溢れる侵蝕
5.
無残な破片を前に、ムゥが溜息を吐きました。
まとめた髪は解れて、寄せた眉の間から、一筋ぽとり汗が落ちます。締め切った研究室に、熱が籠もっていました。舌打ちして机に落ちた水滴を拭い、勢い余った拳が、散乱する資料を崩します。ますます顔が曇ります。
「邪魔するぜ」
ノックの音とほぼ同時に、セヴァが入室しました。
もうツッコむ気にもなりません。それノックの意味あるのか。
「寝たか?」
「あァ。泣き疲れたンだろうなァ。ありゃ長引くぜ」
ぼりぼりと項を掻いて、セヴァは肩を竦めます。
気掛かりではありますが、ひとまず眠れたなら良いでしょう。ムゥは頷き、再び机上の課題を見つめました。砕けた小さな海は、ほんの数日前に自分で完成させた作品です。あまりに短い寿命でした。
「お前がヤワな仕事するからだろ」
「そんな簡単に壊れるはずはないんだが……」
ムゥは首を捻ります。
どうして割れたんだろう。床にでも落としたんだろうか。衝撃には殊更強く設計してあります。硝子だって、粘性のある薬品を練り込んだ特殊硝子です。透明度と強度を両立するのに、苦労したのに。
「まぁ、また作るさ。魔道具でもないし、設計図はあるんだ」
夕方、屋根裏からヘンゼルの悲鳴が聞こえたときは、何事かと思いました。割れた物は仕方ない、また作ってやるから。セヴァと二人して慰めて、ようやく寝床へ入れたのが、つい一時間前です。いやはや疲れました。
「そうだ。“命札”はどうだった? 今日テストしただろう」
「おう。泥だらけンなっても虫が集っても濡れても噛んでも問題ねェ」
「何をしてきたんだ……」
確か、畑から西瓜が一つ消えていましたね。犯人が今わかりました。
この際、それは大目に見ましょう。本命が無事なら、作り直すのがマリンドームの方でまだ良かったというべきか。前向きに考えることにして、ムゥは傍の冊子を手に取ります。胸元を寛げて扇げば、ひんやり心臓の位置で、ヘンゼルとおそろいのペンダントが、淡く光っていました。
青。健康状態に問題なし。指先で軽く撫でると、まさに我が家の場所で、小さな星が点滅してるのが確認できます。この星を追うのに、ムゥは今日一日を潰したのですが、これもまた予想以上に疲れました。二人して、地図上をふらふら動き回るものですから、拡大したり縮小したりで、眼が痛いのなんの。
「それ作るの大変だったからなァ」
「作ったのは私だろう」
「測量と地図と術式の構築は俺だ」
「企画とデザインと製造と実用化は私だ」
「どォも犬の首輪みたいで嫌だねェ」
「今だけだ。もう少し大きくなったら外してやるさ」
「術者にしか外せねェって特級呪物じゃねェのかい?」
ムゥは忘れていませんでした。
いえ、どうして忘れることができるでしょう。ヘンゼルが一本の傘に誘拐され、危うく再遭難するところだった(あれは誰がなんと言おうと誘拐だ未成年者略取だ素直なヘンゼルはきっと騙されているんだ)、あの事件を。
以来、ヘンゼルの行動に制限を掛け、外出には目を光らせていましたが、ムゥも家事がありますから、四六時中一緒にいるわけにはいきません。ならばと、対策を講じるべく生まれたのが、この“命札”です。
要は発信器です。装着者の位置情報と健康状態を読み取って、リアルタイムでの確認を可能にします。薄い本体には、セヴァの記した精密な地図が格納され、体調によって三段階に変色する仕組みです。しかも、もしものときには緊急警報が作動するという、過保……親心の結晶でした。
もちろん、ムゥとセヴァが同期した兄弟機を着けています。
ヘンゼルの方はただのペンダントだと思っており、二人の位置もわからないようになっているので、そこはちょっと狡いですけれども。大人にはいろいろありますからね。
正直、渋るセヴァを説き伏せるのに、いちばん苦労しました。彼の協力が不可欠な魔道具ですが、教育方針の違いで衝突することは、ままあるのです。今回はムゥが押し通しました。
「しっかし蒸すねェ。ご自慢の除湿器はどォしたい」
「今、相性の悪い薬品があるんでな。動いてないぞ」
温度や湿度に敏感な物は、地下の保管庫に移してあります。
そもそも、此処はムゥの城なのですから、セヴァに文句を言われる筋合いはないのです。苦く思って見れば、セヴァは浴衣の前を開けて、今日もセクハラ皆勤賞。尻尾こそ夏毛仕様で萎んでいますが、アップにした金髪は元が無駄に豪勢なので、こんなときは鬱陶しいことこの上ありません。
