その星を掴め
11.
ムゥは駆けます。
残念ながら、風のように……とはいきません。とっくに疲労は限界で、足は棒。ほとんどブーツに引き摺られる恰好で、どうにか走っているという状態です。
正直、今すぐ倒れ込んで眠ってしまいたいくらいでした。
でも止まれません。すぐ後ろには、セヴァが控えているのです。
追い縋るセヴァの方も、数歩の距離を詰められず、焦っていました。予定外の術で体力を消耗し、頼みの俊足が発揮できません。脚が言うことを聞かない。本当は歩くのだって辛いのです。
でも止まれません。すぐ目の前に、ムゥの背中があるのです。
傾斜こそ緩いものの、長い長い坂です。見えるものといえば、何処までも広がる夜空と、ちりばめられた星ばかり。花の一本、石ころの一つもありません。距離感どころか、自分の現在地すら把握できない。上っても上っても、まるで進んでいるような気がしません。“万年坂”の由来でした。
ヒコボシが、ふらふらと前方を飛んでいます。
あのヒコボシの降り立った場所こそが、決勝点。
即ち、いつ終わるとも知れない坂の、頂上となるのでした。
もう少し。もう少しなんだ。
ここで一手、押してやる。
ムゥは、バッグから透明な小袋を取り出しました。
よくぞ此処まで破れないでいてくれた、と感心します。努めて温存したわけではないのですが、序盤で早々に多くの魔道具を失い、指輪まで壊れて、残ったのが、これとは。お誂え向きの消去法に、ムゥは感慨深く天を仰ぎました。
今回は、運が良い。
「セヴァ、ここまでだ!」
ムゥは、後ろ手に袋を叩き付けました。
袋が破れて、どろりとした黄色い液体が、セヴァの足元へと広がります。
全力疾走中の至近距離、さすがのセヴァも避けられませんでした。
「油の百倍滑る薬だ!」
……なんとまぁ、くだらない薬を作ったものです。
ガチで摩擦係数が百倍かどうかは怪しいところですが、実際、とんでもなく滑ります。あっと思ったときには、つるん。セヴァの長身が前のめりに傾きました。
効果はせいぜい五分程度とはいえ、今はその五分が肝心です。
もしかして、これで勝敗決定でしょうか?
「畜ッッッ生めが!」
ところが、セヴァも諦めません。
苦し紛れに伸ばした手が、ムゥの髪を掴みます。
「うわ!」
つるん。蹈鞴を踏めば面白いように滑って、ムゥは引っ繰り返りました。
背中を強打……するかと思いきや、そこは油の百倍です。ダメージを免れた代わりに、つるつると坂を滑りだします。
「っこの!」
その態勢のまま、セヴァの脚を蟹挟み。
俯せに倒れていたセヴァは、更に坂を滑ります。
「何しやがンでェ!」
一発ブン殴るべしと、立ち上がりかけたセヴァの、足元がつるり。
今のうちだと上体を起こすムゥも、これまたつるん。
滑り落ちてきたセヴァの尻が、ムゥの顔面を直撃。仕返しにと尻尾の毛を毟ってやろうとしたら、これがウナギのように、つるつる、ぬるぬる。もう二人とも、頭にきました。
「このっ……馬鹿!」
「阿呆!」
「間抜け!」
とうとう二人は、坂を滑り落ちながら取っ組み合いを始めました。
「露出狂!」
「タイツ野郎!」
互いに相手を殴ろうとするのですが、なにせつるつる滑るので、少しでも体重を掛ければ軸がぶれます。前に転倒、後ろに転倒。ようやく拳が頬に達しても、それがつるり。掴もうとすれば、するり。蹴りなど放とうものなら、二人まとめてつるつるつるり。端から見れば、ただのローション相撲です。
「クソ爺ぃ!」
「下等生物!」
「セクハラ!」
「ショタコン!」
「下手くそ!」
「マグロ!」
何度目かのムゥの拳が、しっかりと、セヴァの頬を捉えました。
「あ」
「あ」
怒りも忘れて、お互い顔を見合わせます。
薬の効果が、切れたのです。
「うおぉお!」
「わああぁ!」
雄叫びを上げて、二人同時に駆け出します。
ヒコボシは相変わらず、少し前の方で物憂げに、ゆらゆらと漂っていました。
先んじたのは、またもやムゥです。
流れる汗を拭いもせず、セヴァは喘ぎました。もう一度、髪を掴んで引き倒してやれれば。思うのですが、手を伸ばしても、届きそうで届きません。やはり単純なスピード勝負では、フェザーブーツを履いたムゥが有利なのでしょうか。食い縛る歯にも、力が入りません。くそ、きつい。
眼が霞み、頭が痺れ、腹まで痛くなってきました。
それでも、負けるわけにはいかない。
重い脚に鞭を打ち、己を叱咤激励し、セヴァは気力を振り絞りました。
「うおぉおおおお!」
ムゥまで三尺。
二尺。もう手が届きます。
けれどセヴァは、勝負に出ました。ここで余計な動作をすべきではない。意識のすべてを脚に注ぎ込め。ムゥを蹴落とすのは、追い抜いてからだ。
残り一尺。
追い付いて――並びました!
