星に願いを
13.
ヒコボシを手に、セヴァはオリヒメに臨みます。
五枚の花びらを星型に広げた姿は、まさに薄桃色の星です。露に濡れ、透き通るそれは、可憐な乙女の唇にも似て、今にも恋の歌を口ずさみそうでした。美しくも凜とした居住まいが、愛しの彼女を思わせて、セヴァの胸は高鳴ります。
感無量ってやつだなァ。
今夜の出来事が、めまぐるしく脳裏を駆け抜けてゆきます。
掌で、ヒコボシが急かすように熱くなりました。
――あぁ。
セヴァは頷いて、花びらの中心に、そっとヒコボシを捧げました。
ふぅ、すう。
呼吸の音がして、上向いた花びらの一枚が閉じます。
一枚、また一枚。ゆっくりと畳まれる星が、やがてヒコボシを包み込みました。薄桃色の花びらを透かして、うつらうつら。ヒコボシの点滅するのが、蛍めいて目を奪います。ふぅ、すう。見つめるセヴァの呼吸も、どこか夢心地にふわふわと、此処ではない場所を漂っているようでした。
ふぅ、すう。
遠ざかる呼吸音が重なり、セヴァの瞼が下りた頃、ヒコボシを包んだ蕾が、ふぅと一息大きく吐いて、夜空へ飛び立ちました。
七夕草は、仄かな光の尾を引いて、するすると天へ昇ってゆきます。まっすぐな軌跡が、弱竹のように伸びて、伸びて伸びて、天の川に吸い込まれて、もうどれだか見分けが付かなくなって――
どん。
弾けました。
飛び散った欠片が、一つ一つ煌めきながら、大きな花の形を作ります。大きいも大きい、夜空いっぱいを使った、見事な一輪咲きでした。その明るさ、華やかさといったら、星という星が一斉にくしゃみをしたようなパノラマです。
それは、ほんの瞬きほどの間、峻烈に咲いて、散ってゆきました。
夜空に焼き付いた大輪が、菊にも牡丹にも見える面影を残して霞み、いくつもの星座と重なって掻き消えてしまえば、もう本当に祭は終わり。
小さな光がふたつ、仲良く寄り添って、森の彼方へ落ちました。
新しい生命に次代を託し、役目を終えた七夕草は、こうして眠りに就くのです。
きっと、再会の夢を見ながら。
「セヴァさん! どうしたの!? だいじょうぶ!?」
ヘンゼルは、必死にセヴァの肩を揺すります。
オリヒメの前で何かしていたと思ったら、いきなり倒れたのです。心得ていたらしいムゥが抱き留めたため、幸い怪我はありませんが、どうしたのでしょう。あまりの疲労に、今度こそ死んでしまったのだとしたら、怪我どころではありません。
「心配いらない。受粉が成功したんだ」
半泣きのヘンゼルに、ムゥは頭を振ってみせました。
ヘンゼルが覗き込むと、セヴァは安らかな寝顔で、すうすうと息をしています。
その綻んだ唇が、愛しい者の名を呼びました。
「イ、ヅル……あぁイヅル……会いたかった…………」
セヴァは、笑っていました。
純朴で、あどけなくて、安心しきった子供のような。
いっそ無防備なくらい実直で、蕩けきった笑顔でした。
「セヴァさんでもこんな顔するんだね」
ヘンゼルが言うので、ムゥは、くすりと笑います。
「そうだ。枕を持ってきてやってくれ」
「はーい」
頼まれて、ヘンゼルは家へ走りました。
寝室へ入って枕を取り、はたと思い立って、あちこちを巡ります。
そうして戻ってきたヘンゼルの恰好に、ムゥは吹き出してしまいました。
両腕に丸めた敷物と枕を抱え、おそらくはお菓子のたっぷり詰まったリュックを背負い、首からは、望遠鏡と水筒を提げているのです。
「遠足か?」
「うん! 近いけど! お星さまがきれいだから! いっしょに見よう!」
「あぁ。ちょっと待っていろ」
ムゥは、まず水筒を受け取って一口煽り、敷物を広げました。
そこへセヴァを横たえ、枕を宛がってやって、隣に寝そべります。
そのまた隣へ、ヘンゼルは、文字通り転がり込みました。
「ねぇ先生、お星さまって、全部でいくつあるの?」
「数えてごらん?」
「あるよー数えたこと! でもいっつも眠くなっちゃう」
「……今日は偉かったな」
「えらい? ぼくえらいの?」
「あぁ。偉かった。ちゃんと留守番もできたし、セヴァにヒコボシを譲ってやっただろう。大人でもそうそうできることじゃないぞ。偉かった」
「すごい? すごい?」
「うん。凄い」
「えへへへ」
よしよしと頭を撫でられ、何故だか、じわり胸が熱くなりました。
どうしてでしょう。いつものこと、なのに。
込み上げる熱が喉を締め付け、眼から溢れそうになって、ヘンゼルは急いでムゥの頭を撫で返しました。
「? どうした?」
「先生もエライね!」
「何がだ?」
「だって、ちゃんと帰ってきてくれたもん」
「いや……まさか此処がゴールだなんて思わなかったぞ……」
「でもえらいよ。えらい、えらい」
半分は照れ隠し。半分は本音です。
実はちょっと寂しかった、なんて言うのは、格好悪いですからね。
犬じゃないんだぞ、と苦笑するムゥに、努めて明るく笑ってみせれば、もやもやした心の霧が、晴れたような気がしました。
「次はぼくもやる! ぼくもソーダツセンやりたい!」
「もっと大きくなってからだ」
「どのくらい?」
「八年……いや、十二年後かな。次の次の、次くらいだ」
「そんなに待てないよ~」
「あははは。あっという間だぞ」
ムゥの笑い声が、どこか寂しげに途切れて、あとを虫の音が引き継ぎました。
草を凪ぎ、前髪を揺らして、風が吹き抜けてゆきます。
夏の匂いに見上げれば、空には夢のような天の川。
今頃セヴァは、あそこで愛しい彼女と楽しく語らっているのでしょう。幸せそうな横顔は、少しだけ羨ましくもあります。けれど、ヘンゼルに悔いはありません。セヴァのこんな間抜けを拝むことができたのですから。
それに、わかるのです。
今、ママも僕と同じ星を見てる。
そう思えば、虫たちの合唱までもが、楽しく弾んで聞えるようでした。
りぃりぃ、がちゃがちゃ、すいっちょん。
「ねぇ先生」
「なんだ?」
そういえば、訊くのを忘れていました。
「イヅルちゃんてだあれ?」
「あぁ。セヴァの――」
娘。
「…………」
すいっちょん。
「……ええぇーーー!?」
絶叫して、ヘンゼルは飛び起きました。
娘。娘だって?
てっきり恋人だとばかり思っていたのに!
驚きました。さっき突然、二人が目の前に現れたときより驚きました。
「む、むすめ? むすめって……セヴァさん、子供いたの!?」
「……らしいぞ」
信じられない。追い打ちで呟き、呆然とセヴァを見つめました。
締まりのない唇が、むにゃむにゃと動いて、愛娘の名を呼びます。
この露出狂が人の親……。
ヘンゼル、今夏いちばんの衝撃でした。




