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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
静かの海がやってくる
60/92

君はいつまでも僕の海

11.






 ぱんっ。

 何か大きなものが破裂する音に、ヘンゼルは眼を開けました。

 なんの音?

 なんかつい最近も、こんな音で起きたような……。

 ぼんやりと考え、途端、嘔吐(えず)いて咳き込みます。


「げっほげほ、ううっ、え」


 頭が、ふわふわします。ひどく疲れて、喉が渇いていました。

 髪も寝間着も、汗でベタベタです。手と足首が痛い。自覚するや否や、全力疾走したみたいな気怠さが、どっと伸し掛ってきました。いつだったか昔、ムゥと喧嘩して、拗ねて泣き喚いて暴れたときも、こうなった憶えがあります。


「……ヘンゼル?」


 呼ばれて、視線を流しました。

 隣からムゥが、悲痛な面持ちで覗き込んでいました。

 反対側に、きょとんとセヴァが固まっています。

 ヘンゼルも固まりました。だって二人の様相といったら、尋常ではありません。頬は痩け肌は荒れ、髪は乱れて艶を失い、いずれも色褪せた顔には、満遍(まんべん)なく濃い疲労が刻まれています。


「ど、どうしたの?」


 応えず、ムゥは、くしゃっと眉を下げます。

 そうして、水色の眼に涙が溢れ、唇が歪み、戦慄(わなな)いて、次の瞬間。

 ヘンゼルは、問答無用で、強く抱きしめられていました。


「ヘンゼル! ヘンゼル大丈夫か!」

「あれ、先生、なに? ほんとにどうしたの?」

「身体は? 苦しくないか? 何があったんだ!?」


 何って、寝て起きただけです。

 強いて言えば、夢を見ていました。

 なんだか忙しい夢でした。喋ったり、笑ったり、驚いたり、感心したり、掴まえたり、掴まったり。そうそう、暗い場所で怖い目にも遭いました。だから寝言でも叫んだのかもしれません。

 嬉しくて、面白くて、悲しくて、寂しくて、自由で。

 たぶん、まるで荒唐無稽な、地に足の着かない絵空事でした。

 それでも、今も淡く残るこの感傷は、祭りあとの昂揚にも似て、できることならもっと、もう少しだけ、聞いていたかった音楽のようで。どんなに理不尽な終着点であれ、僕は、僕たちは。

 結局のところ――楽しかったはずなのでした。


「えっとね」


 あぁ。ひとつだけ、はっきりと思い出せる場面があります。


「クジラさんが、お空を飛んでた!」


 目醒める間際、微睡みの狭間で見た、それはとても素敵な光景でした。

 巨大な魚が、悠然と真夏の空を泳いで、入道雲の彼方へ消えていった。

 きっと、あれが鯨という生き物なのでしょう。


「鯨? それは落人……? いったい何処に……いや、うん」


 ムゥは、何か言おうとして、頭を振ります。


「いいんだ。もういい。いい」


 お前が無事なら、もうなんでもいい。

 ぐずっと鼻を啜り、いっそう強くヘンゼルを抱きしめて、ムゥは、ようやく笑いました。よくわかりませんが、自己解決に至ったようです。いつになく情緒不安定で、心配になってきました。ムゥも、怖い夢を見たのかもしれません。

 話題を変えようと、ヘンゼルは、気になっていたことを口にしました。


「ねぇ、さっきの音ってなに?」

「何が?」

「パンって。風船が割れるみたいな」

「知らないぞ?」


 不思議に思って、室内を確認すれば、今度はヘンゼルが絶句しました。

 小物が散らばり、カーテンは外され、床に足跡がうろつき、謎の空き瓶が転がって、見るも無惨な有様です。よもや泥棒が入るでもなし。何があったのか訊きたいのは、こっちの方でした。


「ちょっ、これどうしたの!?」

「あぁ。うん。どうしたもんかな……はは……」

「そうじゃなくて! ドロボウごっこでもしたの?」

「おチビ」


 半笑いで遠い目をするムゥに代わって、セヴァが割り込んできました。


「なァに。たいしたことじゃァねェさ。そら飲みな」


 言って、水筒を差し出してきます。

 ヘンゼルは一瞬、その指先に目を留めました。

 身成に気を遣う彼が、手入れを欠かさない爪。毎日見ているというのに、洒落た形に整えられたセヴァの赤い爪が、このとき何故だか、印象に残りました。


「どォした?」

「……ううん。ありがとう」


 水筒を受け取ると、俄然、喉の渇きが蘇りました。

 ほとんど垂直に水筒を傾け、一息に呷ります。まるで全身が潤う快感に、お行儀なんて考えられず、ひたすら夢中で飲み干しました。当然盛大に零して、寝間着と布団を濡らしてしまいましたが、ムゥは、ちっとも怒りませんでした。

