希星求むは誰が為
3.
泉の周りに、たくさんの動物が集まっていました。
兎やリス、狸。蛇や鳥もいます。普段、セヴァの匂いを恐れて出てこない大型の鹿や猪までが、一堂に会して、争いもせず神妙に夜空を見上げていました。虫の音の響く夜、絵画のような光景は、見る者が居れば大層、心を打たれたでしょう。
そこへ南の方から、すいと小さな光が飛んできました。
「散れってンだゴルァーーー! 食っちまうぞ!」
続いて静寂を破ったのは、風情もクソもない咆吼です。
セヴァの威嚇に、動物たちは吃驚仰天。我先にと逃げ去ってゆきました。
ヒコボシは泉の傍を通り過ぎ、やがて“角岩”へと差し掛かります。
狭い小道の両脇に、にょきっと尖って突き出している姿から、こう呼んでいる岩です。ちょうど左右の岩を繋ぐ形で奇妙な縄が張られており、縄には四角い紙片が連なって、垂れ下がっています。
セヴァが“注連縄”と呼ぶこれは、結界であり、目印でした。
自分以外の者が、特にヘンゼルが、万が一にも間違って入らないように。密かに施した結界が、いくつか森にはあるのです。これはその一つでした。
というのも、此処から先は、西の森。
広大な森の中でも、特に常識の崩壊した、危険地帯です。
森の外ではありえない、冗談のような植物や虫が蔓延り、これが軒並み凶暴で、地形はデタラメな上に、気紛れときます。ヘンゼルはもちろん、ムゥでさえ、単独で立ち入ることはありません。普通の人間なら遭難、大怪我待ったなし。生態系の狂った、禁断の地なのでした。
森の中に森というのも変ですが、場所によってはこうした地域も存在するため、ムゥとセヴァは区割を設けて、行動の目安にしているのです。
ヒコボシは角岩を越えて、西の森へと分け入ってゆきました。
残念ながら、結界はヒコボシには効果がないようです。
「また面倒臭ェところに……」
走りながら、セヴァは錫杖を構えました。
「“祓い給え”」
振り下ろした錫杖が、注連縄を中央から、真っ二つに断ち切りました。
切り離された注連縄は、しゅるしゅると暴れて解け、闇と同化してゆきます。
その残像を蹴散らして、セヴァは角岩の間を駆け抜けました。
前方に、ヒコボシがきらり。一番星を思わせて輝きます。
――イヅル。
愛しいその名を呟き、セヴァは夜空を振り仰ぎました。
新月に於いて、いっとう映えるあの星に、その名を付けたこともあります。この季節、天の川の片隅で、織姫よりも彦星よりも、ずっと気高く鮮明に煌めく夕星。星屑を繋いで、夜空に姿を描いても、決して届くことはない。ただ輝くのみだと、知っているのに。
「お前に会いてェなァ。イヅル」
セヴァにとって、誰よりも美しい女性でした。
愛しいイヅル。大切なイヅル。俺の宝。イヅル。
あぁ。共に過ごした記憶は、今は遠い花火の如く。
「待ってろよ……もうすぐ会えるからな……」
ぐっと拳を握り、セヴァは、感傷を振り払いました。
絶対に、俺が勝つ!
†
走り続けたセヴァは、やがて“地獄庭園”に辿り着きました。
その名の通り、気味の悪い植物が密集している地帯です。脳味噌を彷彿とさせる形の岩が点在する中、鬱蒼と茂る歪な樹木の幹には、おしなべて苦悶の表情が浮かび、その枝は痩せ細った魔女の手よろしく、鉤爪を天に向けて藻掻いているよう。
けけけ、と何処かで笑い鳥が鳴きました。いつ聞いても嫌な声です。
ぐえぐえ鳴くのは蛙草です。毒があるので、注意しなくては。
さて、ヒコボシは何処でしょうか?
辺りを見回すと、いました。
人面樹の天辺に留まって、眠るような呼吸で瞬いています。
「しめたぜ」
セヴァは、ほくそ笑んで羽衣を広げました。
とん。軽く地を蹴れば、ふわりと長身が浮かびます。乱れた呼吸を整えながら、ゆっくり宙を泳いで、セヴァはヒコボシに近付きました。
幸い、まだムゥは追ってきません。今のうちです。
でも慎重に。以前、これとまったく同じ状況でクシャミをぶっ放し、逃げられてしまったことがあるのです。油断は禁物。そっと両の掌で囲いを作り、ヒコボシを中心に、空間を狭めます。即ち、虫を捕まえる少年の仕草でした。
あと少し……もう少し……。
ですが、いけると思ったその瞬間。ぐいと何かに脚を引っ張られ、弾みで身体が傾いて、うっかり枝を掴んでしまいました。
「あっ! しまっ……」
ばきっ。枝が折れる音に驚いたのか、途端にヒコボシが跳ねます。
慌てて手を伸ばしても、間に合いませんでした。
ヒコボシは天高く飛び上がり、既に夜空の星と見分けが付かないほど、遠く小さく縮んでしまっています。あれでは到底、届きません。いくら家宝の玉虫前でも、高度には限界があるのです。
「おいてめェ何しやがる! もうちょっとで……!」
てっきりムゥの妨害だと思って、セヴァは足元を睨み付けました。
そして、吊上がった双眸が、きょとん。点になります。
セヴァの足首に絡み付いて引っ張っていたのは、ムゥではありません。
棘の生えた、ぶっとい緑色の触手でした。




