだろう! 他の移動手段がないんだから!」
「俺は! お前の! おッ母でも馬でもねェんだよ!」
「じゃあ脚だな!」
その背中にしがみ付きながら、ムゥは軽口を返します。
一昨日から、何度こうしてセヴァの背で悪態を吐いたでしょう。やむを得ないとはいえ、そろそろ背負われるのに慣れてきた自分が、情けなくなります。
「騎士様ァ、瓢箪池だ。そッから動いてねェ」
「やっぱりか」
そんな気がしていました。
ヘンゼルを置いてきて正解でした。また入水されては困ります。
おとなしく待ってくれているでしょうか。
夕刻くらいかと思っていたのに、家を出たとき、陽はすっかり暮れていました。今頃は、一人で食事をしているのだろうか。初日も怖い思いをさせたのだし、騒動が無事解決したら、何かで機嫌を取らなくては。
「! おひいさんも近付いて来てるぜ」
セヴァが耳を傾け、鼻を鳴らしました。
「だろうな。あれはたぶん、二体で一つの落人だ」
「この期に及んで逢い引きか。いい根性してやがる」
「……そうだな」
えぇ、そうです。
そんな気がしていたのです。
「で、どォすんだ? 出てッてブチ壊すかい?」
「…………」
ムゥは、応えられません。
懸念はありました。
騎士人形がどういうつもりなのか、わかりません。また厄介事を引き起こすのかもしれないし、事態が悪化するかもしれない。自分たちが駆け付けたとして最悪、修羅場に巻き込まれる可能性だってあります。
けれど今、ムゥを急き立てているのは、不安でも恐怖でもなく。
自分でも説明の付かない、胸騒ぎでした。
騎士人形の目的がどうあれ、姫人形の選択がどうあれ、その行く末を、結末を、自分たちは見届けなければならない。
何故だか、そう思うのです。
「せッかくの十五夜なのによゥ。のんびり月見でもしたかったぜ」
ムゥの胸中を察したのか、セヴァが大袈裟に嘆息しました。
夜空を見上げれば、なるほど。見事な満月が、宵闇の森を照らしています。
昨夜の姫人形の、諦めたような笑顔が、ムゥの脳裏を過りました。
あぁ、そうか。
そうだったのか。
待っていたのは、彼女じゃない。
彼の方が、彼女を――。
「着くぜ、備えな」
流れていた景色が急停車して、セヴァの草履が、土埃を上げます。
放り出されそうになるのを耐え、ムゥは前方を見据えました。
道が開けて、湖畔に佇む等身大の人影が、ふたつ。
射し込む月光の下で、騎士と姫が、向かい合っていました。
『お迎えに上がりました。姫』
騎士が片膝を突き、臣下の礼を取ります。
『こんなところまで、ご苦労ね』
見下ろす姫は、相も変わらず優雅で、可憐で、空虚です。
仁王立で警戒するセヴァが、つんと尻を突いてきました。
金色の視線が、どうする、と訊ねています。
少し考えて、ムゥは首を横に振りました。
『でもいらないわ。わたしは自由なの』
『いいえ。貴女は未だ捕らわれています』
『わたしは自由なのよ』
『いいえ』
毅然として述べ、騎士は立ち上がりました。
するり。差し伸べた手は、彼女に届かず空を掴みます。
『掴まらないわ。触れられないわ。わたしは自由よ。無邪気に踊るのだわ』
ドレスの裾を翻らせて、姫が湖面へ躍り出ました。
亜麻色の巻き髪が跳ね、華奢な腰が反り、ゆったりと三歩。リズムに乗せて歩む脚は、ほっそりと白く、既に男性の面影はありません。間に合わなかったのだろうか。ムゥは焦って眼を凝らしました。
また三歩。赤い靴から、ぽたり滴が落ちます。
息を呑みました。
違う。あれは靴じゃない。あれは。
たおやかなステップが水面を揺らすたび、細波と共に広がる波紋は、青白い月夜に禍々しいほどの赤。
あれから三日も経つのです。無理もありません。土を抉り、草に切れ、石に擦れて、裸足で踊り続けた爪先が、踵が、血塗れに赤く染まっていたのでした。
ぎりっ。知らず奥歯が鳴ります。ムゥは拳を握りました。
何が自由だ。そんなになってまで。
どうして。
『ひとりでワルツを?』
訊ねる騎士は、きっとムゥと同じ顔をしていました。
『他に知らないもの』
なんでもないことのように応えて、姫は踵を返します。
『その脚、もう長くは保ちますまい』
踏み出そうとした赤い靴が、ふと止まりました。
『どうぞ最後の一曲を、俺と』
跪いて、騎士が手を差し伸べます。
姫の長い睫毛が、俯いたまま微かに震えました。
『……そうね』
それも悪くないわ。
無骨な掌に、白魚の手がそっと、重なりました。
騎士は、宝物を抱くように姫の肩へ手を添え、立ち上がります。
そして優雅な仕草で一礼し、彼女を湖へと導きました。
らん らららん らんらららん
らん らららん らん らん らん
