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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
あの空を飛べたら
7/71

とこよ渡りて彼来たりなば

7.






 東西に一本、闇夜を割いた光が静かに、静かに彼等を連れてきます。

 ゆらり。東の彼方で青白い人影が揺らめけば、吸い寄せられて光に乗り、気付けば一人また一人と、輪郭の定まらぬ影達が集まっていました。

 音もなくざわめく彼等は不安げに、目鼻を無くした顔を見合わせます。

 そこへインドウボタルが灯火となり、ぽうぽうと深く呼吸のリズムで囁いて、優しく彼等を誘うのです。道は此処よ。怖がらないで。

 戸惑いながら、誰かが足を踏み出しました。

 応えて、灯火が瞬きます。

 二人目が。三人目が。四人目。その次も。列を作って歩き始めます。


「さても絶景哉、絶景哉」


 浴衣の袖に両腕を突っ込んで、セヴァが芝居掛った声を張りました。

 トコヨワタリ。

 ムゥとセヴァは、この現象をそう呼んでいます。

 新月の夜、夜空に架かった橋を渡ってゆく人影達。彼等は何処から来て、何処へ行くのでしょう。ただ東から西へ、静かに列を成して歩くのです。不思議なことに遙か上空の彼等の姿は、地上のムゥにもよく見えました・・・・・。あれが人――正確には人であった命の結末――だと、わかるのです。

 セヴァは、ムゥよりもずっと優れた眼を持っています。訊けば、教えてくれました。彼はこう生きた。彼女はこう死んだ。そして先はありません。彼等や彼女等の物語は、いつも終わった後でした。

 だって、みんな死者なのですから。


「なんだってこんなところを通って行くんだろうな」

「橋だからさァ」


 もう何度か繰り返した会話でした。

 セヴァの答えも、同じです。


「場所と場所を繋ぐにァ、どんな形であれ道が必要だろ? 東は此岸、西は彼岸。あれァ、その間に架かる“橋”だ。生死の境目、霊道ッてわけさ」


 ふぅんと生返事して、ムゥは鼻を鳴らします。

 要するに、此処は非常識な森なのです。歪んだ時間と空間の僅かな隙間。其処に滑り込んでしまった一時の蜃気楼のような場所で、世界から切り取られた孤島なのだと、ムゥは思います。

 蛍のような灯火が、行列の少し前を飛んでいました。インドウボタル、とセヴァが言うのでそう呼んでいますが、あれが蛍などでないことは、初めて見たときから理解していました。

 きっと案内役なのです。彼等のほとんどは、無事に西へと渡るのでしょう。でも中には、うっかり墜ちる者もいます。あの不器用な魚のように。

 そのような存在をムゥ達は“落人”として警戒していました。橋から墜ちた者、命を落として尚、こんなところまで来て墜ちる者。墜ちた者は、自身の姿を墜落の原因に相応しい形へと変え、往々にして、その姿で何か面倒な現象を起こします。やはり、この魚のように。

 ふとムゥは、あの魚はどんな人生を送ったのだろう、と思いました。


「見るだけなら、こんなに綺麗なのにな……」


 零れる溜息は感嘆であり、同情であり、また羨望でした。

 こんなとき、ムゥはいつも考えてしまいます。

 彼等は幸せだったのか。不幸だったのか。或いは後者である場合、その生き様の最果てを迎えた今、胸に去来するのは安堵か、それとも。

 彼岸とは、彼の世とは、なんだ。

 其処へ行ったら――どうなる。


「なァ。いいモン見せてやろォかい?」


 出し抜けなセヴァの提案に、ムゥの意識は現実に引き戻されました。


「何をだ?」

「いーから。こッち来いよ」


 ニヤニヤと含み笑いで、セヴァが手を差し伸べました。はて、何を企んでいるのでしょうか。ムゥは訝しみましたが、断る理由もありません。促されるままセヴァの手を取りました。


