殺したい!
6.
「――…………ッ」
唐突に、意識が引き戻されました。
ともすれば喘ぎそうになる呼吸を飲み込んで、ムゥは眼を開きます。滲んだ汗を拭って見渡せば、此処は寝室。仄暗い中、隣でヘンゼルが眠っています。その隣のセヴァは、はだけた浴衣から脚を放り出して、豪快な鼾を掻いていました。
……夢か。
じわり汗ばむ掌を握れば、その感覚は、どうやら本物です。目覚めた現実に心底安堵し、また絶望して、ムゥは上体を起こしました。いくらかベッドが軋みましたが、幸い二人が起きる気配はありません。
シーツに手形を残して、ムゥは寝床を抜け出しました。
台所で水を一杯飲み、寝間着の袖で口を拭います。それから、いつも使っている包丁を手に取って、踵を返しました。ペタペタと裸足の足音が、静かなリビングを通り抜けてゆきます。
サンダルを突っ掛けて、玄関のドアを開ければ、夜の匂いがざわり。水色の髪を踊らせました。その足で納屋へ寄り、ランタンと投網を持ち出して、これでよし。ムゥは歩き始めます。
坂を下り、橋を渡り、南へ。
慣れた道です。サンダル履きでも、ランタンがあれば、どうにかなります。
新月でした。月光すら射さない森は、なんと暗く、深いのでしょう。地の底か、それとも空の彼方か。光など置き去られ、言葉など忘れられ、形など消えてしまいそうなほどに、圧倒的な夜が充満していました。
聞こえるのは、夜鳥の鳴き声と樹々のざわめき、自分の無機質な足音だけです。
やがて手足がすっかり冷えた頃、ムゥは瓢箪池に辿り着いていました。
「…………」
黒い湖面が薄く波立ち、さらさらと音を立てます。
見れば湖のそこかしこで、夢のような星が、海藻めいて揺れていました。
――忌々しい。
そのとき、ぱしゃんと水飛沫が上がりました。
例の魚でした。
今です。
空中で不器用に羽ばたく魚影目掛けて、ムゥは網を放ちました。
罠の扱いには、慣れています。普段は小動物や鳥の捕獲にも使っているのです。狙いは違わず、宙に舞った網は、一発で魚を捕らえました。反動で巻き付く錘が、たちまち彼の自由を奪います。
いとも容易く、魚は湖面へ落ちました。
片手に残る手綱を引き寄せ、魚を陸に引き揚げます。
何が起こったのかわからない、といったふうに、魚はぴちぴちと尾で土を打ち、力任せにのたうちました。けれど駄目です。網は、藻掻けば藻掻くほど身体に食い込む仕組みになっています。
ムゥは魚を見下して、口元を歪めました。
その瞳に、色はありません。
暗い、この夜よりも深く沈んだ闇が、冷たく横たわっているのみでした。
そら見ろ。
生きんとする精一杯の抵抗が、却って苦痛を長引かせるのだ。
魚のくせに。ただの。魚のくせに。
無力なのに。運命の前には。なにもかも、無意味なのに。
それでも抗うのか?
忌々しい……!
振り上げた包丁が煌めいて、一斉に夜鳥が飛び立ちました。
――それと、どちらが先だったでしょうか。
「やめときな」
大きな掌に、はっしと手首を掴まれたのは。
†
さわり夜風が千切れた草を浚って、長い金髪を靡かせます。
振り返り、突き当たったのは、険しい視線。
「……セヴァ?」
呼ばれても、セヴァは表情を崩しませんでした。
金色の双眸が厳しくムゥを見据えて、手首を締め上げる掌には、ギリギリと一層の握力が込められます。セヴァは何も言いません。ただ眉を寄せ、少しだけ寂しげに、紅い唇を引き結んでいました。
取り落とした包丁が、カチンと刃を鳴らしました。
ハッとして、ムゥは息を呑みます。
「え? あっ……私…………」
セヴァは深い呼吸を零して、ムゥの手首を解放しました。
そして暴れる魚を網から掴み出し、湖面へと放ります。ボチャンと水音がして、辺りは再び、静寂に包まれました。
ひりつく痛みが、霞んだ意識を押し退けて、ジワジワと現実感を運んできます。
私は何をしていた?