『わたし、お前のことは好きよ』
三歩。湖面の月が揺れます。
『でも恋じゃないの。ごめんなさいね』
『存じ上げております』
赤い波紋が、しとどに六歩。
『もういいのよ。お前も自由なのだわ。好きにしていいのよ』
『ですので、お迎えに上がりました』
『何も返せないわ。あげられないわ』
『構いません』
ターン。
白いドレスの裾が、ふわり広がって、弧を描きます。
『ずっとお傍にと。そう申しました』
満天の星空の下、緩やかなステップが、湖を縁取ります。
右へ大きく。左へ小さく。繊細に前進し、大胆に後退し、緩やかに高く、素速く低く。虫の音の夜想曲に腰を反らせば、月光のスポットライトが、寄り添う二人へと注ぎます。騎士の力強い先導は、けれど決して姫を翻弄せず、静かに寄り添う姫は、ただ従うのみではなく。募る言葉を吐息に変えて、繋がる輪郭が、くるくると水面を滑りました。
とんだお伽噺があったもんだ。
セヴァが小さく吐き捨てます。
ムゥは唇を噛みました。
借り物の脚で踊り続けて、結局何処へも行けなかった、お姫様。
いくらでも与える愛があるのに、ひとつも受け取られない騎士。
ちぐはぐで、馬鹿馬鹿しくて、どこまでも噛み合わない。
あんまり 月が 綺麗だから
わたしは 舞台を 抜け出した
気付けば 深い森の 中を
彷徨っている
お迎えは いらないわ
わたしは 自由 なのよ
見たこともない 広い 世界が
おいで と 呼んで いるの
べきんッ。
姫の唄が途切れて、細い肢体が、前へのめります。
すかさず騎士が抱き留めて、気遣うように視線を下げます。
姫の足首が片方、真横を向いて捻じ曲がっていました。
『限界ね』
騎士の首筋に撓垂れ掛かり、姫が溜息を吐きました。
『新しい脚を探してくれる?』
セヴァが、尻尾の毛を逆立てて身構えました。
ムゥは慌ててセヴァの尻を抓りました。自分だって声を上げそうになったのですが、それよりこの短気な相棒を止めねばなりません。ン゛っと残念な悲鳴を殺して睨む横顔に、しっと人差し指を立ててみせます。
『それには及びません』
ムゥの胸中を知っているのか、いないのか、騎士は頭を振りました。
そうして、ふわり。
花嫁衣装のようにドレスを靡かせ、姫の身体が、水面を離れて。
『これよりは、俺が貴女の脚となりましょう』
横抱きに抱き上げられた姫は、ぱちくりと瞬きました。
ぽたり。爪先から滴る血が、まだらに水を汚します。
それをなによりも愛おしげに一瞥して、騎士は、姫を見つめました。
『貴女の見たいものを見ましょう。行きたい場所へ行きましょう。好きなものだけ愛でましょう。俺がお連れします。お許し願えますか』
愛の告白というには、あまりにも堅苦しい声音でした。
でも、姫は知っています。
これが彼なのです。彼の精一杯なのです。
いつだって、そうでした。この男は、生真面目で無骨で、面白味も、洒落っ気もなく、冗談一つ言わない。だからこそ、信じていました。ずっとずっと最後まで、誰よりも信じていました。
騎士もまた、知っていました。
姫の愛しい殿方は、此処にはいない、何処かの王子です。自分ではありません。姫は純真で無垢です。たとえ情に絆されても、偽りの是を返すことは、断じてないのです。それで良いのですし、それが良いのです。
だから、言いません。
貴女を愛しています。その言葉は。
『――馬鹿ね』
呟く綻びは、彼へ向けた憐憫か、それとも。
『いいわ。好きにして』
うっとりと眼を綴じ、姫は、騎士の厚い胸に頬を寄せました。
『御意』
短く応じて、騎士は姫を抱きしめました。
不器用な正直者がふたり、見つめ合います。
ほんの数秒、互いの瞳に永遠を映して。
やがて交わる視線が、運命の形に焦点を結び、騎士は歩き出しました。
明るい路を 選んで 往くわ
秋桜 紡いで 王冠に
何処へ 続くか 知らないけれど
月の光の 導く ままに
ゆらり陽炎めいた水面に揺れて、二人の姿が、霞んでゆきます。
彷徨い果てて 霧の中 夢幻の畔
どんなに遠くへ 来ても
外れない 鎖
そうして対岸へ着く頃、湖は、すっかり静かでした。
ふわりふわり。白いドレスだけが、まだ踊っています。
突拍子もない舞台の終わり、唄う声は細く途切れて、眠たげな月光が瞬けば、色をなくした二人が、透明に微笑みました。いつしか吹く風は秋を運んで、夏だった日の面影を、惜しげもなく攫ってゆきます。
ささぁ。ススキの群れが、謹んで道を空けました。
あとに残るのは、夢のような波紋ばかり。
こんなに 月が 綺麗なのに
巡って 廻って 同じ場所
ひとりで 踊る 時間は終わり
何処へも 行けないのなら
貴方と ワルツを