「!」
荒い呼吸で、眼が合いました。
お互い、酷い顔でした。汗だくの傷だらけ、埃まみれ。暑さと酸欠で頬を真っ赤に染め、鼻頭に皺を刻みながら、眼ばかりギラギラしています。乱れた髪が、額といわず首といわず張り付いて、見苦しいったらありません。
そんなことは意にも介さず、二人は視線を交えます。
「おるぁああああ」
「くそおおおおぉ」
そのとき、ヒコボシが、不意に動きを止めました。
浮きつ沈みつしていたのが、ふと力が抜けたように、坂へ降り立ちます。するとその部分から、きらきらと湧き水めいて、光が溢れ出したのです。零れた光は下方へ流れ、坂を染め上げてゆきます。たちまち坂は、金色で満たされました。
それは、さながら夜空に架かる星屑の橋。
いつしか、坂には続きがありません。
ヒコボシの降りた先は、闇と同化して、ぷつんと途切れています。
――あそこが頂上だ!
「うぉおおおっ!」
ムゥが仕掛けました。
上体を思い切り前へ屈め、踏み出す脚はまっすぐ。爪先と指先をピンと伸ばし、目線は自分の太腿まで落とします。凄い姿勢ですが、恰好悪いなんて言っていられません。これは空気抵抗を減らし、フェザーブーツの効果を最大限に生かすため、ムゥが考えに考え抜いたフォームなのです。
「くそ……ッ!」
ムゥは併走から頭一つ抜け出し、一メートル。二メートル。セヴァを引き離してゆきました。
不自然極まりない形ですから、長くは保てません。
でも、もうほんの数秒だけでいいのです。
ゴールはすぐそこです。折良く追い風まで吹いてきました。
勢いに乗って、このまま……。
しかし、勝利を確信したムゥの脚が突然、ぐんと重くなりました。続いて異常な熱が足首を締め付け、ジィジィと嫌な音を立てたかと思うと、次の瞬間。
べきぃっ。
フェザーブーツの羽根が折れました!
「なにぃいいッ!?」
ムゥの喉から上がったのは、自分でも知らないような絶叫です。
左翼を失って、バランスを欠いた身体は、慣性の法則により、前方へ滑り込む形で倒れ伏しました。ぴし、ぺき。愕然とする耳に、翼の砕けてゆく音が、無慈悲に染み込みます。
「いぃいいよっしゃあああ!」
俄然、セヴァの全身に力が漲りました。
残る体力を振り絞り、有りっ丈の根性を奮い、燃える魂に願いを込めて、今。
高く高く、跳びました。
しまったと見上げたムゥの頭上を、セヴァの股座が飛び越えてゆきます。
「おまっ……」
破れ袴の隙間から見えたモノに、ムゥは絶句して顔を引き攣らせました。
だってセヴァ、穿いていません。
完全にノーパン……いえノーフンです。
いつから? オニカヅラに絡まれたときからか?
ずっとノーフン野郎と競い合っていたのか、私は!
「イヅル!!」
そして舞い散る羽根の中、セヴァの伸ばした手が、遂に――、




