どうして夏は短いのだろう
4.
ざざぁ。ざざざぁん。
押し寄せる波が、ヘンゼルの膝にぶつかって弾けます。
遠く空との境目から、見渡す限り何処までも、水の世界が続いていました。直射日光を浴びて輝く飛沫が、水面に白と水色の縞を作り、一瞬きらきらと宝石めいて踊って、じきに儚く溶けて消えます。
水平線。
見たこともない景色に、知らないはずの言葉を思い出しました。
あの向こうは、どうなっているんだろう。
少し背伸びをして思い切り吸い込んだ空気は、不思議な味がします。
川に似ていますが、もっと濃い。それに金属と土と塩を混ぜて、えぐみを足したような、妙に生々しい匂いでした。たぶん良い香りではありません。なのに初めて嗅ぐその匂いが、何故でしょう。無性に愛しくて、胸を突く懐かしさに、ヘンゼルは思わず眼を細めるのでした。
照り付ける太陽の下、水に浸った脚だけが、ひんやりと涼しい。
『よっ!』
唐突に、足下から声がしました。
驚いて見ると、犬くらいの大きさの黒い物体が、ちょこんと片手を……いえ、片方の胸びれを挙げています。
「お魚さん!」
昨日の魚でした。
いつからいたのか、水面に頭を出して、ぷかぷか浮かんでいます。
なんだか昨日より立派に見えます。土埃を洗い流されたせいかと思いましたが、それだけではないような。一回りか二回り……
「大きくなってない?」
『驚いたか!』
「なに食べたの?」
『君のくれた海が成長したのさ! だから俺も成長したってわけだ!』
もしかして、昨日の硝子球。
あれの中身が増えて広がり、硝子を破って溢れた結果が、この状態か。
たいしたものです。たった一晩でこんなに育つなんて、どういう食いしん坊なのでしょう。ヘンゼルは半ば呆れ、感心し、素直に羨ましくなりました。いいなぁ。本当に、何を食べたのやら。
『あと、俺は魚じゃないぞ。鯨だ』
「うそだよ! クジラはすっごーく大きいもん。本で読んだもん」
『小さい鯨だっているのさ。それに、魚と鯨は全然違うんだぜ』
「そうなの?」
本来、小さい鯨はイルカといいますが、七歳になったばかりのヘンゼルが鯨類の分類法を知る由もありません。本人が言うからには、彼は魚ではなく小さい鯨で、かといってイルカでもなく、つまりは結局、小さい鯨なのでしょう。ややこしい。
『ところで、どうしたんだい。泣いたりして』
「え?」
首を傾げた拍子に、はらり。涙が頬を伝います。
「え、あれ。ほんとだ。ぼく泣いてる?」
びっくりしました。ちっとも気付かなかった。
どうして? 訊かれても、わかりません。怪我はしていないし、お腹も痛くないのです。叱られた記憶もありません。だったら、どうして?
