海は僕の手を離れて
3.
「…………ん」
そこで、目が覚めました。
窓から差し込む朝陽は眩しく、ぼんやりした頭に、蝉の声が響きます。まだ夢の続き? いえ違います。だって寝汗で蒸れた髪が、枕に張り付いて気持ちが悪いのです。やおら寝惚け眼を擦って身を起こすと、いつもは隣で鼾を掻いているセヴァが、今日はもういません。
「あ、いっけない」
ヘンゼルったら、寝坊してしまいました。
慌ててベッドを飛び出し、リビングへ続くドアを開けます。
「お、おはよう!」
「おはようヘンゼル」
「おはようさん。寝坊かい」
「ごめんなさいっ」
既にムゥとセヴァは、朝支度を終えてテーブルに着いていました。その傍を通り抜け、洗面所へ急ぎます。昨日はしゃぎすぎたせいでしょうか。なんとなく身体が怠くて、ぼんやりします。半ば夢心地で、まだ眠い。
それでも顔を洗って戻る頃には、気分も晴れて、お腹が空いてきました。
この際、着替えは後です。
さて、三人そろって
「いただきます」
いつもと変わらない朝食が始まりました。
「珍しいな。昨日は疲れたか?」
スープを一口啜って、ムゥが笑いかけます。
「なんかヘンな夢見た……」
「どんな?」
「ん~……」
森を歩いていた気がします。強い陽射しと蝉の鳴き声。たくさんの向日葵。あと何か生き物が出てきたような。
「……忘れちゃった」
「ははは」
首を傾げたヘンゼルの口元を、ムゥの手が優しく拭っていきました。パン屑でも付いていたのでしょう。
「今日は何して遊ぶんだい?」
セヴァに問われて、ヘンゼルは考えます。
まず、庭の朝顔と向日葵に水を遣って、観察日記を付けよう。これは日課です。それで今日も天気が良いから、やっぱり外で遊びたい。川へ行って、泳ぎたい。蝉も取りたい。
次々と楽しいことが頭に浮かんで、食べながらでは全部答えられません。だからヘンゼルは、最後の一つだけを選びました。
「虫取り!」
「じゃァ、俺様と勝負だ!」
「え。いいけどセヴァさん、飛んでるセミ素手で捕まえるんだよね……」
「はっはっは! どンなもんよ!」
セヴァは、こちらが子供だからといって、絶対に手加減してくれません。どんな遊びもガチンコ勝負、全力で大人気なさを見せ付けてくるのです。戦う前から負けが決まってしまいました。
でも、彼が一緒なら遠出できる。いくらかの不服と打算をミルクで飲み込んで、賢いヘンゼルは妥協しました。
憶えていますか。雨期に入ったばかりの頃、ある傘にヘンゼルが誘拐された(とムゥは思っている)事件。あれ以来、単独行動に制限が掛かってしまい、ヘンゼルは些か窮屈を感じているのです。川はもちろん、少しでも遠くへ行く場合は、大人の同伴が必須です。元はといえば己の不注意なので、強く反論もできません。
夏は短いのです。細かいことを気にしていては、あっという間に終わってしまいます。多少の拘束は受け入れて、うんと遊ばなければ。
なのでヘンゼルは、ひとまず急いで朝食を片付けることにしました。
†
「スイカ割り、楽しかった!」
「ムゥには黙ってろよ。叱られるからな」
「そういえば、あのスイカどこから持ってきたの?」
「だから黙ってろッてことよ」
「あ、セヴァさんが叱られるんだね」
じぃわ、じぃわ。
うっすらオレンジ色に染まる森は、暮れるにはまだ早い。名残惜しげな蝉の声を背に、ヘンゼルとセヴァは帰途に就いていました。生暖かい風が、むっとした草の匂いを運んで、火照った首筋を少しだけ癒やしてくれます。
脱いだ麦藁帽子を振り回して、ヘンゼルは上機嫌です。肩から提げた籠には、虫の代わりに濡れたタオル。ぽたぽたと滴が垂れて、なんだか二人の影が汗を掻いているみたいです。
