水天一碧
6.
あぁ。
溜息を吐くと、唇から、ぽこぽこと泡が零れます。
水位はとうにヘンゼルの頭を超え、樹木を沈め、今や地面は遙か底。いつも土と緑の匂いがする空間を満たしているのは、海水でした。ざざざぁん。やけに遠くで波の音が聞こえます。樹の幹に留まった蝉が、むわぁんむわんと鳴いて、その周りで、微かな波紋が震えていました。
揺れる木の葉が、不意に千切れて、小さな気泡と共に昇ってゆきます。
それを視線で追えば、差し込む光に目が眩みました。波間を滑る太陽が、水面で弾けて、広がって、薄雲めいて輝きます。
なんという世界だろうか。
『よう、おかえり!』
呼ばれて振り返ります。
誰もいません。
『こっちだこっち』
笑い声に足下を見ると、馬ほどの大きさの岩が……いえ、鯨です。
「おっきくなったねぇ!」
『だろう!』
鯨は、そのままヘンゼルを背に乗せて、ゆったり泳ぎ始めました。
振り落とされないよう、身体全体で掴まります。
くすぐったいぜ、と鯨が身を捩りました。
了解です。もっとくすぐってあげましょう。
『あっはははは! よしてくれ!』
「うふふふ」
大きな泡が、一人と一頭の口から溢れました。
「あれっ?」
ヘンゼルは、このとき初めて気付きました。
息が、できます。しかも、風呂や湖のような抵抗がありません。浮かんでいるのに変わりはありませんが、これでは水中ではなく、まるで空中です。陸にいるときと同じく自由で――いえ、もっと身軽なくらいです。
「水の中なのに苦しくないよ」
『そりゃあ、君の海だもんなぁ』
まるきり答えになっていない気がしますが、そう言われてしまうと、納得する他ありません。ヘンゼルにとっては、そんなことより今、水中を好きに動き回れるという事実の方が大事なのです。
むくむくと冒険心が湧いてきました。
お誘いでしょうか。
鮮やかな赤い魚の群れが、金髪を掠めて通り過ぎました。
「わぁ!」
思わず、群れのド真ん中を目掛けて突っ込みます。
たちまち魚たちはパッと散って、我先にと逃げ惑いました。
「あ、ごめんね!」
『はははっ。君、苛めちゃ駄目だぜ』
「いっしょに泳ぎたかった……」
『それじゃあ、俺とデートなんてどうだい?』
行こう。
ゆっくりと旋回した鯨の鼻先には、夢のような光景が広がっていました。
青の階調に呑まれた森は、さながら絵本の世界です。樹木の枝はゆらゆら手招くように揺れ、夏草と並んでピンクの珊瑚が生え、その合間に向日葵が咲いて、青と黄色の見事なコントラスト。赤だけでなく、様々な色の魚たちが空間を彩ります。三角で縞模様の魚は、初めて見ました。小魚は群れていますが、中にはヘンゼルと同じくらい大きい魚もいます。
水面を透かして差し込む光が、そんな世界を優しく伝播してゆきます。
「あの草、ぺらぺらだよ」
『ワカメだな。食うと美味いぜ』
「わぁ、おっきい貝!」
『触るな。シャコ貝だ。挟まれたら腕は御陀仏だぞ』
「ひえっ……」
心なしか白っぽい地面には、ぽつぽつとヒトデが落ちています。
集めてみようかな。
手を伸ばしかけて、入れ物がないので、やめておきました。また寝間着一枚なのです。あの、狂気を感じるまでの裏側を思い出すと、ゾッとします。ポケットの中で動き回られたら、悲鳴を上げてしまうでしょう。
珊瑚の林を抜けて行くと、今度は小楢の林です。
カブトムシが二匹、角を突き合わせて押し合っていました。
「ケンカしてる」
『おっと、手を出すなよ。男の勝負だ』
言われたとおり、ヘンゼルは固唾を呑んで見守ります。
密かに小さな方を応援していたのですが、やはり勝ったのは大きい方でした。
