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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
静かの海がやってくる
59/92

鯨骨夢幻群集

10.






 驚いて、反射的に脚を引きます。

 握りしめていた玉が、掌から零れて、音もなく砂に落ちました。

 手は、ぐっと足首を握ったまま、放しません。

 え、え、なにこれ?

 考えていられたのは、数秒でした。

 じきに、もう一本。生えてきた手が、反対の足首を掴みます。


「ね、ねぇ放して」


 ヘンゼルの懇願が聞こえているのかいないのか、二本の手は、いっそう力を込めて、ぐいぐいと両足を引っ張ります。

 よく見れば、両方とも右手でした。片方は男性で、少しささくれて骨張った、妙に生活臭のする手でした。もう片方は対照的に、ほっそりして彫刻めいた、美しい手です。女性にしては大きすぎるので、こちらも男性でしょうか。真っ白な指先に長く、鮮やかな赤い爪。


「ひッ……!」


 今度こそ、ゾッとしました。

 此処へ来るまで、どんな生き物にも、危害を加えられたことはなかったのです。刺されるだの毒があるだの、鯨には散々脅かされましたが、結局どれも襲ってこなかったのに。今更、どうして。


「クジラさん! これなに!? なんの手!?」

『知らん! なんだそれ! 早く振り払え!』


 予想外の出来事に、鯨も困惑していました。彼も知らない、新種の生き物ということでしょうか。いや、生き物ではないのかも……。


「ぼ、ぼくを引っ張って!」

『いや、あ、そう言われても』


 鯨のひれは、そういうふうには出来ていません。骨こそ五本の指に分かれていますが、何かを掴んだり、抓むのは不可能です。ならばと、ヘンゼルの寝間着に噛み付けば、鋭い歯でビリッと引き裂いてしまいました。

 一人と一頭は、いよいよ焦ります。

 ヘンゼルが両手で叩き、引っ張り、爪を立てても、白い手はビクともしません。

 本能的な恐怖が、背筋を駆け上りました。昆虫でも、こういった捕食をする者はいるのです。蜘蛛の巣に掛かった蝶、蟻地獄に落ちた蟻。今自分は、まさに餌として、この手に捕まっているのではないか。


「いや、いやだっ」


 殴り付けてでも逃れようと、ヘンゼルは拳を振り下ろします。

 初めて白い手が、それまでとは違う行動に出ました。

 足首を放し、代わりにヘンゼルの手を、握手のように握ったのです。


 ――知ってる。


 瞬間、どくんと心臓が跳ねました。


 僕は、この手をよく知っている。

 でも何故?


「ねぇ……、君は、」


 がぼっ。

 開いた口から、空気が溢れ出ました。

 同時に、大量の海水が流れ込んできます。反射的に息を吸おうとして、更に水を飲んでしまいます。それを吐き出そうとすると、鼻からも浸入してきました。途端に咳き込み、けれど少しも空気が吸えません。


「げっ、ぐっ!?」


 待って。叫んだつもりが、声になりませんでした。ただ海水が、強烈なえぐみで喉を塞ぎます。そこへ次々と水が入ってきます。もう、吐くことも吸うことも叶いません。今まで、さっきまで、意識すらせず行っていたのに。

 息が。

 息ができない!


『君、どうした! 大丈夫か!?』


 鯨が、慌てて覗き込んできます。

 返事ができません。余裕も、酸素も、ありません。なにより声が――鯨の声が、聞こえないのです。己の吐く泡の、ぶくぶくと絶望的な音と、何かごうごう途方もない重さが、緩慢に蠢くような気配がするだけ。

 苦しい。怖い。どうして。息が……水中なのに……、

 水中で……、

 息が……できる方が、

 ――おかしいじゃないか。


「っ、…………ッ!」


 そうです。

 逆です。

 今までが不自然だったのです。

 人間が水中で呼吸なんて。できるわけないじゃありませんか。

 気付いてしまうと、もう駄目でした。

 完全な恐慌状態に陥ったヘンゼルは、有らん限りの力で身を捩りました。白い手を蹴り付け、ぶんぶんと頭を振り、抜けそうなぐらい右腕を揺すって、滅茶苦茶に藻掻きました。悲しいことに、泣き叫ぶ声すら出せません。ごぼごぼと不規則な泡を吐いては、海水を飲み込む。その繰り返しです。


『おいしっかりしろ! 君! 君ったら!』


 鯨は、おろおろとヘンゼルの傍を泳ぎ回りました。

 助けたいのです。でも、どうしていいか、わからない。

 いえ。むしろ何ができるでしょうか。ヘンゼルを引っ張るのは、失敗しました。空気を送ってやりたくても、周りはすべて海水です。助けを呼ぼうにも、此処は海の底も底。では白い手を追い払う? どうやって? この図体です。体当たりなどしようものなら、もろとも押し潰してしまうでしょう。

 そうこうしているうちに、左手も握られてしまいました。

 ますます事態は悪化します。

 あどけない顔は見る影もなく、恐怖と酸欠と絶望に歪み、苦痛のために振り乱す金髪が、ゆらり虚しく靡きます。ばたばたと水を掻いていた脚が、次第に脱力してゆくのが、手に取るようにわかりました。暴れる胸元で爛々と輝くペンダントの、なんて不吉に赤いこと。

 これ以上、見ていられません。本当に死んでしまいます。


『あぁ、あぁ、駄目だ、頑張れ!』


 どうして。鯨は歯噛みします。

 此処は、この子の海なのに。

 この子が生んだ、この子の世界なのに。

 どうして苦しむことがある?

