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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
静かの海がやってくる
52/91

海は僕の手を離れて

3.






「…………ん」


 そこで、目が覚めました。

 窓から差し込む朝陽は眩しく、ぼんやりした頭に、蝉の声が響きます。まだ夢の続き? いえ違います。だって寝汗で蒸れた髪が、枕に張り付いて気持ちが悪いのです。やおら寝惚け眼を擦って身を起こすと、いつもは隣で鼾を掻いているセヴァが、今日はもういません。


「あ、いっけない」


 ヘンゼルったら、寝坊してしまいました。

 慌ててベッドを飛び出し、リビングへ続くドアを開けます。


「お、おはよう!」

「おはようヘンゼル」

「おはようさん。寝坊かい」

「ごめんなさいっ」


 既にムゥとセヴァは、朝支度を終えてテーブルに着いていました。その傍を通り抜け、洗面所へ急ぎます。昨日はしゃぎすぎたせいでしょうか。なんとなく身体が怠くて、ぼんやりします。半ば夢心地で、まだ眠い。

 それでも顔を洗って戻る頃には、気分も晴れて、お腹が空いてきました。

 この際、着替えは後です。

 さて、三人そろって


「いただきます」


 いつもと変わらない朝食が始まりました。


「珍しいな。昨日は疲れたか?」


 スープを一口啜って、ムゥが笑いかけます。


「なんかヘンな夢見た……」

「どんな?」

「ん~……」


 森を歩いていた気がします。強い陽射しと蝉の鳴き声。たくさんの向日葵。あと何か生き物が出てきたような。


「……忘れちゃった」

「ははは」


 首を傾げたヘンゼルの口元を、ムゥの手が優しく拭っていきました。パン屑でも付いていたのでしょう。


「今日は何して遊ぶんだい?」


 セヴァに問われて、ヘンゼルは考えます。

 まず、庭の朝顔と向日葵に水を遣って、観察日記を付けよう。これは日課です。それで今日も天気が良いから、やっぱり外で遊びたい。川へ行って、泳ぎたい。蝉も取りたい。

 次々と楽しいことが頭に浮かんで、食べながらでは全部答えられません。だからヘンゼルは、最後の一つだけを選びました。


「虫取り!」

「じゃァ、俺様と勝負だ!」

「え。いいけどセヴァさん、飛んでるセミ素手で捕まえるんだよね……」

「はっはっは! どンなもんよ!」


 セヴァは、こちらが子供だからといって、絶対に手加減してくれません。どんな遊びもガチンコ勝負、全力で大人気なさを見せ付けてくるのです。戦う前から負けが決まってしまいました。

 でも、彼が一緒なら遠出できる。いくらかの不服と打算をミルクで飲み込んで、賢いヘンゼルは妥協しました。

 憶えていますか。雨期に入ったばかりの頃、ある傘にヘンゼルが誘拐された(とムゥは思っている)事件。あれ以来、単独行動に制限が掛かってしまい、ヘンゼルは些か窮屈を感じているのです。川はもちろん、少しでも遠くへ行く場合は、大人の同伴が必須です。元はといえば己の不注意なので、強く反論もできません。

 夏は短いのです。細かいことを気にしていては、あっという間に終わってしまいます。多少の拘束は受け入れて、うんと遊ばなければ。

 なのでヘンゼルは、ひとまず急いで朝食を片付けることにしました。






                  †






「スイカ割り、楽しかった!」

「ムゥには黙ってろよ。叱られるからな」

「そういえば、あのスイカどこから持ってきたの?」

「だから黙ってろッてことよ」

「あ、セヴァさんが叱られるんだね」


 じぃわ、じぃわ。

 うっすらオレンジ色に染まる森は、暮れるにはまだ早い。名残惜しげな蝉の声を背に、ヘンゼルとセヴァは帰途に就いていました。生暖かい風が、むっとした草の匂いを運んで、火照った首筋を少しだけ癒やしてくれます。

 脱いだ麦藁帽子を振り回して、ヘンゼルは上機嫌です。肩から提げた籠には、虫の代わりに濡れたタオル。ぽたぽたと滴が垂れて、なんだか二人の影が汗を掻いているみたいです。


