君はいつまでも僕の海
11.
ぱんっ。
何か大きなものが破裂する音に、ヘンゼルは眼を開けました。
なんの音?
なんかつい最近も、こんな音で起きたような……。
ぼんやりと考え、途端、嘔吐いて咳き込みます。
「げっほげほ、ううっ、え」
頭が、ふわふわします。ひどく疲れて、喉が渇いていました。
髪も寝間着も、汗でベタベタです。手と足首が痛い。自覚するや否や、全力疾走したみたいな気怠さが、どっと伸し掛ってきました。いつだったか昔、ムゥと喧嘩して、拗ねて泣き喚いて暴れたときも、こうなった憶えがあります。
「……ヘンゼル?」
呼ばれて、視線を流しました。
隣からムゥが、悲痛な面持ちで覗き込んでいました。
反対側に、きょとんとセヴァが固まっています。
ヘンゼルも固まりました。だって二人の様相といったら、尋常ではありません。頬は痩け肌は荒れ、髪は乱れて艶を失い、いずれも色褪せた顔には、満遍なく濃い疲労が刻まれています。
「ど、どうしたの?」
応えず、ムゥは、くしゃっと眉を下げます。
そうして、水色の眼に涙が溢れ、唇が歪み、戦慄いて、次の瞬間。
ヘンゼルは、問答無用で、強く抱きしめられていました。
「ヘンゼル! ヘンゼル大丈夫か!」
「あれ、先生、なに? ほんとにどうしたの?」
「身体は? 苦しくないか? 何があったんだ!?」
何って、寝て起きただけです。
強いて言えば、夢を見ていました。
なんだか忙しい夢でした。喋ったり、笑ったり、驚いたり、感心したり、掴まえたり、掴まったり。そうそう、暗い場所で怖い目にも遭いました。だから寝言でも叫んだのかもしれません。
嬉しくて、面白くて、悲しくて、寂しくて、自由で。
たぶん、まるで荒唐無稽な、地に足の着かない絵空事でした。
それでも、今も淡く残るこの感傷は、祭りあとの昂揚にも似て、できることならもっと、もう少しだけ、聞いていたかった音楽のようで。どんなに理不尽な終着点であれ、僕は、僕たちは。
結局のところ――楽しかったはずなのでした。
「えっとね」
あぁ。ひとつだけ、はっきりと思い出せる場面があります。
「クジラさんが、お空を飛んでた!」
目醒める間際、微睡みの狭間で見た、それはとても素敵な光景でした。
巨大な魚が、悠然と真夏の空を泳いで、入道雲の彼方へ消えていった。
きっと、あれが鯨という生き物なのでしょう。
「鯨? それは落人……? いったい何処に……いや、うん」
ムゥは、何か言おうとして、頭を振ります。
「いいんだ。もういい。いい」
お前が無事なら、もうなんでもいい。
ぐずっと鼻を啜り、いっそう強くヘンゼルを抱きしめて、ムゥは、ようやく笑いました。よくわかりませんが、自己解決に至ったようです。いつになく情緒不安定で、心配になってきました。ムゥも、怖い夢を見たのかもしれません。
話題を変えようと、ヘンゼルは、気になっていたことを口にしました。
「ねぇ、さっきの音ってなに?」
「何が?」
「パンって。風船が割れるみたいな」
「知らないぞ?」
不思議に思って、室内を確認すれば、今度はヘンゼルが絶句しました。
小物が散らばり、カーテンは外され、床に足跡がうろつき、謎の空き瓶が転がって、見るも無惨な有様です。よもや泥棒が入るでもなし。何があったのか訊きたいのは、こっちの方でした。
「ちょっ、これどうしたの!?」
「あぁ。うん。どうしたもんかな……はは……」
「そうじゃなくて! ドロボウごっこでもしたの?」
「おチビ」
半笑いで遠い目をするムゥに代わって、セヴァが割り込んできました。
「なァに。たいしたことじゃァねェさ。そら飲みな」
言って、水筒を差し出してきます。
ヘンゼルは一瞬、その指先に目を留めました。
身成に気を遣う彼が、手入れを欠かさない爪。毎日見ているというのに、洒落た形に整えられたセヴァの赤い爪が、このとき何故だか、印象に残りました。
「どォした?」
「……ううん。ありがとう」
水筒を受け取ると、俄然、喉の渇きが蘇りました。
ほとんど垂直に水筒を傾け、一息に呷ります。まるで全身が潤う快感に、お行儀なんて考えられず、ひたすら夢中で飲み干しました。当然盛大に零して、寝間着と布団を濡らしてしまいましたが、ムゥは、ちっとも怒りませんでした。
いきなり大量の水を注がれた胃袋が、ぐるぐると鳴きます。
と同時に、耐えがたい空腹が襲ってきました。
「たらふく食って、もッかい寝るぜ。片付けァ、明日だ明日」
心得たらしいセヴァが、呵々と笑って、台所へ歩いてゆきました。
今更ですが、どうして彼は褌一丁なのでしょう。
「おいおい話す。セヴァじゃないが、少し休ませてくれ。済まない」
ぷつんと糸が切れたように、ムゥがベッドへ倒れ込んできました。
どうも、いろいろ釈然としません。二人とも、挙動不審すぎます。
すぎますが、ヘンゼルは好奇心旺盛な七歳児です。しばらくして、ムゥが珍しく鼾を掻き始めたものですから、早速そちらへ興味が移ってしまいました。ここだけの話、とんでもない大音量で、どっこいセヴァと良い勝負です。
疲れてたんだなぁ。
くすっと笑って、ヘンゼルは、静かにベッドを抜け出しました。セヴァを手伝ってあげなくては。
開け放たれた窓から、仄かに磯の香りを纏った風が、吹き込んできます。
ヒグラシが、鳴いていました。
†
傾く夕陽に、屋根裏部屋が、染まってゆきます。
今日もヘンゼルは、窓際でマリンドームを眺めていました。
あれから、ちょっと過保護になったセヴァと、一段と過保護を拗らせたムゥに、散々世話を焼かれて現在に至ります。毎日好物ばかり出てくるわ、何処へ行くにも送迎完備だわ、ほんのり太ってしまったくらいです。
ムゥは痩せました。
おはようからおやすみまで、万事その調子でヘンゼルを構い倒しながら、新しいマリンドームの制作まで平行していたのですから、然もありなん。いつ寝ているのかこっそり調べたら、ガンギマリの笑顔で、空になった覚醒薬の瓶を隠蔽工作していました。ダメ、絶対。
結局、十日も経たず、ヘンゼルには新しいマリンドームが贈られました。
透き通る硝子玉の中に、青い水が満ちて、真っ白な砂の上、ちょこんと座るのはヒトデ。桃色の珊瑚が腕を伸ばし、ころころと巻き貝が転がり、陽が射せば、水面は光を反射して、それは楽しげにきらきら、浮きつ沈みつ踊るのです。
さすがムゥです。完璧に再現してくれました。
でも、ただひとつ、前と違うところがあります。
白い帆船の代わりに、黒い鯨の模型が、波に揺れていました。
どうしてそうなったのか、ヘンゼルは知りません。当のムゥに訊いても、怪訝な面持ちで、さぁなんとなく……と首を傾げていました。
ざざぁ。ざざざぁん。
七色の貝が、潮騒を唄います。
けれど、何故でしょう。
その鯨を見るたび、ヘンゼルは、とても大切なことを忘れてしまったような気がして、甘い紺碧の名残に、ひそり胸を締め付けられるのでした。
静かの海がやってくる/了




