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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
あの空を飛べたら
6/71

殺したい!

6.






「――…………ッ」


 唐突に、意識が引き戻されました。

 ともすれば喘ぎそうになる呼吸を飲み込んで、ムゥは眼を開きます。滲んだ汗を拭って見渡せば、此処は寝室。仄暗い中、隣でヘンゼルが眠っています。その隣のセヴァは、はだけた浴衣から脚を放り出して、豪快ないびきを掻いていました。

 ……夢か。

 じわり汗ばむ掌を握れば、その感覚は、どうやら本物です。目覚めた現実に心底安堵し、また絶望して、ムゥは上体を起こしました。いくらかベッドが軋みましたが、幸い二人が起きる気配はありません。

 シーツに手形を残して、ムゥは寝床を抜け出しました。

 台所で水を一杯飲み、寝間着の袖で口を拭います。それから、いつも使っている包丁を手に取って、踵を返しました。ペタペタと裸足の足音が、静かなリビングを通り抜けてゆきます。

 サンダルを突っ掛けて、玄関のドアを開ければ、夜の匂いがざわり。水色の髪を踊らせました。その足で納屋へ寄り、ランタンと投網を持ち出して、これでよし。ムゥは歩き始めます。

 坂を下り、橋を渡り、南へ。

 慣れた道です。サンダル履きでも、ランタンがあれば、どうにかなります。

 新月でした。月光すら射さない森は、なんと暗く、深いのでしょう。地の底か、それとも空の彼方か。光など置き去られ、言葉など忘れられ、形など消えてしまいそうなほどに、圧倒的な夜が充満していました。

 聞こえるのは、夜鳥の鳴き声と樹々のざわめき、自分の無機質な足音だけです。

 やがて手足がすっかり冷えた頃、ムゥは瓢箪池に辿り着いていました。


「…………」


 黒い湖面が薄く波立ち、さらさらと音を立てます。

 見れば湖のそこかしこで、夢のような星が、海藻めいて揺れていました。


 ――忌々しい。


 そのとき、ぱしゃんと水飛沫が上がりました。

 例の魚でした。

 今です。

 空中で不器用に羽ばたく・・・・魚影目掛けて、ムゥは網を放ちました。

 罠の扱いには、慣れています。普段は小動物や鳥の捕獲にも使っているのです。狙いは違わず、宙に舞った網は、一発で魚を捕らえました。反動で巻き付く錘が、たちまち彼の自由を奪います。

 いとも容易く、魚は湖面へ落ちました。

 片手に残る手綱を引き寄せ、魚を陸に引き揚げます。

 何が起こったのかわからない、といったふうに、魚はぴちぴちと尾で土を打ち、力任せにのたうちました。けれど駄目です。網は、藻掻けば藻掻くほど身体に食い込む仕組みになっています。

 ムゥは魚を見下して、口元を歪めました。

 その瞳に、色はありません。

 暗い、この夜よりも深く沈んだ闇が、冷たく横たわっているのみでした。


 そら見ろ。

 生きんとする精一杯の抵抗が、却って苦痛を長引かせるのだ。

 魚のくせに。ただの。魚のくせに。

 無力なのに。運命の前には。なにもかも、無意味なのに。

 それでも抗うのか?

 忌々しい……!


 振り上げた包丁が煌めいて、一斉に夜鳥が飛び立ちました。

 ――それと、どちらが先だったでしょうか。


「やめときな」


 大きな掌に、はっしと手首を掴まれたのは。






                  †






 さわり夜風が千切れた草を浚って、長い金髪を靡かせます。

 振り返り、突き当たったのは、険しい視線。


「……セヴァ?」


 呼ばれても、セヴァは表情を崩しませんでした。

 金色の双眸が厳しくムゥを見据えて、手首を締め上げる掌には、ギリギリと一層の握力が込められます。セヴァは何も言いません。ただ眉を寄せ、少しだけ寂しげに、紅い唇を引き結んでいました。

 取り落とした包丁が、カチンと刃を鳴らしました。

 ハッとして、ムゥは息を呑みます。


「え? あっ……私…………」


 セヴァは深い呼吸を零して、ムゥの手首を解放しました。

 そして暴れる魚を網から掴み出し、湖面へと放ります。ボチャンと水音がして、辺りは再び、静寂に包まれました。

 ひりつく痛みが、霞んだ意識を押し退けて、ジワジワと現実感を運んできます。

 私は何をしていた?

