こんなにも沈んでしまった
9.
仰向けで沈んでゆく視界に、静寂の世界が訪れました。
水面は遙か遠く、あれほど峻烈だった太陽の光も届かず、辺りは薄ぼんやりと、宵闇のような灰色に包まれています。出逢う生き物たちの姿も、ずいぶん様変わりしました。樹は立派な珊瑚に、草は頼りない海草に、獣は下半身が魚に。虫などは人間並みの巨体で、羽をひれ代りに、ぶぶぶと泳ぐのです。
時折、胸から下げたペンダントが、オレンジ色にヘンゼルの額を照らしました。
「みんな変わったねぇ」
『適応したんだろうな』
ヘンゼルの呟きに答えたのは、隣の影です。
仄暗い世界で、いっとう黒い大きなそれは、鯨でした。
深く潜るにつれ、どんどん身体が巨大化して、今はもう建物ほどの大きさです。海が広がるから鯨が大きくなるのか、鯨が大きくなるから海が広がるのか。どちらなのか、ヘンゼルにはわかりません。
確かなのは、この海が絶え間なく成長を続けているということです。
きっと、底へ底へ。
「見て見て! 三角のジュータンが飛んでる!」
『お、エイだな』
不器用に海草を囓っていた兎が、耳をばたつかせて逃げ出しました。
エイは、悠然とその間を泳いできます。鮫を連想してやや身構えたヘンゼルですが、通りすがりに見上げたエイの裏側には、なんとも気の抜ける笑顔が貼り付いていました。
ぷっと笑って、自分も寝間着を捲り上げました。お返しです。
少し遅れて、同じくやけに平べったい魚が、ぺらぺらと泳いでゆきました。
小魚の類いは、滅多に見かけなくなったな。
「わっ、おばけ!」
なんてことを考えている最中、突然ぬぅっと透明な袋が、眼前に現れます。
『クラゲさ。気を付けろ。刺されるぞ』
「い、生き物?」
『一応な』
完全に透けてしまっているけれど。
ランプのように発光しながら、長い触手を引いて漂う様子は、どう控えめに見ても、彷徨う亡霊です。なんて姿で暗い海中にいるのでしょう。しかもよく見れば、一匹や二匹ではなく、たくさんいます。
刺されたら、自分も透明になってしまうかもしれない。
しばらくヘンゼルは、クラゲを避けるのに集中していました。
そうしていると、底の方から、やはり白っぽい大きな物体が、触手をなびかせて浮かんできます。
「あのクラゲ、おっきいね」
『いや、あれは……』
近くまで来て、その異形に驚きました。
細長い筒状の胴体で、頭は鏃そっくりに尖り、そこから何本もの触手が生えているのです。縮んだり伸びたり、忙しなく水を切って移動する様は、昆虫のようでもあり、精巧な道具のようでもありました。
『イカだな』
「すごいねぇ。脚がいっぱい。速く走るんだろうなぁ」
『おっと、実はそっちが上なんだぜ』
「え! じゃあ、頭から脚が生えてるの?」
『そういうことだな。驚きだ!』
「へぇえ」
イカは、逆さまのヘンゼルを仲間と思ったのか、馬鹿にされたと憤慨したのか、或いは若輩を教育すべしと張り切ったのか。何本かの触手を伸ばして、ぺたぺたとまさぐり始めました。
「くすぐったい!」
きゃははと笑って、ヘンゼルは暴れました。
触手には吸盤があり、それが腕や頬を突くので、こそばゆいったらありません。
特に首筋は駄目です。ぞわっと鳥肌が立ち、ひときわ強く身を捩ります。
その拍子に、首から提げていたペンダントが、するりと抜けました。
「あっ――」
しまった。
どうして外れたのでしょう。散々、好き勝手に動き回っていたのです。それこそ今の今まで逆さまで沈んできたし、鯨の魚雷じみた突進にも耐えたのに。なにより頭より狭い輪になった鎖が、どうしたら抜けるのでしょう?
考えたところで、意味がありませんでした。
さほど重くないはずのペンダントは、伸ばした指先は間に合わず、オレンジの光が尾を引いて、暗い海底へと消えてゆきます。
「ねぇ、追い掛けて!」
鯨の胸びれに掻い付いて、ヘンゼルは叫んでいました。
『あれ大事なものだったのかい?』
「……たぶん」
正直、わかりません。
実を言うと、着けていることすら忘れていました。
でも、きっとそうなのです。理由もないまま、湧き上がる不安を止められないのです。あれをなくしたら、何か大変な、取り返しの付かないことになる。
『わかった! しっかり掴まれよ!』
任せな。鯨はそう言って、潜行を始めました。
たちまち速度が上がり、水圧が前髪を持ち上げます。
――そういえば結局、鯨の眼を見付けられなかったな。
沈んでゆく感覚の中、何故だかヘンゼルは、ふとそんなことを思いました。
どのくらい沈んだのでしょう。
いつしか、辺りは真っ暗でした。水の流れによる微かな濃淡も、たまに出逢ったクラゲやタコも、珊瑚も鮫もエイも、もういません。己の口から零れる泡さえも、見えなくなりました。この身体が、本当に此処に在るのかどうか。自信がなくなりそうなくらい、深い闇です。
「ねぇ」
『あぁ。いるぞ』
問いかけると、すぐ隣で返事があります。
触れているはずの鯨は、その輪郭すら背景と見分けが付かず、ヘンゼルは、闇を撫でているような気がしました。
『さぁ、海底に着いたわけだが……どうする?』
と、言われても、どうしましょう。
四方八方どっちを向いても、闇ばかりです。
考えながら辺りを見回していると、少し遠くに、小さな灯りが見えました。
あれかな。
鯨の横っ腹に片手を突きながら、ヘンゼルは泳ぎ出します。
そうしてある程度まで近付いたところで、違和感を憶えました。
少しだけ海底から浮いた灯りが、ちろちろと揺れています。確かにペンダントは軽い素材ではありましたが、水に浮くほどのものだったでしょうか。現に、沈んだから追い掛けてきたのです。色も変でした。こんな白っぽかったっけ?
