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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
静かの海がやってくる
57/91

眠りによせて

8.






 忙しない飛沫を立てて、ムゥの脚が、寝室をうろつきます。

 二徹目の顔色は、酷いものでした。目の下には隈が浮かび、纏め髪は解れ、唇は乾燥して、こっちの方が病人みたいです。食事は喉を通らず、水分すら、まともに取っていません。周りには、こんなに水があるのに。

 忌々しく視線を巡らせれば、メモ帳や帽子、サンダル、その他細々した生活用品などが、ぷかぷか波に漂っていました。乱雑極まる状態ですが、もはや片付ける気にもならず、ムゥは、力なくベッドへ腰を下ろします。

 傍らで、幸せそうな顔のヘンゼルが、安らかに寝息を立てていました。

 これが普通の眠りなら、どんなに幸せだったでしょう。

 一昨日の朝、入浴中に意識を失ってから、ヘンゼルが眼を醒ましません。

 呼びかけたり揺すったり、好物で釣ってみたり刺激臭を嗅がせたりと、いろいろ手を尽くしても、まるで反応を示さず、一向に起き上がる気配がないのです。外傷はなく、病気の可能性も考えましたが、こんな症状は聞いたこともありません。


「くそっ」


 ムゥは、眉間に皺を寄せて、胸のペンダントを睨みました。

 ざわざわ、と表面が波打ち、押し流されて、星の位置が変わります。

 命札の表示が、完全に狂っていました。

 どう弄っても地図は表示されず、水中のような画面のまま、ただ徒に星が移ろうばかりです。この星はヘンゼルの居場所を示すはずで、ヘンゼルは此処にちゃんと眠っています。なのにどうして、こうも安定しないのか。

 ――なにより、異変と同時に現れた、この海水。


落人(おちゆうど)……」


 決して無関係ではないでしょう。

 何処かで接触し、影響を受けているに違いない。

 でも、いつ。何処で?

 ムゥは文字通り頭を抱えて、溜息を吐きます。落人の仕業ならば、本体を探して対話する必要がありました。これまでの経験から、彼等の望みを叶えるか心残りを解消することで、事態が終息するはずです。おそらくそこは間違っていません。

 けれどその落人は、いったい何処の何者なのか。

 この広い森の何処にいて、何を望んで、どんな心残りを持っている?

 雲を掴むような話でした。

 ムゥ自身が付けていた記録を漁ったり、ヘンゼルの絵日記を読み返したり、必死で捜索しているのですが、まだ手掛かりすら見付かりません。今はヘンゼルの看病をムゥに任せて、セヴァが森中を駆け回っています。

 それも、難航している様子でした。

 何処も彼処も水没しているのです。いくら俊足で眼の利くセヴァでも、水中では思うように動けません。駆け回っているというより、泳ぎ回っているといった有様です。作業が進むわけがない。

 水位は止まることなく上がり続け、背の高い樹や岩を飲み込み、とうとう今朝、此処まで水が来てしまいました。濡れはしないものの、足を取られて歩きづらいったらありません。ただでさえ不安と焦燥で苛々しているムゥは、庭の蝉の鳴き声にすら、癇癪を起こしそうでした。


「あぁ。すまない」


 知らず、ヘンゼルの髪を撫でていた手に、力が入っていました。

 幼い額に浮かぶ汗が、目に留まります。

 丁寧に拭いてやり、団扇で扇いでやりました。暑そうなのですが、冷やして良いものかどうか、わからないのです。眠り込んでいるヘンゼルは、何も口にすることができません。なるべく体温は下げない方針で、セヴァと話が着いていました。