「……なんで恋人繋ぎなんだ?」

「今更恥ずかしがるよォな仲じゃねェだろ?」

「あらぬ誤解を招く言い方はやめろ! だいたいお前、あんな高鼾掻いといて寝たフリしてたのか? こっそり後を尾行(つけ)るなんて悪趣味だぞ」

「生憎と狸寝入りが得意でねェ」

「狐のくせにか」


 セヴァの笑い声が響き、通り抜ける風が、二人の裾を叩きました。


「さァ」


 おもむろに息を吐き、セヴァが呼吸を整えます。繋いだ手に力が込められ、ムゥも返事の意味で握り返しました。

 じわり掌が熱を持ちます。

 体温ではなく、もっと別の、疼くような刺激が、合わせた掌に籠もって膨張してゆきます。それが緩やかな波長を刻み、意識をくすぐって一転、俄に激しく暴れ、皮膚を透過してムゥの身体に流れ込んできました。

 腕を昇る反応に、短い声が漏れました。微睡みにも似た心地良い振動が、熾火となって血管を遡ります。無意識のうちに、セヴァの手を握る指が強ばりました。

 熱は肩を掠め、首筋を這い、両眼に達して、留まります。


「あ……!」


 奇妙な感覚でした。振動と共に絶え間なく訪れる熱は、視神経を麻痺させ、それでいて益々、視界が冴えるのです。風にそよぐ木の葉も、湖の細波も、小さな羽虫の軌道さえ、暗闇の中にあって如実に捉えることができるのでした。


「ちょイと俺様の眼を貸してやらァな」


 セヴァが顎でしゃくった先は、湖です。

 ムゥは眼を凝らしました。

 湖に映り込んだ星が、細波に打たれていました。その不安定な場所で、水に歪む輝きが、すらすらと動いて像を結んでいます。ちょっと歪でよくわからない。更に集中します。もっと見えてきます。まるで明順応の過程を辿るようでした。

 ひりり熱い眼の中、星の軌道が複雑に入り乱れ、曲線を重ね、より鮮明な情景を描き出して、ある瞬間を超えたとき、ムゥはあっと息を呑みました。

 走馬灯でした。






                  †






 揺り椅子に腰掛けた老人。

 泳ぐ若者。剣を掲げ、誇らしげに笑う兵士。車椅子を押す主婦。煙草を吸う男。殴り合う少年達。花を摘む少女。祈りを捧げる聖者。手紙を書く女。編み物をする老婆。厳かな式典。賞状を手に、肩を組んで唄う学生達。

 とりとめもない映像が、脈絡もなく、湖面に浮かび上がっていました。さながら不特定多数の老若男女から日常生活を少しずつ切り取って、デタラメに貼り付けたアルバムです。


「凄い……」

「どォよ。これで風情ッてモンがわかったかい」

「これはトコヨワタリの?」


 セヴァは頷き、眩しげに眼を細めて、遠い夜空を振り仰ぎました。


「死者達の記憶さ」


 嬉しかったこと。辛かったこと。楽しかったこと。苦しかったこと。

 数々の記憶が、人生が、思い出が、浮かんでは消え、消えては浮かびました。

 笑顔や涙がくるくると、コマ送りで水面を廻り、時に怒ったり、焦がれたりしながら、しみじみ移り変わってゆきます。何処かの誰かの人生が、この湖いっぱいに溢れているのです。本当に絶景でした。


「…………」


 みんな顔も名前も知らない、赤の他人でした。

 でも、何処かで確かに生きていた、誰かでした。

 今、彼等は生命という役目を終え、すべての想い出を此処へ置いて、新しい世界へ往こうとしています。

 彼岸という場所がどんなところなのか、ムゥは知りません。

 ただ、途方もない寂しさに胸が締め付けられて、きつく唇を噛みました。

 誰も、何一つとして、其処へ持って行くことはできない。

 肉体も精神も、想い出すらも、此処まで来て、まだ失わなければなりません。

 湖面を彩る想い出は、その生命に刻まれた足跡。かつて自分が確かに存在したという証です。いちばん大切な荷物です。こんなふうになっても、どうしても捨てられなかった、最後の宝物なのに。

