悩める研究室
4.
陽の当たらない、暗く静かな室内に、湿った薬品の匂いが漂います。
壁を占拠した棚には、大小あらゆる形のフラスコと、すっかり暗記してしまった魔術書が、所狭しと並んでいました。開けっ放しの抽出からは、不思議な形をした道具が溢れて、机の上にまで散乱しています。誰がどう見ても怪しげな、魔術士の研究所です。
この独特の雰囲気が、ムゥは好きでした。生成術の研究に没頭しているときは、何も余計なことを考えなくて済みます。いったん籠もれば時間を忘れ、寝食を欠いて苦になりません。悪い癖でもあるのですが、娯楽の才能もないムゥにとって今、これは唯一の道楽なのでした。
「おーいムゥ。此処かァ?」
作業台で設計図を睨んでいると、コンコンとドアを叩く音がしました。
セヴァです。ムゥは手元から目を離さず答えます。
「なんだ?」
「ちィッと帯やってくれよゥ」
「取り込み中。自分でやれ」
「それがさ、おチビにやらせたらえれェことになってよ。後ろ手じゃァ解けねェ。なんとかしてくれよゥ」
……集中していたのに。
仕方がありません。立ち上がってドアに歩み寄り、鍵を開けてやりました。
「おゥ、邪魔するぜ」
「あぁ全力で邪魔だ」
ムゥはあからさまに迷惑げな顔をしてみせましたが、気にするセヴァではありません。さっさと部屋に入り込み、くるりと背を向けました。
なるほど。確かに毛糸玉のようにこんがらがって、えれぇことになっています。ムゥは溜息を吐いて、格子模様の袋帯に手を掛けました。
「文庫でいいな。だいたい子供にやらせる奴が……こら尻尾フラフラするな」
「ヤだよ助平。変なとこ撫で回さねェでくれよ」
「誰が狐男の尻で喜ぶか!」
忙しなく動く尻尾を叩いて、ムゥは着々と帯の形を作っていきます。ムゥの国の帯とは違い、分厚くてやたらに幅がある。奇妙な帯でした。大抵の結び方を心得てしまった自分が、なんだか情けないムゥです。
本日のセヴァのお召し物は、茜色に白牡丹の大振袖。
「なんだってこう毎日毎日、バカみたいに着飾る必要があるんだ?」
「馬鹿とァなんでェ。俺様の衣装はいつだッて晴れ着なのよ。何処でくたばったッていいようになァ」
セヴァはムゥに視線を流して、横顔でフンと鼻を鳴らしてみせました。妙に艶のある色っぽい眼差しは黄金に輝いて、昇る太陽を思わせます。彼のこんな表情が、冗談なのか本気なのか。ムゥには、よくわからないのでした。
「……よし」
綺麗な蝶文庫が出来上がりました。
仕上がりに一応満足したのか、セヴァは頷いて、作業台の上に目を遣りました。どうも初めから気になっていたようです。
工具やら素材やら筆記用具やら設計図やらの散乱する中央に、巨大な白いキノコが一本、危ういバランスで佇んでいました。
「不ッ細工な仕事だねェ。新作かい?」
「うるさいな」
「なんつーか、ふわふわと危なッかしいねェ。じき崩れちまいそうだ」
「触るなよ。まだ仮組みなんだ。壊したら尻尾プードルカットの刑だぞ」
いちいち悪態を吐くセヴァを小突いて、ムゥは作業台へ歩み寄りました。実際、これは試作品です。完成イメージを掴むために、ざっと形を確認しただけ。決して言い訳ではないのです。
ムゥは、さっきまで見ていた設計図を手に取り、台上の物体と見比べました。
「はかどってるかい」
「設計は問題なさそうだ。ただ素材がな……」
いずれも工作には言えることですが、素材の選別は重要です。とりわけ生成術とくれば、その特性から形状、与える魔力の強弱で、大きく効果が変わってしまうので尚更です。慣れていても、いつも順調とは限りません。
中でも特に気を遣うのが“核”です。他の部分は後からでも修正が利きますが、こればかりは一発勝負。いったん生成してしまうと、命令を変更するのには非常に面倒な手間が掛かります。そればかりか、下手をすると魔力が暴走して、予期せぬ事態を招きかねません。
好きでやっているとはいえ、魔道具を作るのは、決して楽ではないのでした。
「何がいけねェんだい?」
「いや、今のところ処置の難しいものはない。でも核が見付からないんだ」
「長老の口。あそこァ大抵のモン転がッてンだろ」
「行ってはみたが……」
「硫黄沼は?」
「あんな激臭の中に潜れるのはお前くらいだ」
「俺でも嫌だねェ。鼻がヒン曲がッちまわァな」
「そんな場所を提案した理由を一時間ほど問い詰めたい」
その後、幾つかの候補が上がり、消えました。
