泣いてるの?
7.
「待って……っうわ!」
姫人形に気を取られていたムゥは、派手な水音で我に返りました。
どういうつもりか、脚を踏み出したヘンゼルが、湖に落ちたのです。
「ヘンゼル!」
「おチビ!」
ただちにセヴァが跪き、脇を掬い上げます。
幸い浅い場所だったので、十秒と掛からず回収することができました。
「馬鹿野郎ゥ、気ィ付けろい!」
「うぅ、ごめんなさい」
当のヘンゼルは、あぁビックリした、と頭を振ります。まるきり濡れた犬です。たいして恐怖もなかったらしく、呼吸が整うや否や悔しげに唇を尖らせて、姫人形の去って行った方角を見つめました。
「お姫様はするする歩いていたのになぁ」
さては、追い掛けて食い下がる気満々だったようです。
ムゥは、頭を抱えます。胃痛と頭痛が同時にしました。
悪夢舞踏会への乱入といい、落人の真似をして湖面を歩こうとする胆力といい、もう心臓がいくつあっても足りません。いつもなら手を繋いで確保しているのに。遠くから声を掛けることしかできないのが、もどかしい。
「おい大丈夫か!? 怪我はないか!?」
「だいじょーぶ!」
「早く戻ってこい!」
「はーい」
顔を拭って、ヘンゼルは、のんびり此方へ歩いてきます。
傍まで来た姿が屈むのを待てず、抱き寄せて座らせました。
「駄目だろうヘンゼル。危ないことをするんじゃない」
「ごめんなさーい」
「あぁもう、こんなに濡れて……ん?」
ヘンゼルの服を絞ったムゥは、ふと違和感を憶えて首を傾げます。
なんでしょう。この。フードの不自然な膨らみは。
「なんだこ、レ゛ッ――」
取り出したそれは、人形でした。
またしても。人形でした。
どう見ても、人形でした。
「わぁ、なにそれ?」
自分の服から面白いものが出たと、ヘンゼルは眼を輝かせます。意図して拾ってきたのではないようですが、この際、そんなことは問題ではありません。いつの間に、よりによって、どういう了見で。人形が追加されるのでしょう。ムゥは目眩がしてきました。
すぐにでも放り出したいのに、放り出すべきなのに、指が硬直して、思いっきり握り込んでしまっています。呪いか何かか?
「かっこいい! 兵隊さんだ!」
ヘンゼルが、暢気に手元を覗き込んできました。
姫人形と同じ木製で、黒い短髪に精悍な顔立ちの、男性人形です。チュニックの上に刺繍の入った鎧は白銀。腰に立派な剣を佩いていました。元からなのか失ったのか、兜はありません。ちょうど今のセヴァと、似たような格好です。燃えるような赤い瞳が印象的な、偉丈夫でした。
ただし、両の手足がありませんでした。
「こりゃァ、兵卒じゃねェな。騎士ッてやつだ」
「なにがちがうの?」
「うんと偉いのさ」
「なんでエライの?」
「爵位とか領地とか手柄の数とか……」
いや、もっとツッコむべきところがあるだろう!
「冗談じゃないっ!」
ムゥは爆発しました。
一体だけでも、この騒ぎです。
この上更に厄介事が増えたら、ストレスで死んでしまいます。
よって、諸悪の根源を全力で遠投すべく、存分に振りかぶりました。
「せ、先生どうしたの!?」
「止めるなヘンゼル! 手でも脚でも、これ以上取られて堪るか!」
ヘンゼルが、驚いて組み付いてきます。
弾みで手が滑りました。
騎士人形が、ぽんと宙を飛びます。
落ちて壊れるのを期待したのは、一瞬でした。
余計なことに、そこにいたセヴァが、受け止めてしまったのです。
「捨てろそんなもの! いや壊せ! 砕いて燃やせ!」
食って掛かるムゥを押し返し、セヴァは騎士人形を睨め回しました。
ヘンゼルは、突如発狂したムゥを案じて、よしよしと頭を撫でてきます。小さな掌は優しく温かく、それが却って、己の惨めな心情に刺さりました。保護者の威厳もくそもない、惨憺たる光景です。
だって、怖いのです。
もし、自分の脚だけで済まず、ヘンゼルの手足まで取られてしまったら。
いよいよ収まらずムゥが喚き散らしていると、しばし何か考え込んでいたセヴァが、つと視線を寄越しました。
「無闇と捨てるのも不味いンじゃねェのか?」
「ヘンゼルの手足が取られたらどうするんだ! 馬鹿! 人でなし!」
「作ってやるんだよ手足。や、コイツのだ」
ずいと騎士人形が突き出されます。
思わず腰が引けました。
「要は手足がありゃいいわけだろ。なら先んじて作っちまうんだ。下手ァこくと、今度こそ達磨だぜ。捨てようが壊そうが戻ってきて、またぞろ捥がれッぞ」
「でも……!」
「壊すンなら、そッからでも遅くねェ。焦んな」
言い返そうとして、いつになく神妙なセヴァの面持ちに、言葉が詰まります。
冷静に考えれば、それはそう、なのです。
「…………」
渋々人形を受け取り、眺めます。
額と頬に傷がありました。デザインなのか傷んだものか、判断が付きません。
手足のない分、ずいぶん小さく見えます。意匠は見事な出来なのに、どうしてかその表情が、ひどく寂しげに思えました。拭っても僅かに残る水滴が、ルビーの眼から溢れて、石膏の頬を滴ります。
悲しいの?
ヘンゼルの問いは、誰に向けたものだったのか。
「……まったくもう!」
なので、ムゥは目頭を覆って、吐き捨てるしかないのでした。
そろそろ泣いてもいいかしらん。