「明日は早起きしてカブトムシ取ろうよ!」
「いいねェ。また勝負するかい?」
「それはやだ」
「ははッ、そォかい。今日はしてやられたぜ」
虫取り勝負、どうなったと思いますか。
確かに、蝉を捕まえるのはセヴァが圧倒的に上手です。
ですからヘンゼルは一計を案じ、違う虫を集めることにしました。
即ちバッタ、カマキリ、コオロギなど、地上にいる虫です。これなら目線の低い子供の方が有利に決まっています。ダンゴムシなど、その辺の石をひっくり返せばいくらでもいます。クワガタと間違えて捕獲したゴミムシも、これだって虫です。
結果、ヘンゼルの鮮やかな作戦勝ちと相成ったのでした。
セヴァは本気で悔しがりつつも、考えたなァなんて笑っていました。数での勝負と取り決めたのはセヴァですからね。そこを覆したりしないのは、さすがに大人と言うべきでしょうか。
「釣りはセヴァさんの勝ちだったね」
「おうよ。あのイワナ絶品だったろォ」
「素手で取ってたけどね……あれって釣りなのかな?」
「男なら視野を広く持ちな!」
喋りながら坂を上れば、もう我が家が見えてきます。
そうだ。いいことを思い付きました。
「じゃあセヴァさん、今勝負! お家まできょーそー!」
「おッ、抜け駆けァいけねェぜ!」
言い終わらないうちに、ヘンゼルは駆け出しました。
ものの数秒も経たず、背後にセヴァが迫ります。釣り竿やら着替えやら、荷物を抱えていても、その足の速いこと。たちまち抜かれて、尻っ端折りで振られる尻尾が遠ざかっていきます。あぁ、文字通り抜け駆けたというのに。
と思ったら、家まであと一歩、まさに玄関の手前で、セヴァが立往生しているではありませんか。よく見れば、ムゥに襟首を掴まれて藻掻いています。
「何度目だ! 駆け込み帰宅は禁止だとあれほど……」
「ちょッ、放せ! 一秒くれ! 一秒でいいンだ!」
把握。お行儀警察に確保されていたのですね。
しかしこれぞ好機!
「たっだいまー!」
二人の傍をすり抜け、ヘンゼルは、見事ゴールを果たしました。
「あっ」
「やったーぼくの勝ち!」
「こら、ヘンゼルも!」
「ごめんなさーい」
「靴をそろえなさい!」
「あとでー!」
やりました。これで本日の勝負は、二勝一敗。
器用に靴を脱ぎ散らかして、そのままの勢いで洗面所へダッシュします。じゃぶじゃぶと手を洗って、顔も洗って、うがいも済ませます。鏡に映るのは、ちょっと陽に焼けた満面の笑み。はぁ、と弾んだ息を吐いて、勝利の余韻に浸ります。
うん。
今日も楽しい日でした。
「そうだ!」
この喜びを、すぐさま報告しなくては。
誰にって、それはほら、屋根裏の小さな海ですよ。
無論、あれは作り物です。ただのオブジェであることは、ヘンゼルも重々、承知しています。でも、可愛い可愛い海です。物言わずとも、一緒にいるだけで嬉しくなるのです。そんな友達がいたって、いいじゃありませんか。
ヘンゼルは、いそいそと梯子を登って、屋根裏へ駆け込みました。
「ただい……」
ま。言おうとした笑みが、凍り付きました。
窓際のテーブル。台座に乗せておいた愛しい球体が、何処にもありません。
あったのは、残骸でした。
床を濡らす水に硝子の破片が散乱し、零れた砂が、まばらな島を作っています。鮮やかな色のヒトデと貝は、ばらばらに打ち捨てられて端が欠け、さながら腐敗臭の漂う死骸。
無意識に踏み出した爪先が、何かを蹴飛ばしました。
穂先の挫けた帆船でした。
じぃわじぃわじぃわ。
蝉の声が、頭に響きます。
どうして。
ヘンゼルのマリンドームは、粉々に砕け散っていたのでした。




