おめでとう誕生日
海は何処かな 夢の中
うつつ揺らめく潮騒の
果ての果てまで 往ったらば
まにまに遊べ 夏は短し
1.
ざざぁ。ざざざぁん。
真っ白な砂の上に、ちょこんと座る赤い星は、ヒトデというのだそうです。桃色の小枝は、確かサンゴ。巻き貝は知っています。川にいますからね。でもあれは、こんな綺麗な桜色ではなかったし、形も微妙に違います。だからこの貝は断じて、タニシでもカワニナでもないのです。
「なんだっけ、さざえ?」
それも違ったかな。まぁいい。
今は空想に浸る方が先決です。
波間に揺れる帆船に乗ったつもりで、ヘンゼルは眼を閉じました。
ざざぁ、ざざざぁん。耳に当てた貝殻の奥、潮騒が寄せては返します。頬を打つ潮風、降り注ぐ太陽、髪を濡らす水飛沫。想像すれば、どうしようもなく胸が躍りました。でも此処は我が家の屋根裏部屋です。眼を開ければ、作り物の海が見えてしまいます。
しばし迷って、ヘンゼルは、うっすら半眼を作りました。
睫毛の間で、きらきらとムゥのくれたマリンドームが、オレンジの夕陽を弾いて眩しい。
派手な破裂音で始まった朝でした。
飛び起きたヘンゼルは、何事かと寝室を見回します。そこへ今一度、パンパンと紙吹雪が浴びせられました。これは確か、ムゥの作った玩具です。早い話が極小の大砲で、弾の代わりに紙吹雪が打ち上げられたもの。外で暴れている火種は、もしかしなくてもセヴァの仕業でしょう。爆竹とか言ったでしょうか。
呆気に取られて固まっていると、めかし込んだムゥとセヴァが、ヘンゼルを覗き込んで声をそろえます。
誕生日おめでとう!
……すっかり忘れていました。
というのも、この森では、日時の感覚がひどく曖昧です。カレンダーも時計も、ほとんど意味を成しません。ヘンゼルだって迷い込んで二年、季節の移ろいは知れますが、今日が何月何日かなんてわかりません。なので、たぶんこれくらいだろうという時期、適当な日を誕生日に、年齢を重ねることにしたのです。
それなら夏がいい、と言ったのはヘンゼルでした。
夏は、楽しいことがたくさんありますからね。
状況を理解したヘンゼルは歓声を上げ、寝間着のまま部屋を走り回って紙吹雪を撒き散らしました。今日だけは、ムゥも怒りません。ちょっと苦笑して、こっそり仕立てていたらしい良家の坊ちゃんみたいな礼服を着せてくれました。
本当に楽しい一日でした。
ご馳走も、ケーキも、お菓子も、パーティーも、最高でした。
そして、いちばん嬉しかったのは――
そっとマリンドームを持ち上げてみます。
斜陽を受けた水面が、ちろちろ輝いて光を編み、透明な器の半ばまで満ちた階調は、空のようでいて、もっとずっと青い。直径二十センチほどの硝子球に、かつて想像したままの海が収まっていました。
「ぼくの海かぁ」
なんて素敵な誕生日プレゼントでしょう。
いつだったか、本に出てきた海を見てみたいと言ったのを、憶えていてくれたのですね。ムゥ自身、一度だけ訪れたことがあるという海は、聞けば聞くほど新鮮で興味深く、それはもう冒険心が疼いて、はしゃいだものでした。
こんな森で暮らしているのです。幼心に、諦めていました。
それが今、この手の中にある感動といったら!
