烏鵲、巣へ帰る
12.
虚しく空を掴みました。
「わぁきれい! これがお星さまなんだ! ちっちゃいんだなー」
ヘンゼルの無邪気な声が、頭上から降ってきました。
セヴァの拳は無論、何も掴んではいません。
その直前、すいとヒコボシを掬い上げたのは、見慣れた小さな掌だったのです。
「…………は?」
滑り込むように倒れたセヴァは、わけもわからず呟きました。
後ろから、げんなりした表情のムゥが現れます。真剣勝負の最後の最後に、酷いものを見た。精神的ダメージは計り知れません。なので、そこにいたヘンゼルと眼が合ったときは、とうとう頭をやられたのかと思いました。
「あれ? あれえ? なんで二人とも急に出てくるの!?」
ヘンゼルは、丸い眼を更に丸くして驚いています。
「え? ……あれ? ヘンゼル!?」
「だいじょうぶ!? ボロボロだけど!?」
「お前、どうしてこんなところにいるんだ!」
「どうしてって……」
ヘンゼルは、困惑気味に視線を巡らせます。
つられて、ムゥも辺りを見回しました。
一面に植えられた害虫除けのハーブ。林檎の樹と、その枝から下がるブランコ。ちょっとした畑。聞き慣れた虫の音が、合唱でお出迎え。見覚えのある場所です。というか、すぐ傍に、灯りの漏れる民家があるんですけど。
思いっきり我が家の裏庭ではありませんか。
「お星さまが落ちてきて、つかまえようと思って……いけなかった?」
「…………」
ぽっきりと、ムゥの中で何かが折れました。
精根尽き果て、その場へ尻餅を突きます。西の森へ分け入り、様々な危険地帯を通り、厄介な動植物に対処し、凶悪な落人まで倒して、結局のところ万年坂の頂上は、自宅の裏庭に繋がっていたのです。
ムゥは、どうと仰向けに寝転がりました。
もう、ツッコむ気力もありません。
大の字で見上げる夜空に、ちらちらと星が輝いています。二人の壮絶な競争も、予定外の戦いも、呆気ない結末も。すべて見ていて、知らん顔。あぁ、いつでも星は、空から見ているだけなのです。大きく息を吸い込んで吐けば、吹く風に煽られて、さわわ夏草の匂いが頬を撫でました。
――祭が終わった。
「わぁ先生! なにこれ!?」
唐突にヘンゼルが、素っ頓狂な声を上げました。
ムゥは狼狽えません。何が起こるのか、知っていましたからね。
触るなよ、と声だけ掛けて、倒れたまま視線を流します。
そろそろ生えてくる頃でした。
「先生、たけのこだよ! たけのこ!」
ヘンゼルの言うとおり、それは誰が見ても筍でした。
しかし、誰が見ても普通ではありません。
水色なのです。妙にパステル調の淡い水色をした筍が、地面から今まさに、ぬっと頭を突き出したのでした。
それが、にょきにょきと伸びてゆきます。
竹は成長が早いと言いますが、それにしても、素晴らしい早さでした。ぐんぐん伸びます。初め靴の先くらいだったのが、土を盛り上げ、雑草を掻き分けて、みるみる大きくなってゆきます。
「早い早い! すっごいのびてる! なにこれ!」
ヘンゼルが騒ぐ間に、筍は帽子ほどになり、膝丈を越え、やがて大人の腰の高さにまで達すると、今度は皮が剥け始めました。
はらり、するり。花びらが散るように一枚一枚、水色の皮が舞い落ちて、地面をうっすら照らします。そうして、すっかり分厚い外套を脱ぎ捨ててしまう頃、筍は――もう筍とは言えません――一輪の花になっていました。
散っていたのではありません。咲いていたのです。
竹そのものの茎を、横にスパッと切ったような萼の中に、彼女はいました。
薄桃色の星です。
「オリヒメだ」
ようやっと呼吸が落ち着き、ムゥはゴーグルを外しました。
「ヘンゼル。その握っている星を、花の中心に填めてごらん」
「え?」
「そうすれば母親に会えるぞ」
「え? え? え?」
ムゥが事情を説明します。
ヒコボシを横取りしてしまったと知って、ヘンゼルは慌てました。
「ご、ごめんなさい! 知らなかった!」
「構わない。ルールはルールだからな」
「これ返すよ! 大事なものなんでしょう?」
「いや、いいんだ。そもそも私は……」
額に張り付いた髪を掻き上げ、ムゥは顎を上向けます。
疲れ切った横顔は、それでもどこか満足げに微笑んでいました。
「今回はお前にやろうと思っていたからな」
「え?」
「母親に会いたいだろう」
「……先生……」
初めから、僕のために?