 いきなり大量の水を注がれた胃袋が、ぐるぐると鳴きます。

 と同時に、耐えがたい空腹が襲ってきました。


「たらふく食って、もッかい寝るぜ。片付けァ、明日だ明日」


 心得たらしいセヴァが、呵々と笑って、台所へ歩いてゆきました。

 今更ですが、どうして彼は褌一丁なのでしょう。


「おいおい話す。セヴァじゃないが、少し休ませてくれ。済まない」


 ぷつんと糸が切れたように、ムゥがベッドへ倒れ込んできました。

 どうも、いろいろ釈然としません。二人とも、挙動不審すぎます。

 すぎますが、ヘンゼルは好奇心旺盛な七歳児です。しばらくして、ムゥが珍しく鼾を掻き始めたものですから、早速そちらへ興味が移ってしまいました。ここだけの話、とんでもない大音量で、どっこいセヴァと良い勝負です。

 疲れてたんだなぁ。

 くすっと笑って、ヘンゼルは、静かにベッドを抜け出しました。セヴァを手伝ってあげなくては。

 開け放たれた窓から、仄かに磯の香りを纏った風が、吹き込んできます。

 ヒグラシが、鳴いていました。






                  †






 傾く夕陽に、屋根裏部屋が、染まってゆきます。

 今日もヘンゼルは、窓際でマリンドームを眺めていました。

 あれから、ちょっと過保護になったセヴァと、一段と過保護を拗らせたムゥに、散々世話を焼かれて現在に至ります。毎日好物ばかり出てくるわ、何処へ行くにも送迎完備だわ、ほんのり太ってしまったくらいです。

 ムゥは痩せました。

 おはようからおやすみまで、万事その調子でヘンゼルを構い倒しながら、新しいマリンドームの制作まで平行していたのですから、然もありなん。いつ寝ているのかこっそり調べたら、ガンギマリの笑顔で、空になった覚醒薬の瓶を隠蔽工作していました。ダメ、絶対。

 結局、十日も経たず、ヘンゼルには新しいマリンドームが贈られました。

 透き通る硝子玉の中に、青い水が満ちて、真っ白な砂の上、ちょこんと座るのはヒトデ。桃色の珊瑚が腕を伸ばし、ころころと巻き貝が転がり、陽が射せば、水面は光を反射して、それは楽しげにきらきら、浮きつ沈みつ踊るのです。

 さすがムゥです。完璧に再現してくれました。

 でも、ただひとつ、前と違うところがあります。

 白い帆船の代わりに、黒い鯨の模型が、波に揺れていました。

 どうしてそうなったのか、ヘンゼルは知りません。当のムゥに訊いても、怪訝な面持ちで、さぁなんとなく……と首を傾げていました。

 ざざぁ。ざざざぁん。

 七色の貝が、潮騒を唄います。

 けれど、何故でしょう。

 その鯨を見るたび、ヘンゼルは、とても大切なことを忘れてしまったような気がして、甘い紺碧の名残に、ひそり胸を締め付けられるのでした。






   静かの海がやってくる/了









 

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― 新着の感想 ―
[一言] 「静かの海がやってくる」拝読しました。 少年時代と夏と海……何ともノスタルジーをくすぐる、魅力的なモチーフの組み合わせです。もともと本作は、夢と現の境のような世界で、変わらないものと変わって…
[一言] 拝読しました! 傘の事件以来、ヘンゼルの居場所が分かるようにペンダントを渡すなんて、心配なんですね、ムゥさんは。 今回はムゥさんの憔悴っぷりにきゅんきゅん(こら)しちゃいました。 とはいえ…
[一言] イメージの美しさに感動しました! 水没は「崖の上のポニョ」で街が水没するシーンがありますが、迷いの森と海とのコラボはあの映画より幻想的で美しいですね! 特に向日葵の水没は強く印象に残りました…
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