ムゥだって、めぼしい採掘場はだいたい回ったのです。それでおおよその素材は手に入れることができました。ところが、核だけが何処を探しても見付からない。少し焦っていました。
「ンで、結局なンだい? こりゃァ」
「聞いて驚け。記録装置だ」
こちらは完全に焦れたセヴァが、話題を変えました。
するとムゥの表情が、パッと子供のように輝きます。正直、待っていたのです。
「素材と魔力を呼応させ、同期連動させることによって、辺り一帯の映像や音声、匂いまでもを記録する。記憶じゃないぞ、記録だ。つまり勘違いも感情バイアスも掛からない。いつでも正確に、その場で起こったことを再現し、視聴できるんだ。どうせなら画質に拘りたいと思って、ここ。傘の部分だな。映写の役割を担う素材には、あらゆる色を再現する虹蚕の糸と透過性の高い硝子紙を使った。本来は相反する性質を持つ素材なんだが、万華鏡石の粉を使うと……」
「よーするにアレだァな。おチビの玩具だな」
ムゥの息継ぎを狙って、セヴァがピシャリ結論だけを述べてしまいました。
こうなるとムゥは長いのです。ムゥ自身それを知っているので、ちょっと不満げな顔をしつつも、ひとまず頷きます。
「……ヘンゼルが、魚の成長記録を取りたいと言うから」
例の魚。どうもヘンゼルは、彼が甚く気に入ったようで、あれから毎日毎日、池へ足を運んでいます。雨が降っても風が吹いてもお構いなしです。大きなスケッチブックとムゥの作った双眼鏡を持って、飽きもせずに何時間も瓢箪池で過ごしているのでした。
ヘンゼルには、午前中だけ瓢箪池まで。という条件付きで、単独行動を許可しています。運動能力も上がり、自我も強くなってきたこの頃、やたらと一人で出歩きたがるのです。強く禁止しては反発から何をするかわかりませんから、敢えて条件を設けることでこれを回避しているというわけ。
それでも、こう毎日では心配なので、可能な限り自分かセヴァが付き添っているのですけれどね。
「そういえばヘンゼルは? お前が見てただろう?」
「池から帰ってお昼寝さ。お魚と遊んで疲れたんだろォぜ」
「コロンボ君だっけ」
「トビー君だってばよ」
どおりで静かなはずです。今朝は文字の書取を言い付けていたのですが、さて、どうなったのやら。二ページも進んでいれば良いのだけれど。
「――気に食わない」
吐き捨てるように呟いたムゥは、知らず眉間に皺を寄せていました。
ヘンゼルのことではありません。
あの魚が気に食わないのです。
なんの変哲もない鮒。本来、鮒だなという以外の感想を抱きようのない、ただの鮒です。それなのに苛々します。どういうわけか、あの魚が憎らしくて憎らしくて堪らないのです。とりわけ、飛ぼうとしている姿を思い浮かべると、腸が煮え繰り返るようでした。おとなしく水中を泳いでいてくれれば良いものを。
なんなのだ、あの魚は。
どうして私をこうも不快にさせる。
「おチビィ取られて悔しいのかい?」
椅子の背に仰け反って、セヴァが揶揄っぽい口調を投げてきました。
「馬鹿。私だっていい大人だぞ」
ムゥは頭を振ります。そんなことで、ここまで執心する道理はありません。
セヴァではないけれど、いっそ打ち殺して夕飯にでもしてしまえたら、どんなに清々しいか。考えれば、舌打ちが漏れました。
この粘着質な感情が何処から来るのか、ムゥには皆目わかりませんでした。何をしていても、ふと頭を過ぎる一匹の魚に、ざわり心を掻き乱されるのです。不満は憎悪となり、憎悪は沸々と堆積し、腐って、吐き気のする悪臭を放ち始め、ともすれば強烈な殺戮衝動が、全身を刺し貫いて――。
あぁ、できるのなら。
殺してしまいたい。あの魚を。
「気に食わない」
行き場をなくした癇癪に、ムゥは、水色の髪を掻き毟りました。
「同族嫌悪」
低音の飛んできた方へ視線を遣ると、セヴァは片眼を細めて、少しだけ肩を竦めてみせました。
「なんだって?」
「だからそりゃァ、同族嫌悪だよ」
どういう意味なのでしょう。
理解できないムゥは、もう一度、訊き返しました。
セヴァは薄く微笑むのみです。
あの日と同じ。それ以上は、何も答えてはくれないのでした。
†
かんさつ日記:6日め 雨
今日は雨です。さむいです。
お池の水が、ちょっとふえていました。
トビーくんは、お魚だから、雨の方が好きだと思っていました。
でも、飛びにくいみたいです。
風があるから?
昨日より、5びょうくらい、たくさん飛べるようになりました。
早くお空を飛べるといいなと思います。
だけど、トビーくんは、お空で息ができるのかな?