私、私は。
「わ、私……殺そうと……あの魚を?」
「…………」
セヴァは、頷きもしません。
彼の保つ沈黙こそが、即ち肯定なのです。
……なんてことだ。
ムゥは地面に膝を突き、両手で顔を覆いました。
最低だ。
確かに憎かった。私は、あの魚が憎かった。反吐が出るほど。殺したいほど憎んでいた。でもだからといって、本当に殺す奴があるか。食べるためでも、守るためでもなく。ただ己の衝動を満たすためだけに、安易な殺生に及ぶなど。
人間が好き嫌いで殺して良い生命など、此の世に一つとしてない。ヘンゼルにもそう教えてきたし、ムゥ自身、そう思っているはずでした。思っていると、思っていました。
それなのに、少し気が抜けただけで、斯くも身勝手な行動に走るとは。
自分という人間は、なんと矮小で醜く、臆病な男であることか。
ショックでした。
己の理性が、ここまで脆いなんて。
「ほらよ」
突っ伏した背中に、無造作な重みが降ってきました。場違いに暖かい衣擦れは、あまりによく知る着心地で、何故だか目頭が熱くなっても、ムゥは顔を上げることができませんでした。
「なんてェ恰好だい。大の男が寝間着一丁で油ァ売ってンじゃねェよ」
セヴァが大袈裟な溜息を吐いてみせます。
「そンなんじゃ風邪ェ引ィちまわァな。男の看病なんざ御免被るぜ、俺様は」
それはすっかりいつもの口調でしたが、今は冷えた耳を素通りするばかりです。とても応じる気にはなれません。掛けられたコートの肩口を掴むのが、ムゥには、精一杯でした。
やがて、追い打ちのようなセヴァの溜息。
さくさくと草を踏む音が近付いてきて、ムゥの傍で止まります。
間を置かず、ぺちん。何か軽いものが後頭部を叩きました。
完全に不意打ちの打撃でしたが、ムゥには、すぐわかりました。この生暖かさ、ふわふわ具合、空気を読まない仕打ち。さてはセヴァの尻尾です。
しかも一撃ではありません。二撃、三撃。ぺちぺちと続きます。
どういうつもりなのでしょう。この意気地なしと責めているのでしょうか。早く帰ろうと急かしているのでしょうか。いずれにせよ、こんなときに、鬱陶しいことこの上ない。
変なちょっかいを出さないでくれ。
さすがに癇に障りました。
「やめてくれ。そんな気分じゃ……」
勢い良く面を上げて、ムゥは面食らいました。
短気なセヴァのこと、なんなら拳骨でも飛んでくるかと思っていたのです。けれども佇む長身の、なんて穏やかで、寂しそうな横顔でしょう。彼を睨み付けたはずの眼は苛立ちを忘れ、キョトンと丸く見開かれました。
「――お誂え向きってェやつだなァ」
端正な微笑を、ふっと淡い光が過ぎりました。
光を追ったセヴァの眼差しは、励ますように、また慈しむように、ゆっくり空へと昇ってゆきます。
「インドウボタルが飛んでやがる」
遙かな闇に、淡い光が瞬いていました。
星ではありません。だって光はすいと闇夜を泳ぎ、緩やかな軌跡を描いて、次第に数を増しています。そうして絡み合い、互いに綾を紡いで、みるみるうちに足場を編む。あんなに遠くに在って、それはムゥの眼にもはっきりと見えるのです。
あぁ……そういえば今夜は。
「忘れちゃいけねェ」
新月。
セヴァとムゥの呟きが重なって、夜空に橋が架かりました。