角で放り出されて、樹の幹には戻らず、羽を広げて飛び去ろうとします。
それが、とてもゆっくりなのです。
ヘンゼルにも、簡単に捕まえることができました。
「すごいすごい! ぼくつかまえた! 手でつかまえたよ!」
『ははっ、やるなぁ!』
指先で持つ小さな体躯は、それでも充分な闘争心を伝える力強さでした。
甲冑の隙間から、ぷぷぷと泡を吐き出し、脚を広げて藻掻き、ヘンゼルから逃れようと必死です。まだまだ元気そうです。これなら大丈夫ですね。
「君、コンジョーあるねぇ。次はがんばろうね!」
厄日のカブトムシを解放して、ヘンゼルは、次の興味対象を探します。
いつしか、動物たちが、魚に混じって泳いでいました。
いえ……泳いでいる、とは言えません。元が陸用なものですから、勝手がわからないのか、単純に四肢をバタバタさせて、辛うじて前に進んでいるだけです。本来なら俊敏な方向転換も、やたら大仰な動作になってしまうのが滑稽でした。あんなに素速いリスまでが、樹を登るのに一苦労です。
面白かったのは、猪と鹿でした。猪はあの形なので、なんだか溺れているようにしか見えません。鹿は、その立派な角に海草が絡まり、行く先々で小魚に集られて非常に迷惑そうでした。
そういえば、僕も走れないや。
人のこと言えないか、とヘンゼルは、揺らめく金髪を掻きました。
水中で呼吸できる代わりに、歩いたり走ったりといった運動が、ままならないのです。こうして浮いていれば自由に動けるのですが、地面に足を着けると、途端に抵抗が強くなります。普通と逆になっているのです。
……まぁ、いいか。
歩かなきゃいいんだ。
「ねぇクジラさん。どれくらい速く泳げるの?」
『おっ、面白そうだな! やってみるか!』
ふと思って訊ねると、遊び心に火が点いたらしく、鯨は準備運動を始めました。
ぐねぐね、ゆさゆさ。
ユーモラスな動きにひとしきり笑ったら、促されて、背中に跨がります。
『行くぞ!』
「ぜんそくぜんしん!」
ヘンゼルの指さしに合わせて、鯨が、猛スピードで発進しました。
さすがに物凄い水圧です。速攻で振り落とされそうになったヘンゼルは、慌てて上体を倒し、がっしと鯨の背に齧り付きました。金髪が逆立ち、寝間着が暴れ、息をするのが難しくなりましたが、眼だけは閉じられません。
水の抵抗を矢のように切り裂き、あっという間に流れてゆく青い世界に、細かい赤や黄の差し色が尾を引いて、まるで流星です。
こんな光景を見逃せるものですか。
『あっはははは!』
魚が、動物たちが、あたふたと道を空けます。
爪先が振り回され、腹に衝撃が来ても、それがまた楽しくて堪りません。
『君、しっかり掴まってろよ!』
鯨が、ぐんと顎を上向けました。
そのまま角度を付け、急上昇してゆきます。ぐっと全身に圧力が掛かります。
みるみる水面が近付いて、逃げ惑う魚の隙間。
透き通る光の網が広がって――
ざっぱぁああん。
空が破れたのかと思いました。
飛び出したのか、飛び込んだのか、わかりません。
境目を超えた瞬間、焼け付くような空気に包まれました。あぁ、そうです。海の上には、いつだって真夏の太陽が煌々と輝いているものなのです。つんと磯の香りが鼻を突き、鯨の立てた飛沫が、とんでもなく塩辛い。ほんの一秒あるかないかの時間に、どれほどの夏が凝縮されていたことでしょう。
鯨の頭から、霧が噴き出します。
眇めた眼の隙間で乱反射する光に、ヘンゼルは、うっとりと見惚れます。
『なぁ君、ずっと此処にいるといい』
初めて聞く鯨の残響は、けれど何故だか、少しだけ寂しげなのでした。




