眠りによせて
8.
忙しない飛沫を立てて、ムゥの脚が、寝室をうろつきます。
二徹目の顔色は、酷いものでした。目の下には隈が浮かび、纏め髪は解れ、唇は乾燥して、こっちの方が病人みたいです。食事は喉を通らず、水分すら、まともに取っていません。周りには、こんなに水があるのに。
忌々しく視線を巡らせれば、メモ帳や帽子、サンダル、その他細々した生活用品などが、ぷかぷか波に漂っていました。乱雑極まる状態ですが、もはや片付ける気にもならず、ムゥは、力なくベッドへ腰を下ろします。
傍らで、幸せそうな顔のヘンゼルが、安らかに寝息を立てていました。
これが普通の眠りなら、どんなに幸せだったでしょう。
一昨日の朝、入浴中に意識を失ってから、ヘンゼルが眼を醒ましません。
呼びかけたり揺すったり、好物で釣ってみたり刺激臭を嗅がせたりと、いろいろ手を尽くしても、まるで反応を示さず、一向に起き上がる気配がないのです。外傷はなく、病気の可能性も考えましたが、こんな症状は聞いたこともありません。
「くそっ」
ムゥは、眉間に皺を寄せて、胸のペンダントを睨みました。
ざわざわ、と表面が波打ち、押し流されて、星の位置が変わります。
命札の表示が、完全に狂っていました。
どう弄っても地図は表示されず、水中のような画面のまま、ただ徒に星が移ろうばかりです。この星はヘンゼルの居場所を示すはずで、ヘンゼルは此処にちゃんと眠っています。なのにどうして、こうも安定しないのか。
――なにより、異変と同時に現れた、この海水。
「落人……」
決して無関係ではないでしょう。
何処かで接触し、影響を受けているに違いない。
でも、いつ。何処で?
ムゥは文字通り頭を抱えて、溜息を吐きます。落人の仕業ならば、本体を探して対話する必要がありました。これまでの経験から、彼等の望みを叶えるか心残りを解消することで、事態が終息するはずです。おそらくそこは間違っていません。
けれどその落人は、いったい何処の何者なのか。
この広い森の何処にいて、何を望んで、どんな心残りを持っている?
雲を掴むような話でした。
ムゥ自身が付けていた記録を漁ったり、ヘンゼルの絵日記を読み返したり、必死で捜索しているのですが、まだ手掛かりすら見付かりません。今はヘンゼルの看病をムゥに任せて、セヴァが森中を駆け回っています。
それも、難航している様子でした。
何処も彼処も水没しているのです。いくら俊足で眼の利くセヴァでも、水中では思うように動けません。駆け回っているというより、泳ぎ回っているといった有様です。作業が進むわけがない。
水位は止まることなく上がり続け、背の高い樹や岩を飲み込み、とうとう今朝、此処まで水が来てしまいました。濡れはしないものの、足を取られて歩きづらいったらありません。ただでさえ不安と焦燥で苛々しているムゥは、庭の蝉の鳴き声にすら、癇癪を起こしそうでした。
「あぁ。すまない」
知らず、ヘンゼルの髪を撫でていた手に、力が入っていました。
幼い額に浮かぶ汗が、目に留まります。
丁寧に拭いてやり、団扇で扇いでやりました。暑そうなのですが、冷やして良いものかどうか、わからないのです。眠り込んでいるヘンゼルは、何も口にすることができません。なるべく体温は下げない方針で、セヴァと話が着いていました。
「……暑いだろうな」
呟くムゥの顎から、汗が滴り落ちて、ぽちゃん。
小さな波紋が、波間に消えます。
「目が覚めたら、掻き氷を作ってやろう。お前、好きだものな」
返事は、静かな寝息です。
――あぁ。今すぐ眼を醒ましてくれたら。
なんだって好きなものを作ってやるのに。
「絶対に助けるからな。頑張れよ。頑張ってくれ」
外で、ばしゃばしゃと音がしました。
セヴァが帰ってきたようです。
「どうだった!?」