……思い出せない。
『あぁよせよせ! 悲しいことは忘れてしまえ! そして俺と遊ぼう!』
鯨が、ばしゃんと顔の高さまで跳ねて、鼻先で頬を突きました。
『あっちに美味そうな木の実が生ってるんだ。君、取ってくれよ!』
着水と同時に言って、鯨は、すいっと泳ぎ始めます。
つられて振り返ったヘンゼルは、その姿勢のまま、言葉を失いました。
ざざざぁん。
森が膝丈まで海に浸かっているのです。水没を免れたのは、背の高い樹や岩のみで、土も草も石も、波が覆い尽くしていました。何日も何日も大雨が降り続けば、或いはこの光景を作れるでしょうか。ただ水が波打つだけの場所だと思っていたのに、まさか背後がこんな世界だったなんて。
咲き乱れる向日葵の合間を縫って、黒い姿が遠ざかります。その様子は、まさに水を得た魚。優雅で力強く、無邪気にして自由な、夏の王でした。
彼の言うとおりです。
今、目の前の夏を楽しむことに、なんの理由が必要でしょう。
「待ってー!」
『ははっ、捕まえてごらんなさいってな!』
「よーし言ったなぁ!」
ヘンゼルは、歓声を上げて鯨を追います。
踏み出す脚が、ばしゃばしゃと水を跳ね上げます。その水圧と抵抗が面白くて、わざと大股で乱暴に走りました。どぷん、ばしゃ。ざざぁん。波と調子を合わせて奏でる音楽は、即興の奏鳴曲。
俄然わくわくしてきました。泣いていた理由なんて、どうでもいいじゃないか。
「スモモだ!」
『な? 美味そうだろ?』
「おいしいよ!」
『取れそうか?』
「まかせといて!」
幹はいくらか水没していますが、さして高くもありません。田舎育ちのヘンゼルには楽勝です。するすると登って、手近な実を捥ぎ取ります。引き締まった良い実です。甘く瑞々しい匂いに、唾が出てきました。
鯨のひれでは、皮を剥くことができないでしょう。ならば自分がと李の実に爪を立てたヘンゼルですが、木の股に腰掛けたままという不自然な体勢です。うっかり手が滑ってしまいました。
「あっ」
落ちてくる実を、真下で待ち構えていた鯨が、大きな口で受け止めました。
そして、止める間もなくゴリゴリと噛み砕いて、一言。
『美味いっ!』
一回転して、尾ひれで水面を叩きました。
「ごめん! だいじょうぶ?」
『いや、甘酸っぱくて最高だ! でもちょっと芯が硬いぞ』
「それタネだよ! 食べちゃったの?」
『なぁに平気平気。歯には自信があるんだ』
鯨は鋭い歯を見せて、からからと笑います。
ヘンゼルは、明日から歯磨きを頑張ろうと決心しました。
『もっとくれよ!』
「いいよ!」
まったく問題なさそうなので、片っ端から実を捥いで、落としてやりました。
それを器用に食べながら、鯨が下を泳ぎ回ります。なんだか、そういう芸みたいです。鯨だけに。
そのうち彼が「ごちそうさん」と腹を見せても、作業そのものが楽しくなってしまったヘンゼルは、喜々として収穫を続けました。脱いだ寝間着の上下を風呂敷にして、戦利品を背中に背負えば、両手も空いて、なんか格好良い。
「冒険者だぞ!」
『はははっ、こいつはいい。パンツ一丁の勇者様か!』
ヘンゼルは、すっかり旅人気分で、胸を張りました。
胸元の青いペンダントが、太陽の光を反射して輝きます。
蝉が鳴いています。短い草は波に弄ばれて、水中で行ったり来たり揺れていました。何処に逃げたのか、虫は見当たりません。さすがに鳥は空を飛んでいました。
地上にあるものは、程度の差こそあれ、なにもかも水に浸かっています。向日葵などは重心が上にあるものですから、波が往来すれば、ゆうらゆうら。花が居眠りしているようです。
興奮して見ていると、すいっと小魚が一匹、その影に隠れました。
「お魚だ!」
ヘンゼルは、咄嗟に樹から飛び降りました。
どぷん、と予想以上の水飛沫が上がって、しまったと眉を寄せます。
膝丈とはいえ、下は水なのです。こんなに大きな音と飛沫を立てたら、怖がってしまうに決まっています。案の定、泡を蹴散らして歩み寄ったときには、魚の姿は影も形もありませんでした。