呟くヘンゼルに、ムゥは応えず、ちょっと照れ臭そうに肩を竦めました。
様々な思いが沸き上がり、ヘンゼルの胸がいっぱいになります。母の声、匂い、柔らかい胸、笑顔。話したいことが、たくさんありました。いつかいつかと、淡い希望を持ってはいましたが、まさか実現するなんて。
「先生、ありが」
喜びの形に開かれた口が歓声を上げようとして、ふと固まりました。
「…………あ」
視線の先、セヴァが真っ白に燃え尽きていました。
長い脚を放り出し、がっくり肩を落として、乱れた金髪を項垂れています。耳はしゅんと萎れて下を向き、ぼっさぼさの尻尾は、ぴくりとも動きません。
「……セヴァさん?」
「…………」
これは死んでいるのかもしれない。
心配になったヘンゼルは、セヴァの耳を抓んで、そこへ声を掛けました。
「セヴァさんは、だれに会いたかったの?」
少しの沈黙の後、消え入りそうな呟きが返ってきました。
「……イヅルちゃん」
あ、生きてる生きてる。ヘンゼルはホッとしました。
けれど、セヴァの痛々しさに、続く言葉が出てきません。
裸の上半身は、泥と傷と痣だらけ。袴はビリビリに破れ、下駄は両方ともありません。椿油で艶を出していた耳も尻尾も、こんなに毛がささくれては台無しです。結い上げていた金髪は乱れに乱れ、化粧は崩れて土砂災害。僅かに残った紅い隈取が、逆に悲壮感を増しています。
普段お洒落なセヴァが、ここまで形振り構わず戦ったのか。
こんなに落ち込んでいるところを見るのは初めてです。
「…………」
ヘンゼルは、考えました。
たっぷり三十秒くらい考えて、訊ねました。
「その人に会いたい?」
セヴァは、こくんと頷きます。未だ敗北のショックからは立ち直れないようですが、これだけは、はっきりと口にしました。
「会いてェ。滅茶苦茶に会いてェ。今すぐ会いてェ」
…………。
そっか。応えてヘンゼルは、セヴァの前に膝を着きます。
そうして、力なく垂れたセヴァの手を取り、そっとヒコボシを握らせました。
「へ?」
セヴァが顔を上げました。
信じられないといったふうに、ヘンゼルとヒコボシを交互に見つめます。
「セヴァさんに返すよ」
「はァ!? お前……お前、おっ母さんに会わなくていいのか!?」
「うん」
驚いたのは、セヴァだけではありません。ムゥも飛び起き、二人の元へ駆け寄ろうとします。それを制して、ヘンゼルは首を横に振りました。
「ぼく、なんにもしてないし。それに」
天を仰いで、息を継ぎます。
本当は、ちょっぴり惜しいのです。
でも、自分が母に会いたいのと同じくらい、セヴァだって、彼女に会いたいのです。そのために、こんなにボロボロになったのです。ご褒美というのは、いちばん頑張った誰かが貰うべきです。そう、自分を納得させました。
ちりばめられた星が、ちかちかと瞬いて、さぁと先を促してくれます。
「いつかきっと、ほんとのママに会えるから。ぜったい。だから、だいじょうぶ! それまでのお楽しみ!」
いいんだ。
何か言いたげなムゥと、きょとんとしているセヴァ。そんな二人を前に、清々と笑ってみせれば、ヘンゼルは今夜少しだけ、大人になった気がしました。
「お前ッて奴ァ!」
セヴァがヘンゼルに飛び掛かり、押し倒さんばかりの勢いで抱き締めます。
「天使だ! 菩薩様だ! ほんとに、なんッてェ優しい子なんだよ、お前ァ!」
「セヴァさん、ちょっと痛いよ」
「恩に着るぜ! ありがてェ! ありがとよ! ありがとよ!」
狂喜乱舞したセヴァは、ヘンゼルを掴まえて、頬へ鼻へ額へ、接吻の雨あられ。ぎゅうと締められながら、わしゃわしゃと手加減なく頭を撫で回されて、ヘンゼルは苦笑する他ありませんでした。これじゃどっちが子供なんだか。
「その代わり、今度おダンゴたっくさん作ってね?」
「おうよ! 嫌ってほど食わせてやる! あぁよしよし! よしよしよしよし!」
「ちょ、ちょっと。そろそろほんとに……やめて」
「よしよしよし」
「や、やめ……」
「やめんか!」
見かねたムゥが、セヴァの頭を一発しばいたところで、やっとヘンゼルは解放されましたとさ。