疑問ながらも、手を伸ばしました。
すると突然、灯りの背後に、物凄い顔が浮かび上がったのです。
「うわっ!」
その顔の、怖いこと。がっしりした顎に、凶暴そうな牙を剥いて、ほとんど白目の両眼は到底、生き物とは思えません。ごつごつと隆起した頬骨など、それだけで充分に威嚇です。ペンダントと間違えた灯りは、こいつの額から生えていたものの一部だったのでした。
ヘンゼルも驚きましたが、向こうも驚いたようです。
砂煙を立てて、一目散に逃げてゆきました。
『はははっ! チョウチンアンコウだったな!』
「びっくりした! なんであんなに怒ってたの?」
『ああいう顔なのさ。レディなんだから、まぁ言ってやるな』
「れでぃ……」
『あの光で餌を誘き寄せるんだ。君、危うく釣られるところだったぞ』
「魚が? 釣りするの?」
『あぁ。此処まで深くなると変な奴も多……ん?』
笑っていた鯨が、不意に言葉を切りました、
「どうしたの?」
『おい、これ。使えるんじゃないか?』
言われて見ると、チョウチンアンコウのいた場所に、青白い光の粒が落ちています。餌にするというから、どんな虫の形をしているかと思ったら、普通に綺麗な玉でした。大きさも、ちょうどビー玉くらいです。
「忘れていったのかなぁ」
『暗くて難儀してるんだろう? 有り難く借りようぜ』
「でも、困ってないかな?」
『なに、どっかで会ったら返してやればいいさ』
それもそうか。
ヘンゼルは、青白い光を拾い上げ、チョウチンアンコウの逃げていった方へ進むことにしました。
「わぁ、これきれい! ランプみたい!」
『カイロウドウケツだな』
「中にエビさんがいるよ! ステキなおうちだね!」
『愛の巣ってやつさ。でもこれ、三匹入っちまってるなぁ……』
「どうやって出入りするの?」
『しない。一生その中で暮らすのさ。本来は番しかいないはずなんだが、たまーにこういう事故もある。海老共の気持ちを考えると複雑だぜ』
「うわっ! 口! 口がいっぱい生えてる!」
『お、オオグチホヤだ』
「すっごい笑ってるよ! ご、ゴキゲンなのかな……?」
『ははは、餌を食ってるのさ』
「よっぽどおいしいご飯なんだね」
二人の声が弾んでいたのも、初めのうちです。
やがて出逢うものがいなくなった頃、其処は完全な静寂の世界でした。
もとより、当てがあるわけではないのです。
植物も岩も変な生き物も、動くものも動かないものも何もありません。ましてや目印なんて。頼りない灯りに照らされた景色は、まるで代わり映えしません。ただ何処までも闇が続いていました。
なんとなく途切れた会話を再開するきっかけもなく、ヘンゼルは、手遊びめいて青白い光を振ります。誰も答えず何も起こらず、緩く握った拳の隙間が、顔に奇妙な影を作るのでした。
――あぁ。
広くて、暗くて、果てがない。
強く拳を握れば、眼を閉じているのと同じ世界。
闇と身体の境界線が薄れて、ひとつに溶けてしまったみたい。
なんだろう。僕は、これを知っている気がする。
前にも、こんなことがあったような、気がする。
そう。喋る傘と一緒に、紫陽花の迷路を潜ったときも。そう思った。
だけど、違う。それは誰もいない世界で。
僕はひとりぼっちなんだ。
ひとりで、長い闇を歩いて、それで。
いつだったろう。思い出せない。
遠い昔か。つい最近か。それとも。
繰り返す明日の先の、終わりの果て――
『君、見ろよ!』
鯨の声で我に返りました。
ハッとして、鯨に向き直ります。
「え、なに?」
『あれ。そうじゃないか?』
言われて、キョロキョロと首を巡らせます。
探す必要はありませんでした。
前方に、ぽつんとオレンジ色の灯りが見えます。
近寄って確認すれば、それはまさしく、落としたペンダントに違いありませんでした。やや海底に埋もれてはいますが、目立った傷もなく、無事でいてくれたようです。こんな場所に落として見付かるなんて、本当に幸運でした。
「よかった!」
心底ホッとして、ヘンゼルは、身を屈めました。
ペンダントを拾い上げ、元通り首から提げた、そのときです。
海底から一本の腕が突き出して、ヘンゼルの足首を掴みました。