「……暑いだろうな」


 呟くムゥの顎から、汗が滴り落ちて、ぽちゃん。

 小さな波紋が、波間に消えます。


「目が覚めたら、掻き氷を作ってやろう。お前、好きだものな」


 返事は、静かな寝息です。

 ――あぁ。今すぐ眼を醒ましてくれたら。

 なんだって好きなものを作ってやるのに。


「絶対に助けるからな。頑張れよ。頑張ってくれ」


 外で、ばしゃばしゃと音がしました。

 セヴァが帰ってきたようです。


「どうだった!?」


 待ちきれず、開け放した窓から顔を出して訊ねました。

 褌一丁のセヴァが、苦い表情で首を振ります。


「収穫なしだ。千年杉まで行ってきたンだが」


 そもそも何処を目指すべきなのか。

 何一つとして、確証はないのでした。


「嫌な海だぜ。濡れやしねェのに泳ぎゃ疲れやがる」

「実体はないのだろうか? 幻でも見せられているのか?」

「それにしちゃァ、磯臭ェ」


 くん、と鼻を鳴らし、セヴァは腰に手を当てます。

 何故だか、その仕草が癇に障りました。

 別に、セヴァは悪くありません。わかっています。それでも、何度目かの捜索が徒労に終わった失望、募り続ける不安、体力と精神力の消耗。重なれば、理不尽に声を荒げてしまいます。


「あぁもう、私と代われ! じっと待ってなどいられるか!」

「馬鹿野郎ゥ。お前カナヅチだろ」

「逆にいいかもしれない。底を重点的に捜せる」

「いや息どォすんだよ」

「くっそ!」


 もう、言っていることが滅茶苦茶です。

 セヴァは、興奮するムゥの肩に手を置き、頭を振りました。


「落ち着けッて。まずお前が何か食え。でなきゃ飲め。死んじまうぞ」

「そんな悠長な!」

「俺も水ゥ飲ませてくれや。ちッと休憩だ」


 ムゥを押し退け、窓を軽々と超えて、セヴァが室内に侵入します。

 更に何事か喚こうとしたムゥでしたが、その端正な横顔に、隠しきれない疲労を見て、ぐっと口を噤みました。


「俺らが先にくたばッちゃ、面目立たねェだろ」


 セヴァが、サイドテーブルの上の水筒を一口煽り、差し向けてきます。


「…………」


 素直に受け取り、ムゥは残りを飲み干しました。

 そうだ。八つ当たりしてる場合じゃない。

 体力がいる。気力がいる。冷静にならなければ。

 口元を拭いながら、今後の対策を詰めようと、セヴァへ向き直りました。

 セヴァは、神妙な面持ちで、自分の命札を見つめています。


「……考えてたンだけどよゥ」


 目が合って、ぽつりと切り出しました。


「この星の位置、存外正しいンじゃねェか?」

「命札か? そんなわけないだろう。ヘンゼルは此処にいるんだ」

「身体はな」

「何が言いたいんだ?」

「ムゥ。お前、それ外せ」

「なんなんだ」

「どォせ着けてても仕方ねェだろ」


 意図が見えませんが、こんなときに冗談でもなさそうです。

 訝しみつつも、ムゥは命札を外して、セヴァに渡しました。

 セヴァは、ベッドに片膝を乗り上げて、眠るヘンゼルを見下ろします。

 そして、自分とムゥの命札でヘンゼルの命札を挟み、三枚を重ねました。


「何かの術か?」

「や、ほんの願掛けさ」


 ふっと笑って、セヴァはヘンゼルの手を握りました。


「おチビのこッた。身体は此処にあっても、心だけどっかフラフラ遊び歩いてるンじゃねェかってな。なら、いつものことだろ」


 あぁ。

 ムゥの口元に、ようやく小さな笑みが浮かびました。

 違いない。この子はすぐ目の前のことに夢中になって、私たちを忘れてしまう。


「だったら迎えに行かないとな」


 不意に脚から力が抜けて、ムゥは再びベッドに腰を下ろしました。

 ヘンゼルを挟んで、右手にムゥ。左手にセヴァ。図らずも命札と同じ構図です。

 最近は数が減りましたが、前は近場へ出掛けるときなど、よくこうして三人、手を繋いで歩いたものでした。


「……ヘンゼル」


 つと瞼が下がります。

 いけない。眠っては駄目だ。休んでる暇なんてないぞ。

 焦る心中とは裏腹に、身体が重くて堪りません。シャワシャワと蝉の声に、脳が痺れます。危機感と不安を抱いたまま、けれどいったん緩んだ目頭はどうにもならず、抗い難い眠気がムゥを襲いました。まずい。覚醒薬が、まだ抽斗(ひきだし)に。立ち上がろうとして、ヘンゼルの隣へ横倒しになります。

 潮の香りが……遠ざかる……。

 ざざざぁん。

 ひときわ大きな波に呑まれて、ムゥの意識は、紺碧へ沈んでゆきました。







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