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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
静かの海がやってくる
55/92

水天一碧

6.






 あぁ。

 溜息を吐くと、唇から、ぽこぽこと泡が零れます。

 水位はとうにヘンゼルの頭を超え、樹木を沈め、今や地面は遙か底。いつも土と緑の匂いがする空間を満たしているのは、海水でした。ざざざぁん。やけに遠くで波の音が聞こえます。樹の幹に留まった蝉が、むわぁんむわんと鳴いて、その周りで、微かな波紋が震えていました。

 揺れる木の葉が、不意に千切れて、小さな気泡と共に昇ってゆきます。

 それを視線で追えば、差し込む光に目が眩みました。波間を滑る太陽が、水面で弾けて、広がって、薄雲めいて輝きます。

 なんという世界だろうか。


『よう、おかえり!』


 呼ばれて振り返ります。

 誰もいません。


『こっちだこっち』


 笑い声に足下を見ると、馬ほどの大きさの岩が……いえ、鯨です。


「おっきくなったねぇ!」

『だろう!』


 鯨は、そのままヘンゼルを背に乗せて、ゆったり泳ぎ始めました。

 振り落とされないよう、身体全体で掴まります。

 くすぐったいぜ、と鯨が身を捩りました。

 了解です。もっとくすぐってあげましょう。


『あっはははは! よしてくれ!』

「うふふふ」


 大きな泡が、一人と一頭の口から溢れました。


「あれっ?」


 ヘンゼルは、このとき初めて気付きました。

 息が、できます。しかも、風呂や湖のような抵抗がありません。浮かんでいるのに変わりはありませんが、これでは水中ではなく、まるで空中です。陸にいるときと同じく自由で――いえ、もっと身軽なくらいです。


「水の中なのに苦しくないよ」

『そりゃあ、君の海だもんなぁ』


 まるきり答えになっていない気がしますが、そう言われてしまうと、納得する他ありません。ヘンゼルにとっては、そんなことより今、水中を好きに動き回れるという事実の方が大事なのです。

 むくむくと冒険心が湧いてきました。

 お誘いでしょうか。

 鮮やかな赤い魚の群れが、金髪を掠めて通り過ぎました。


「わぁ!」


 思わず、群れのド真ん中を目掛けて突っ込みます。

 たちまち魚たちはパッと散って、我先にと逃げ惑いました。


「あ、ごめんね!」

『はははっ。君、苛めちゃ駄目だぜ』

「いっしょに泳ぎたかった……」

『それじゃあ、俺とデートなんてどうだい?』


 行こう。

 ゆっくりと旋回した鯨の鼻先には、夢のような光景が広がっていました。

 青の階調に呑まれた森は、さながら絵本の世界です。樹木の枝はゆらゆら手招くように揺れ、夏草と並んでピンクの珊瑚が生え、その合間に向日葵が咲いて、青と黄色の見事なコントラスト。赤だけでなく、様々な色の魚たちが空間を彩ります。三角で縞模様の魚は、初めて見ました。小魚は群れていますが、中にはヘンゼルと同じくらい大きい魚もいます。

 水面を透かして差し込む光が、そんな世界を優しく伝播してゆきます。


「あの草、ぺらぺらだよ」

『ワカメだな。食うと美味いぜ』

「わぁ、おっきい貝!」

『触るな。シャコ貝だ。挟まれたら腕は御陀仏だぞ』

「ひえっ……」


 心なしか白っぽい地面には、ぽつぽつとヒトデが落ちています。

 集めてみようかな。

 手を伸ばしかけて、入れ物がないので、やめておきました。また寝間着一枚なのです。あの、狂気を感じるまでの裏側を思い出すと、ゾッとします。ポケットの中で動き回られたら、悲鳴を上げてしまうでしょう。