 私、私は。


「わ、私……殺そうと……あの魚を?」

「…………」


 セヴァは、頷きもしません。

 彼の保つ沈黙こそが、即ち肯定なのです。


 ……なんてことだ。


 ムゥは地面に膝を突き、両手で顔を覆いました。

 最低だ。

 確かに憎かった。私は、あの魚が憎かった。反吐が出るほど。殺したいほど憎んでいた。でもだからといって、本当に殺す奴があるか。食べるためでも、守るためでもなく。ただ己の衝動を満たすためだけに、安易な殺生に及ぶなど。

 人間が好き嫌いで殺して良い生命など、此の世に一つとしてない。ヘンゼルにもそう教えてきたし、ムゥ自身、そう思っているはずでした。思っていると、思っていました。

 それなのに、少し気が抜けただけで、斯くも身勝手な行動に走るとは。

 自分という人間は、なんと矮小で醜く、臆病な男であることか。

 ショックでした。

 己の理性が、ここまで脆いなんて。


「ほらよ」


 突っ伏した背中に、無造作な重みが降ってきました。場違いに暖かい衣擦れは、あまりによく知る着心地で、何故だか目頭が熱くなっても、ムゥは顔を上げることができませんでした。


「なんてェ恰好だい。大の男が寝間着一丁で油ァ売ってンじゃねェよ」


 セヴァが大袈裟な溜息を吐いてみせます。


「そンなんじゃ風邪ェ引ィちまわァな。男の看病なんざ御免被るぜ、俺様は」


 それはすっかりいつもの口調でしたが、今は冷えた耳を素通りするばかりです。とても応じる気にはなれません。掛けられたコートの肩口を掴むのが、ムゥには、精一杯でした。

 やがて、追い打ちのようなセヴァの溜息。

 さくさくと草を踏む音が近付いてきて、ムゥの傍で止まります。

 間を置かず、ぺちん。何か軽いものが後頭部を叩きました。

 完全に不意打ちの打撃でしたが、ムゥには、すぐわかりました。この生暖かさ、ふわふわ具合、空気を読まない仕打ち。さてはセヴァの尻尾です。

 しかも一撃ではありません。二撃、三撃。ぺちぺちと続きます。

 どういうつもりなのでしょう。この意気地なしと責めているのでしょうか。早く帰ろうと急かしているのでしょうか。いずれにせよ、こんなときに、鬱陶しいことこの上ない。

 変なちょっかいを出さないでくれ。

 さすがに癇に障りました。


「やめてくれ。そんな気分じゃ……」


 勢い良く面を上げて、ムゥは面食らいました。

 短気なセヴァのこと、なんなら拳骨でも飛んでくるかと思っていたのです。けれども佇む長身の、なんて穏やかで、寂しそうな横顔でしょう。彼を睨み付けたはずの眼は苛立ちを忘れ、キョトンと丸く見開かれました。


「――お誂え向きってェやつだなァ」


 端正な微笑を、ふっと淡い光が過ぎりました。

 光を追ったセヴァの眼差しは、励ますように、また慈しむように、ゆっくり空へと昇ってゆきます。


「インドウボタルが飛んでやがる」


 遙かな闇に、淡い光が瞬いていました。

 星ではありません。だって光はすいと闇夜を泳ぎ、緩やかな軌跡を描いて、次第に数を増しています。そうして絡み合い、互いに綾を紡いで、みるみるうちに足場を編む。あんなに遠くに在って、それはムゥの眼にもはっきりと見えるのです。

 あぁ……そういえば今夜は。


「忘れちゃいけねェ」


 新月。

 セヴァとムゥの呟きが重なって、夜空に橋が架かりました。







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