もちろんムゥの仕事なので、やたらと本格的です。水は人工海水だの、巻き貝は本物を加工しただの、珊瑚は小動物の骨で再現しただの、帆船は詳細な設計図から起こしただの、こだわりポイント過積載の力作でした。
セヴァがくれたのは、不思議な貝殻です。
小さな細い巻き貝で、角度によって七色に光る、世にも美しい逸品でした。耳に当てると、波の音が聞こえるのです。潮騒ッて言うんだぜ。セヴァは珍しく故郷の海について語っていましたが、何故だか、その言葉だけが強く印象に残りました。
意外にもムゥが作った魔道具ではないらしく、何処で調達してきたのかは、遂に教えてくれなかったけれども。
あぁ、そうです。
それに、もう一つ。
「うん。かっこいい」
視線を下へ移動させると、胸元で、きらり青いペンダントが光りました。
縦が三センチほどの長方形で、紙ほどの薄さ。驚くほど軽いのが特徴です。角は面取りしてあり、動いても刺さったり引っ掛かったりしないよう、工夫がなされていました。
ムゥが、お守りだと言って着けてくれたのです。
大人っぽいデザインも気に入りましたが、なにより三人で同じものを身に着けている特別感に、ヘンゼルは昂揚しました。なんか秘密の組織っぽくて格好いいぞ。いや、旅団かもしれない。なら海洋冒険家だ。船に乗って、海を旅するんだ。海賊と戦ったり、隠された宝物を見付けたり……。
「いつか三人で行きたいな。海」
しみじみ呟けば、ざざぁと潮騒が意識を誘います。
降り注ぐ容赦ない直射日光、砂浜は何処までも白く、水は冷たくて、沖からは風が吹いてくる。大きな魚と競争して、みんなで泳いで、綺麗な貝殻も集めて、裸足で駆ける海辺は、どんなにか心地良いだろう。
まだ見ぬ世界へ思いを馳せて、零れる溜息は紺碧か、それとも。
「本物だったらなぁ」
ふと口を突く矛盾に、ヘンゼルは気付きませんでした。
ムゥの渾身のプレゼントです。完成度は無駄に高いし、自分の希望を憶えていてくれたのも嬉しい。誕生日サプライズでなくとも、最高の贈り物です。決して不満があるわけではない。
ないのですが、あまりに出来の良い贋作に刺激された憧憬は、ヘンゼルが自分で思うより幾分強く、満たされるには、あと少しの嵩が足りないのでした。
「…………」
両の掌でマリンドームを包み、精神統一。
興奮を抑え込み、呼吸を整えます。落ち着きが大事だ。
それで、どうするんだっけ?
あの人はどうやっていた?
耳を澄ませる……いや語りかける……懇願するように……?
違う。
命じるんだ。
――本物になあれ。
どくん。
熱い鼓動が、身体の中心を打ちました。
力強く見開いた両眼に、ほんの一瞬、真っ青な光景が広がった――
ような、気が、しました。
ハッとして、マリンドームを覗き込みます。自分の鼻先が奇妙に歪んで映り込んでいるだけで、別段これといって変化はありません。数秒だけ粘ってみましたが、いつまで経っても小さな海は、素知らぬ顔で依然、完璧な模倣品のままでした。
「……なんてね」
へらっと眉を下げて、舌を出します。
それはそうです。ヘンゼルは、まだ生成術の基礎すら習っていません。ちょっとした悪戯心。ムゥの真似をしてみたかっただけでした。そう簡単にできるのなら、苦労はしないのです。実を言うと、ほんの僅か、ひょっとしたらと期待したのは、内緒です。それくらいは、ね、年頃ですから。
「おーいヘンゼル。屋根裏か?」
階下からムゥの呼ぶ声がして、ヘンゼルの意識は、現実へと帰還しました。
「うん! なあに?」
「汗を掻いただろう。風呂が沸いたから入るぞ」
「はーい!」
またね、とマリンドームを撫でて台座へ戻し、ヘンゼルは踵を返します。
そのまま、慌ただしく梯子を下りて、お気に入りのアヒルさんと新しい寝間着を取りに、寝室へ駆け込みます。既に興味は、風呂での水遊びに移っていました。
だから、知らなかったのです。
誰もいなくなった屋根裏部屋で、小さな海の表面に、ざざぁと波が立ったのを。