 珊瑚の林を抜けて行くと、今度は小楢(こなら)の林です。

 カブトムシが二匹、角を突き合わせて押し合っていました。


「ケンカしてる」

『おっと、手を出すなよ。男の勝負だ』


 言われたとおり、ヘンゼルは固唾を呑んで見守ります。

 密かに小さな方を応援していたのですが、やはり勝ったのは大きい方でした。

 角で放り出されて、樹の幹には戻らず、羽を広げて飛び去ろうとします。

 それが、とてもゆっくりなのです。

 ヘンゼルにも、簡単に捕まえることができました。


「すごいすごい! ぼくつかまえた! 手でつかまえたよ!」

『ははっ、やるなぁ!』


 指先で持つ小さな体躯は、それでも充分な闘争心を伝える力強さでした。

 甲冑の隙間から、ぷぷぷと泡を吐き出し、脚を広げて藻掻き、ヘンゼルから逃れようと必死です。まだまだ元気そうです。これなら大丈夫ですね。


「君、コンジョーあるねぇ。次はがんばろうね!」


 厄日のカブトムシを解放して、ヘンゼルは、次の興味対象を探します。

 いつしか、動物たちが、魚に混じって泳いでいました。

 いえ……泳いでいる、とは言えません。元が陸用なものですから、勝手がわからないのか、単純に四肢をバタバタさせて、辛うじて前に進んでいるだけです。本来なら俊敏な方向転換も、やたら大仰な動作になってしまうのが滑稽でした。あんなに素速いリスまでが、樹を登るのに一苦労です。

 面白かったのは、猪と鹿でした。猪はあの形なので、なんだか溺れているようにしか見えません。鹿は、その立派な角に海草が絡まり、行く先々で小魚に集られて非常に迷惑そうでした。

 そういえば、僕も走れないや。

 人のこと言えないか、とヘンゼルは、揺らめく金髪を掻きました。

 水中で呼吸できる代わりに、歩いたり走ったりといった運動が、ままならないのです。こうして浮いていれば自由に動けるのですが、地面に足を着けると、途端に抵抗が強くなります。普通と逆になっているのです。

 ……まぁ、いいか。

 歩かなきゃいいんだ。


「ねぇクジラさん。どれくらい速く泳げるの?」

『おっ、面白そうだな! やってみるか!』


 ふと思って訊ねると、遊び心に火が点いたらしく、鯨は準備運動を始めました。

 ぐねぐね、ゆさゆさ。

 ユーモラスな動きにひとしきり笑ったら、促されて、背中に跨がります。


『行くぞ!』

「ぜんそくぜんしん!」


 ヘンゼルの指さしに合わせて、鯨が、猛スピードで発進しました。

 さすがに物凄い水圧です。速攻で振り落とされそうになったヘンゼルは、慌てて上体を倒し、がっしと鯨の背に齧り付きました。金髪が逆立ち、寝間着が暴れ、息をするのが難しくなりましたが、眼だけは閉じられません。

 水の抵抗を矢のように切り裂き、あっという間に流れてゆく青い世界に、細かい赤や黄の差し色が尾を引いて、まるで流星です。

 こんな光景を見逃せるものですか。


『あっはははは!』


 魚が、動物たちが、あたふたと道を空けます。

 爪先が振り回され、腹に衝撃が来ても、それがまた楽しくて堪りません。


『君、しっかり掴まってろよ!』


 鯨が、ぐんと顎を上向けました。

 そのまま角度を付け、急上昇してゆきます。ぐっと全身に圧力が掛かります。

 みるみる水面が近付いて、逃げ惑う魚の隙間。

 透き通る光の網が広がって――


 ざっぱぁああん。


 空が破れたのかと思いました。

 飛び出したのか、飛び込んだのか、わかりません。

 境目を超えた瞬間、焼け付くような空気に包まれました。あぁ、そうです。海の上には、いつだって真夏の太陽が煌々と輝いているものなのです。つんと磯の香りが鼻を突き、鯨の立てた飛沫が、とんでもなく塩辛い。ほんの一秒あるかないかの時間に、どれほどの夏が凝縮されていたことでしょう。

 鯨の頭から、霧が噴き出します。

 眇めた眼の隙間で乱反射する光に、ヘンゼルは、うっとりと見惚れます。


『なぁ君、ずっと此処にいるといい』


 初めて聞く鯨の残響は、けれど何故だか、少しだけ寂しげなのでした。







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