「明日は早起きしてカブトムシ取ろうよ!」

「いいねェ。また勝負するかい?」

「それはやだ」

「ははッ、そォかい。今日はしてやられたぜ」


 虫取り勝負、どうなったと思いますか。

 確かに、蝉を捕まえるのはセヴァが圧倒的に上手です。

 ですからヘンゼルは一計を案じ、違う虫を集めることにしました。

 即ちバッタ、カマキリ、コオロギなど、地上にいる虫です。これなら目線の低い子供の方が有利に決まっています。ダンゴムシなど、その辺の石をひっくり返せばいくらでもいます。クワガタと間違えて捕獲したゴミムシも、これだって虫です。

 結果、ヘンゼルの鮮やかな作戦勝ちと相成ったのでした。

 セヴァは本気で悔しがりつつも、考えたなァなんて笑っていました。数での勝負と取り決めたのはセヴァですからね。そこを覆したりしないのは、さすがに大人と言うべきでしょうか。


「釣りはセヴァさんの勝ちだったね」

「おうよ。あのイワナ絶品だったろォ」

「素手で取ってたけどね……あれって釣りなのかな?」

「男なら視野を広く持ちな!」


 喋りながら坂を上れば、もう我が家が見えてきます。

 そうだ。いいことを思い付きました。


「じゃあセヴァさん、今勝負! お家まできょーそー!」

「おッ、抜け駆けァいけねェぜ!」


 言い終わらないうちに、ヘンゼルは駆け出しました。

 ものの数秒も経たず、背後にセヴァが迫ります。釣り竿やら着替えやら、荷物を抱えていても、その足の速いこと。たちまち抜かれて、尻っ端折りで振られる尻尾が遠ざかっていきます。あぁ、文字通り抜け駆けたというのに。

 と思ったら、家まであと一歩、まさに玄関の手前で、セヴァが立往生しているではありませんか。よく見れば、ムゥに襟首を掴まれて藻掻いています。


「何度目だ! 駆け込み帰宅は禁止だとあれほど……」

「ちょッ、放せ! 一秒くれ! 一秒でいいンだ!」


 把握。お行儀警察に確保されていたのですね。

 しかしこれぞ好機!


「たっだいまー!」


 二人の傍をすり抜け、ヘンゼルは、見事ゴールを果たしました。


「あっ」

「やったーぼくの勝ち!」

「こら、ヘンゼルも!」

「ごめんなさーい」

「靴をそろえなさい!」

「あとでー!」


 やりました。これで本日の勝負は、二勝一敗。

 器用に靴を脱ぎ散らかして、そのままの勢いで洗面所へダッシュします。じゃぶじゃぶと手を洗って、顔も洗って、うがいも済ませます。鏡に映るのは、ちょっと陽に焼けた満面の笑み。はぁ、と弾んだ息を吐いて、勝利の余韻に浸ります。

 うん。

 今日も楽しい日でした。


「そうだ!」


 この喜びを、すぐさま報告しなくては。

 誰にって、それはほら、屋根裏の小さな海ですよ。

 無論、あれは作り物です。ただのオブジェであることは、ヘンゼルも重々、承知しています。でも、可愛い可愛い海です。物言わずとも、一緒にいるだけで嬉しくなるのです。そんな友達がいたって、いいじゃありませんか。

 ヘンゼルは、いそいそと梯子を登って、屋根裏へ駆け込みました。


「ただい……」


 ま。言おうとした笑みが、凍り付きました。

 窓際のテーブル。台座に乗せておいた愛しい球体が、何処にもありません。

 あったのは、残骸でした。

 床を濡らす水に硝子の破片が散乱し、零れた砂が、まばらな島を作っています。鮮やかな色のヒトデと貝は、ばらばらに打ち捨てられて端が欠け、さながら腐敗臭の漂う死骸。

 無意識に踏み出した爪先が、何かを蹴飛ばしました。

 穂先の挫けた帆船でした。

 じぃわじぃわじぃわ。

 蝉の声が、頭に響きます。

 どうして。

 ヘンゼルのマリンドームは、粉々に砕け散っていたのでした。







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