待ちきれず、開け放した窓から顔を出して訊ねました。
褌一丁のセヴァが、苦い表情で首を振ります。
「収穫なしだ。千年杉まで行ってきたンだが」
そもそも何処を目指すべきなのか。
何一つとして、確証はないのでした。
「嫌な海だぜ。濡れやしねェのに泳ぎゃ疲れやがる」
「実体はないのだろうか? 幻でも見せられているのか?」
「それにしちゃァ、磯臭ェ」
くん、と鼻を鳴らし、セヴァは腰に手を当てます。
何故だか、その仕草が癇に障りました。
別に、セヴァは悪くありません。わかっています。それでも、何度目かの捜索が徒労に終わった失望、募り続ける不安、体力と精神力の消耗。重なれば、理不尽に声を荒げてしまいます。
「あぁもう、私と代われ! じっと待ってなどいられるか!」
「馬鹿野郎ゥ。お前カナヅチだろ」
「逆にいいかもしれない。底を重点的に捜せる」
「いや息どォすんだよ」
「くっそ!」
もう、言っていることが滅茶苦茶です。
セヴァは、興奮するムゥの肩に手を置き、頭を振りました。
「落ち着けッて。まずお前が何か食え。でなきゃ飲め。死んじまうぞ」
「そんな悠長な!」
「俺も水ゥ飲ませてくれや。ちッと休憩だ」
ムゥを押し退け、窓を軽々と超えて、セヴァが室内に侵入します。
更に何事か喚こうとしたムゥでしたが、その端正な横顔に、隠しきれない疲労を見て、ぐっと口を噤みました。
「俺らが先にくたばッちゃ、面目立たねェだろ」
セヴァが、サイドテーブルの上の水筒を一口煽り、差し向けてきます。
「…………」
素直に受け取り、ムゥは残りを飲み干しました。
そうだ。八つ当たりしてる場合じゃない。
体力がいる。気力がいる。冷静にならなければ。
口元を拭いながら、今後の対策を詰めようと、セヴァへ向き直りました。
セヴァは、神妙な面持ちで、自分の命札を見つめています。
「……考えてたンだけどよゥ」
目が合って、ぽつりと切り出しました。
「この星の位置、存外正しいンじゃねェか?」
「命札か? そんなわけないだろう。ヘンゼルは此処にいるんだ」
「身体はな」
「何が言いたいんだ?」
「ムゥ。お前、それ外せ」
「なんなんだ」
「どォせ着けてても仕方ねェだろ」
意図が見えませんが、こんなときに冗談でもなさそうです。
訝しみつつも、ムゥは命札を外して、セヴァに渡しました。
セヴァは、ベッドに片膝を乗り上げて、眠るヘンゼルを見下ろします。
そして、自分とムゥの命札でヘンゼルの命札を挟み、三枚を重ねました。
「何かの術か?」
「や、ほんの願掛けさ」
ふっと笑って、セヴァはヘンゼルの手を握りました。
「おチビのこッた。身体は此処にあっても、心だけどっかフラフラ遊び歩いてるンじゃねェかってな。なら、いつものことだろ」
あぁ。
ムゥの口元に、ようやく小さな笑みが浮かびました。
違いない。この子はすぐ目の前のことに夢中になって、私たちを忘れてしまう。
「だったら迎えに行かないとな」
不意に脚から力が抜けて、ムゥは再びベッドに腰を下ろしました。
ヘンゼルを挟んで、右手にムゥ。左手にセヴァ。図らずも命札と同じ構図です。
最近は数が減りましたが、前は近場へ出掛けるときなど、よくこうして三人、手を繋いで歩いたものでした。
「……ヘンゼル」
つと瞼が下がります。
いけない。眠っては駄目だ。休んでる暇なんてないぞ。
焦る心中とは裏腹に、身体が重くて堪りません。シャワシャワと蝉の声に、脳が痺れます。危機感と不安を抱いたまま、けれどいったん緩んだ目頭はどうにもならず、抗い難い眠気がムゥを襲いました。まずい。覚醒薬が、まだ抽斗に。立ち上がろうとして、ヘンゼルの隣へ横倒しになります。
潮の香りが……遠ざかる……。
ざざざぁん。
ひときわ大きな波に呑まれて、ムゥの意識は、紺碧へ沈んでゆきました。