 それすら放棄しなければ、彼岸の国には渡れないのか。



 ばしゃん。


 不意の水音に、像が歪みました。

 湖面から魚が飛んだのです。

 眼が霞み、視界からは色が消えます。瞼が重い。そういえば、瞬きもせずに集中していたのでした。疲れたのかと、ムゥは目を擦ります。けれど湖の映像は元には戻りません。それどころか、いっそう崩れて薄まり、敢えなく波に呑まれて、跡形もなく消えてしまいました。

 おしまいか。

 名残惜しい気分で、ムゥは隣を見ました。

 セヴァが小首を傾げて、眉間に皺を寄せています。

 途端、繋いだ手が離れました。

 セヴァは素早く踵を返し、大股で数歩進んで、すぐ立ち止まりました。そして何を思ったのか、その場に片膝を立てて、ごそごそ地面を漁り始めたのです。


「……あった」


 足元の一点を注視したまま、セヴァが声を上げました。

 興奮しているのか、尻尾の毛が逆立っています。


「ムゥ! ちょっと来い!」

「な、なんだ? いきなりどうし」

「早くしろいこの昼行灯!」


 誰が昼行灯だ。呼び付けられてムッとしましたが、今はひとまず堪えて、ムゥはセヴァに駆け寄りました。

 それでわかったのですが、彼が漁っていたのは、地面ではありませんでした。

 さっきムゥが魚を捕らえるのに使った網らしいのです。


「これ見ろ!」


 ぐいと鼻先に小さな破片を突き付けられ、慌てて足を止めます。大きさは幼児の爪くらいでしょうか。何か湿ったものが、きらきらと光っています。


「あ!」


 次の瞬間、ムゥは素っ頓狂に叫んでいました。

 魚鱗でした。きっとあの魚が暴れたときに剥がれて、網に絡まったのでしょう。それ自体は、別に不思議でもありません。あれだけ藻掻けば鱗の一つも欠けます。

 驚いたのは、色でした。

 鈍い灰色をしていたはずの鱗が、目映いばかりの金色に変わっているのです。


「な、なんだこれ!? なんで変色してるんだ!?」

「もっとよーーーく見ろ」


 セヴァと頬をくっつけて、掌に乗せた鱗を、食い入るように見つめます。

 なんだろう。動いている。虫……水滴? いや、線だ。

 違う、絵?

 いや、いや、これは。


「映像だ……」


 そうなのです。

 小さな魚鱗の表面に、今し方まで湖面に見ていた走馬灯が、そっくり同じに映り込んでいるではありませんか。


「こ、これ! 一枚だけか!?」


 ムゥは、慌てて網を探りました。あります。他にも数枚の鱗が、網に挟まっています。そのどれもに、映っていました。それぞれ違うシーンではありますが、紛う事なき走馬灯の続きです。

 死者達の想い出が、生きた証が、金色に輝き、焼き付いてる。

 こんなところで。

 昂ぶりを抑えきれず、ムゥは金色の鱗を握り締めました。

 加工法、使用する薬品、術式、手順。頭の中で、必要な作業が高速で構築されてゆきます。生成術士としての直感でした。これは素材。それも逸材です。

 つまりこの鱗は、トコヨワタリの映像を記録し、且つ再生する機能を備えているのです。セヴァの眼を以て初めて可視化できる特殊な像を、これほど鮮明に、正確に。砕いても性質の残る可能性は充分にあります。

 この鱗を使えば……。


「僥倖だなァ、おい!」


 セヴァがムゥの肩を叩きました。


「見付かったじゃァねェか。探してた“核”がよゥ」


 ばしゃん。水に跳ねた魚が、一瞬きらりと輝いたような気がします。

 ゆらゆらと波紋が、満面に湛えた星屑を揺らしました。








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