「あーあ……」
がっかりして、顔に跳ねた水滴を拭います。辛い。
『君、そりゃあ魚も驚くだろう』
「悪いことしちゃったなぁ」
『でも、面白い奴がいるぜ』
言われて、ヘンゼルは、鯨が胸びれで指した先を凝視しました。
巻き貝です。別に珍しくはありません。川にもいます。
と思ったら、貝殻からにゅっと中身が出てきました。ヘンゼルの見慣れた軟体ではなく、蟹のような数本の脚です。眼まで付いています。
「なにこれ!?」
『ヤドカリだ。貝じゃなくて蟹や海老の仲間だな』
「貝じゃないの?」
『貝殻を背負ってるだけなんだ。だから成長に合わせて大きいのに引っ越すのさ。優良物件なんかじゃ取り合いが起こるらしいぞ』
「ヘンなの!」
『まったくだ。どういう進化をしたらそうなるんだろうな』
人のこと言えないと思うのだけれど。
素朴な疑問は飲み込みました。それより、今はヤドカリです。水の抵抗を物ともせず、カサカサと何処かへ歩いてゆきます。脚が多いだけあって、移動は貝よりもずっと速い。是非とも追跡して捕まえなければ。
『おい! こっちにも君が喜びそうなのがいるぜ!』
と思ったら、鯨に呼び止められてしまいました。
ヤドカリも気になりますが、なにせヘンゼルは七歳児です。すぐ目の前のことに興味が移ります。ちょっと迷って、結局、誘惑に負けました。
行ってみると、なるほど。いますいます。星の形をした赤い生き物が。
「ヒトデだ!」
『おっ、知ってたか』
「本で読んだよ。お星様が落ちてきたの? って訊いたら笑われて……」
『へぇ、おっ母さんかい?』
「ううん。ええっと」
違います。
あのとき確かに、優しい手で頭を撫でてくれた人がいたのに。
それが誰だったのか、わかりません。
…………?
『なぁ、ひっくり返してみろよ』
悪戯っぽい鯨の声が、ヘンゼルの思考を中断させました。
まぁ、いいや。
「うん! 後ろは見たことないんだ。どうなって……」
次の瞬間、ヘンゼルは、全力でヒトデを放り投げていました。
鯨が水を叩いて爆笑します。
「なっ、なにあれ! なにあれ!」
『あははははっ! 驚いたろう!』
「細い指みたいのがいっぱい! うねうねしてた!」
『触手だ。あれ全部が手足みたいなもんさ』
「うえええぇ」
想像を絶するグロ画像ではありましたが、投げ捨ててはいけません。
ちゃんと捜索して、謝っておきました。
「ふぅ」
『疲れたかい? そこに座れそうだが』
一息吐いたヘンゼルを気遣ってか、鯨が、鼻先で数メートル先を指します。
半分ほど、水面から頭を出した岩がありました。
そういえば、喉が渇きました。水はそこかしこ大量にありますが、これは辛くて飲めません。代わりに、さっき取った李があります。休憩がてら、いくつか食べてしまいましょう。
「わぁ、またヘンなのがくっついてる!」
『イソギンチャクだな。触るなよ。毒があるぞ』
岩に腰掛けて、背中の荷を解きました。
三つ鯨にあげてから、少し迷って、皮ごと齧り付いてみました。案の定、苦味と酸っぱさが先走り、遅れて甘みが、ほんのり舌に広がります。知っている味とは、いくらか違いました。いつもは冷やして、切り分けてもらうのです。刃物があれば楽だったろうか。でも勝手に使うと怒られるしなぁ。
……誰に?
ざざざぁん。
波が、押し寄せてきます。
べたつく風。水面から突き出た樹、岩、向日葵。潮の香り。入道雲。蝉の音。
――水平線。
「どこまで続いてるんだろう」
ぽつり漏らすと、鯨が答えました。
『何処までもさ。海ってのはそういうもんだ』
ざざざぁん。
何処か遠くで、砂に書いた言葉が、潮騒に飲まれて消えました。
……あぁ、そうです。そうでした。
これは海です。果てがないのは、当たり前ではありませんか。
潮の香りも、寄せて返す波も、遮るもののない太陽も、入道雲も、水平線も。肌にまとわりつく粘る風も。自分は、これが欲しかったのではありませんか。
ざざぁ。ざざざぁん。
まだ見ぬ水平線の彼方、壊れた白い帆船が、波に漂っていました。