「長毛種は大変だな。剃り上げてやろうか」
「お礼に落ち武者ヘアにしてやンよ」
「それヘンゼルがギャン泣きするだろ」
やめておきましょう。そんな世紀末保護者が二人は嫌すぎます。
「お前こそ、いい加減そのタイツ暑くねェのかい?」
「ふっ、甘いな。これはただのタイツじゃない。素材を厳選し、特殊な術を施した繊維で織り上げた冷感タイツだ。肌触りは最高、伸縮性も抜群、少しの風があれば表面温度を2度下げる。しかも吸湿速乾性に優れ、強度は猫の爪をも」
「何がお前をそこまでさせるんだろォなァ……」
話が不毛になってきたところで、今夜はお開きになりました。
明日はヘンゼルの好物を作って、三人で湖にでも行こう。それで少しは気が晴れるだろう。マリンドームの作り直しは、急げばなんとかなる。
二人はひとまずそう結論づけ、そろって欠伸して、研究室を後にしました。
†
ところが翌朝、少々困ったことになりました。
せっかく早起きして、弁当と朝食を作ったのに、肝心のヘンゼルがなかなか起きてこないのです。
何度か声を掛けても、満面の笑顔でぷうぷう寝息を立てるのみです。楽しい夢を見ているならと、そっとしておいてやりましたが、それにしても遅い。テーブルにはすっかり冷めた朝食が手付かずで並び、セヴァは空腹を紛らわせるためか、麦茶ばかり飲んでいます。
昨日の今日だから、疲れているのか。
ヘンゼルを待ちながら、洗濯まで終えてしまったムゥは、手慰みに花瓶の向日葵を弄っていました。
こんなことが続くようなら、どうしよう。叩き起こすべきなのか。駄目だ可哀想だ。時計も無意味なこの森で、起床時間を厳守してどうする。いやしかし、だからこそ生活のリズムは大事なのであって。幼いうちから寝坊を憶えるのは……。
ちりん。
窓際の風鈴が鳴りました。
寝室のドアが開いて、ばつの悪そうなヘンゼルが顔を出しました。
「ねぼう、しました……ごめんなさい……」
「おはよう。今日はどうした? 具合でも悪いのか?」
ヘンゼルは、首を横に振ります。
柔らかい金髪は盛大に乱れ、寝汗で寝間着はぐちゃぐちゃですが、特に体調不良の様子は見られません。額に掌を当てて確認しても、熱もなし。ちらと見た命札は青です。
反射的に苦笑が漏れていました。
今日も、お説教はできそうにありません。
「顔を洗っておいで。朝顔と向日葵には水を遣っておいたから」
「えっと、おふろ入ってい?」
「あぁ」
そういえば、昨日は風呂にも入らず眠ってしまったのでした。
「ついでに俺も水浴びしてくらァ。朝から暑いのなンのッて」
「そうだな。頼む」
ヘンゼルの世話を買って出てくれたセヴァには、素直に感謝です。
実際、今日は朝から妙に蒸し暑く、久しぶりにリビングの除湿器を作動させました。例年の夏はカラッとして、風さえ通せば、そこまで過酷な環境でもないのですが。雨でも来るのでしょうか。
なら、早めに洗濯物を乾かしてしまった方がいい。
決めて、ムゥは脱衣所へ向かいました。浴室では、セヴァとヘンゼルが楽しげに会話しています。もっと落ち込んでいると思ったのに。杞憂だったか。
脱ぎ捨てられた寝間着を新しいものと取り替え、ムゥは再び庭へ出ました。
高く昇った太陽の光が、ムゥ目掛けて降り注ぎます。
うん。これなら昼過ぎには乾くだろう。
洗い桶に水を張り直し、ムゥは、本日二度目の洗濯を開始しました。
ざざざぁん。
不意に聞こえた音に、顔を上げました。
つんと奇妙な匂いが鼻を突きます。
立ち上がって、瞠目しました。
だって目下に広がっていたのは、その瞳と同じ青。
森が、水に浸かっていたのです。
「……は?」
意味が、わかりません。
ぽかんと立ち尽くす耳に、蝉の鳴き声が聞こえていました。
洪水にでも呑まれたのでしょうか。いつの間に。本来地面であるはずの場所が、すべて水浸しです。水面に頭を出した樹や岩が、湖から生えているみたいに見えました。それに、この匂い。独特のえぐみと生臭さの混じった風味は、ムゥの勘違いでなければ――
まさか。
呟いたそのとき、同時にひどく慌てた声が、ムゥの背に突き刺さりました。
「おい! 来てくれ! チビが……!」