 あぁ、俺って奴は、こんなときに。

 手を合わせて祈ることもできやしない!


『頼む! この子を放してくれ! 後生だ!』


 堪らず、鯨は叫びました。

 すると、必死の願いが届いたのか、片方の白い手が、すっと指を解きました。

 すかさず空いた左手で、ヘンゼルが喉を掻き毟ります。

 鯨は瞠目しました。


『君、まさか』


 あまりに単純で、切実で、根本的な真理でした。


溺れているのか・・・・・・・


 そうだと言わんばかりに、白い手が、ヘンゼルの脚を指さしました。

 なんてことだ。

 鯨は、言葉を失いました。

 己が己であるが故に、思いも寄らなかった事実に、ようやく気付いたのです。

 ヘンゼルは人間です。いくら自由の海を創り出し、無邪気に魚と戯れようとも、しょせんは仮初めの法則。この少年にとって此処は、いっときの泡沫(うたかた)に過ぎない、限られた遊び場だったのです。

 浅い場所なら、それでも帰り道を忘れませんでした。

 けれど、あぁ。深くまで沈みすぎたのです。


『……そうだったな』


 最初からずっと、ヘンゼルは人間でした。

 大切なものを抱きしめる腕と、道を往くための脚の代償に。

 太陽が、空気が、陸がなければ生きられない、どしようもなく人の子でした。


『君は俺とは違う。陸で生きるべき人間だった』


 鯨は俯き、尾ひれを垂れます。

 しかし、迷っている時間はありません。

 ほんの一秒か二秒、閉じて開いた眼には、固い決意が宿っていました。

 促すように、白い手が指を一本立てます。

 鯨は頷き、赤い爪の指す方向を振り仰いで、上昇を始めました。

 即ち、天へ。


『君、最高の海をありがとう!』


 言い残した鯨を、オオグチホヤが、大笑いで見送りました。

 沈んできた階調を逆に辿って、全速力で水面を目指します。

 黒が灰色へ、紺色へ、青へ、水色へ。

 移り変わる景色に、鯨は見惚れました。クラゲが淡く灯って漂い、エイが尻尾を振って笑いかけ、鮫が睨んで通り過ぎ、色とりどりの魚の群れが慌てて道を空け、海草がゆらゆらと揺らめき、珊瑚が静かに佇み、イソギンチャクに隠れた小魚たちが、おっかなびっくり顔を出して、そっと様子を窺います。

 射し込む太陽の光が、優しく視界をくすぐりました。

 こんなときだっていうのに。

 鯨は、その光景を眼に焼き付けました。鼻に、腹に、背に、ひれに、かつてないほど全身で、震えるくらい峻烈に今、海を感じていました。

 ――なんて美しい世界なんだ!

 水天の太陽へ、一直線。

 海面から飛び出して、思い切り潮を吹けば、飛沫に乱反射する光が、きらきらと鯨の身体を包み込んで、真夏の空に、七色の虹を架けました。


『さぁ、大仕事だ!』


 これでもかと大口を開け、鯨は、海水を飲み込み始めました。

 その勢いの凄まじいこと、信じられない早さで、海面が下がってゆきます。

 飲み込んだ海で、鯨の腹が、むくむくと膨らみました。

 浅瀬が飲み込まれると、次は中層です。海水と一緒にやってきた派手な魚が、赤や黄色の振り袖で、可憐に喉を滑り降ります。先客のヤドカリは、驚いて殻に隠れてしまいました。それを横目にマンボウが、のんびり旅を満喫します。ウニは先を争って転がり、フグが対抗して尖り、引き伸ばされた腹のいちばん薄い部分から、メガネウオの厳つい顔が、ぎろり流し目を送りました。

 深海まで来ると、変な奴らが増えてきます。

 脳味噌丸出しのデメニギスに、この破廉恥めとウツボが牙を剥きます。タカアシガニとダイオウグソクムシは、仲良く並んで散歩中。オジサンはやっぱりオジサンみたいな顔で、オウムガイは昔と変わらず、メンダコにだって悩みはありました。恥ずかしがり屋のチンアナゴには、バットフィッシュから、熱いキスをどうぞ。

 すべてが腹に収まった頃、鯨の姿は、もう原形を留めていませんでした。

 無理もありません。あれほど広かった海を丸ごと、一滴残らず飲み干したのですから。水を入れすぎた水風船のように、膨張を続けた身体はパンパンに張り詰め、とうとう透けて、見えなくなってしまったのでした。

 ざざぁ。ざざざぁん。

 途方もなく大きな球が、太陽を背負って、ぽっかりと浮かんでいます。

 それは海でした。

 蒼穹に於いて、いっそう紺碧に居座るそれは、凝縮された海でした。

 青い濃淡の階調を成して、仄かに磯の香りを放ち、中はでたくさんの生き物たちが、生命を謳歌しています。

 しっかりと白い手に掴まれた少年を、ひとり残して。

 ――ぴちっ。

 ひときわ高く波が吠え、海原に亀裂が入りました。

 たちまち走る隙間から、真夏の太陽が溢れ出します。

 それでも、青い潮騒が歌うのは、きっと悲しい唄ではありませんでした。






『あぁ楽しかった!』







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