勘弁してくれ
8.
ようやく緊張が緩んで、セヴァは、肩で息を吐きました。
どっと疲労が襲います。まったく、とんだ災難です。おかげで、ひどく消耗してしまいました。これだから術は使いたくないのに。予定外の魔力を予定外の早さで持って行かれて、業腹この上ない。
「いつまで転がってンだ。ボサッとしてんじゃねェよ」
苛立ちも甚だしく、声を荒げました。
文句を垂れつつ、のしのしとムゥに歩み寄ります。
ところが、ムゥは横座りしたまま俯き、立ち上がろうともしません。
とうに結界は解いてあります。
まだ動いてはいけないと思っているのでしょうか?
「おい、もういいんだぜ。腰でも抜けちまッたかァ?」
「……違う、膝だ」
「は?」
「挫いた。痛くて力が入らない」
驚いて覗き込むと、ムゥは不自然な姿勢で、右膝を押さえていました。
「この馬鹿!」
かっと頭に血が上ります。危うく、また蹴飛ばすところでした。
次から次へと面倒増やしやがって!
「戦ったの俺じゃねェか! なんで見学で怪我してンだよ!」
「お前だ! お前に蹴飛ばされたんだ!」
「え」
怒鳴り返したムゥが、うっと顔を顰めます。
俺? 俺のせいか?
もしかして、あれか。大蛇からムゥを庇ったとき。
腰の辺りを蹴ったつもりでしたが、言われてみれば、ちょっと手応えが変だった気がします。なにしろ咄嗟でしたから、力加減や角度を考えている暇はありませんでした。
「…………」
ムゥの上目遣いが、少しだけ良心に刺さりました。
出血はありませんが、確かに爪先の方向が変です。歯を食い縛っているのか、頬が左右非対称に歪み、額には玉の汗が浮いていました。演技、ではないようです。第一、そんなことをする理由はありません。時と場所は弁える男です。だからこそ今まで、黙って痛みに耐えていたのです。セヴァの邪魔にならぬよう。
思い返せば、やけに顔色が悪かったっけ。
「…………」
セヴァは、考えました。
迷いました。
十秒ほどの時間が、ずいぶん長く感じられました。
「……俺はイヅルに会いたい」
やがてそれだけ言うと、ムゥから眼を逸らせました。
どんな表情をしているのかなんて、知りたくもない。
「わかるだろ? お互い、何年も待ってたンだ」
迷うことなどないのです。
自分達は、ひとつの権利を奪い合っているのですから。
「来れるンなら追ってきな。無理なら、帰りに拾ってやる」
踵を返して、セヴァは、ヒコボシを探しに走り去りました。
†
「…………」
行ってしまったな。
踏み荒らされた笹百合の中、ムゥは、ひとり呟きました。
不思議と、怒りはありません。悔しくも、恨めしくもありませんでした。
長い付き合いです。セヴァのことは、よく知っていました。彼にだって、愛しい者がいます。会いたい人がいます。立場が逆なら、自分だってそうしたかもしれません。
ただ……。
いや。頭を振って、思考を切り替えます。
ブーツを脱いで、作業服の裾を捲り上げました。右膝は、ずきずきと熱を持って痛み、いくらか腫れてきています。折れたり外れたりしなかったのが不幸中の幸いですが、体重を支えることができません。
明日には紫色になっているな。
げんなりしながら、バッグから包帯と鎮痛剤を取り出しました。ひとまず鎮痛剤を飲み、水分を補給します。これでヒコボシ争奪戦は敗北決定ですから、もう急ぐ必要はありません。せいぜい、のんびり手当しましょう。
当木が必要かな。バッグを漁ると、十五センチほどの棒が出てきました。照明が切れたときの予備にと入れておいた“照明棒”です。ちょうどいい。これを。
薬を塗り、照明棒を当て、包帯を巻き始めた、そのときでした。
がさり。
笹百合を掻き分ける音が、確かに、聞えました。
まさか。大蛇の死骸へ眼を遣りました。
ざわざわ、ざわ。吹く風が、粘って髪に纏わり付きます。
場違いな笹百合の芳香が、つんと鼻を突きました。
大蛇は、やはり頭を潰されて横たわっています。
でも、その姿がなんだか、薄いのです。
色、厚み、存在感。すべてが。
胴は心なしか痩せ、鮮やかな緋色はくすんで、全体的に空気が抜けたよう。その上、やたらと皺くちゃです。表面がパリパリに渇いて、まるで秋の落葉か、洗濯糊でした。
ひときわ強い風が吹いて、大蛇の身体が、ふと浮きました。
そして、そのまま。はためいて、夜空に飛ばされてゆきます。
――抜け殻です。
「なんだと!?」
キシャァアア!
叫んだのと同時、背後から威嚇音が飛び掛かってきました。
すんでのところで伏せ、丸呑みを免れます。けれど、二度目は避けきれませんでした。大木と見紛うほどの蛇腹が目の前を通り過ぎたかと思うと、ぐるり巡らせた顔が大口を開け、ムゥの右脚に食らい付いたのでした。
「あぁああッ!」
太い牙は、たちまち肉を抉り、骨に達します。
ぎぎ、ばき。いとも容易く、太腿が折れました。もう膝がどうのと言っていられる痛みではありません。耐え難い激痛です。苦し紛れに伸ばした手が、大蛇の黒髪を掴んで引き千切りました。
…………髪?
「ぐっ……!」
無意識でした。
ムゥは、手に持った照明棒で、大蛇の片眼を突き刺していました。
シャアア!
放り出されて、受け身も取れず、地面に転がります。
脳天まで突き抜ける痛みに、半ば失神するところでした。
それでも、今見たものが信じられず、懸命に振り返ります。
大蛇は、照明棒を引き抜こうと、狂ったように頭を振り回していました。身体は一回り以上大きくなり、緋色の鱗は漆黒へと変貌を遂げて、ますます以て重い憎悪を発散しています。
が、ムゥが驚愕したのは、そこではないのです。
身を捩り、蛇腹がのたうつ度、ざんばらに乱れる、長い髪。
悲鳴こそ人の声ではありませんが、それは紛う事なき人間の髪でした。
あぁ、見間違いではなかった。
大蛇の首から上が、そっくり人間の女性に差し替わっているではありませんか。
ムゥは、ついさっき己の手が掴んだ感触に、改めてゾッとしました。
込み上げる嘔気が、痛みのためなのか悍ましさのためなのか。わかりません。
勘弁してくれ。もう叫びたくなりました。
私が何をしたっていうんだ。
――あな憎し。
どうして頭を潰されて生きているのでしょう。余裕でピンピンしています。古い皮ごとダメージを脱ぎ捨て、新しく生まれ変わったとでもいうのでしょうか。それにしたって、人間の頭が生えてくるなんて。滅茶苦茶です。
悲しいかな、泣き言を垂れたところで、事態の改善は望めません。
激痛の最中、ムゥは気力を振り絞って、魔力の残りを計算しました。
魔力を回復させる薬はありますが、問題は指輪です。格納した術エネルギーも、もう残り少ない。おそらくあと二回か三回、使えるかどうかです。一撃で仕留めなければ、やられるのは此方。既にムゥの傷は致命的でした。
爬虫類なら、冷気に晒されれば、動きが鈍るかもしれない。
一か八か。決めて、ムゥは指輪に魔力を込めようと――……、
「…………?」
ぐらり。
唐突に、視界が歪みました。
なんだ? 貧血か? こんなときに!
バッグから栄養剤を出そうとした手が、けれど動きませんでした。
爪先が、指が、手が、脚が、頭が、身体が異様に重い。
舌までもが、言うことを聞きません。
猛烈な吐き気が胃を迫り上がり、内臓という内臓が、誤作動を始めます。呼吸は先走り、腸は痙攣し、心臓はぎゅうと縮んで、全身から血の気が引きました。体温が急激に下がってゆきます。
「あ…………」
噛まれた右脚に、視線を落としました。
「ど……く…………?」
呂律が回りません。
しまった。呟くこともできず、地面が傾いて、持ち上がります。
いや、自分の方が倒れているのか。
理解したときには、もうムゥは立っていませんでした。
倒れ伏したまま笹百合に埋もれて、感覚が薄れてゆきます。色も形も曖昧に、音の遠ざかった世界で、甘い芳香だけが、慰めるように揺れていました。棺に納められたみたいだ。あれは案外と寝心地の良いものらしいが、本当だろうか。
馬鹿。そんなことより解毒剤を……。
ぼんやりと思うだけで、指一本動かせません。
気付けば、すぐ目の前に、大蛇が迫っているというのに。
「…………ッ」
ちろちろと、二股の舌が、頬を撫でました。
掠れて回る視界で、片眼の潰れた大蛇の――女の顔が、見つめています。
器量の良し悪しは、ちょっと判別が付きませんでした。何故ならその顔は、確かに人間の形をしていながら、部分的には蛇なのです。丸い眼球の中、縦長の瞳孔が爛々と赤く燃え、鼻は削げたように穴だけが空き、唇のない口が耳まで裂けて太い牙を覗かせ、シュウフシュウと生臭い息を吐くのです。
――恨めしや。
大蛇は器用にムゥの体勢を変え、ぐるりと巻き付いて、締め上げ始めました。
ぱきぱき、ぱき。妙に軽快な音を立てて、骨が砕けます。雑巾のように絞り上げられ、くぐもった呻き声が、何処か遠いところから聞えました。己の喉から漏れるそれが、まるで他人事でした。毒の作用か、実際そういうものなのか。意外なほど苦痛はありません。
ただ、とても眠い。
身体も意識も、自分という存在のすべてが、暗い穴に引きずり込まれてゆくのがわかります。その穴は底なしでした。何処までも広がっていながら、何処へも辿り着けない。初めからずっと、終わっているのです。
……なんだ。
それなら、この森とたいして変わらないじゃないか。
ふっと薄く嗤った、その瞬間でした。
にわかに眩い光が降り注ぎ、一刀のもとに、深い闇を切り裂きました。
一転、光はふわり解けて広がり、ムゥを包み込んで、傷付いた身体を優しく抱き留めます。うっすら開いた瞼の向こう、浮かぶような落ちるような、奇妙な感覚に包まれて、景色が淡い緑色に染まるのを、見たような気がしました。




