表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
紫陽花散歩
34/90

今はこの雨に浸ろう

13.






 地面に膝を着きつつ、ムゥが滑り込んできました。

 繋いだ手を引き寄せられ、ぐいと付き合わされた顔に、ヘンゼルは再び驚愕し、縮み上がります。

 だって、その顔の、怖ろしいこと。

 いつも穏やかに垂れた眼が、今は険しく吊上がり、片方の眉が小刻みに痙攣しています。荒い息を吐く唇は、全力疾走のためか他の感情のためか、はぁはぁと呼吸を確保しながらも、やはり不味い物でも食べたみたいに歪んでいました。しかも、髪と言わず服と言わず、全身から水滴を滴らせています。


「馬鹿! 何やってるんだ! どうしてこんなところにいる!」


 間髪入れず、厳しい口調が降ってきました。


「せん……せ」


 何が起こったのかわからないまま、それでも条件反射で、ヘンゼルの身体が強ばりました。こんな顔のムゥは、見たことがありません。これほどの剣幕で怒鳴られたのも、初めてです。これは相当怒っているに違いない。


「ご、ごめんなさ……」

「お前って子は……本当に」


 けれど口を突いた謝罪は、低く喘ぐような溜息に掻き消されました。

 二の腕を掴まれ、軽く肩を押されて、ヘンゼルは少し仰け反ります。

 続いて与えられたのは、叱責でも拳骨でもありません。


「……無事で良かった……!」


 痛いほどに優しい、二度目の抱擁でした。


「…………」


 あぁ、先生だ。

 とっくに日常だと思い込んでいた、この体温。匂い。鼓動。

 こんなにも、特別だったなんて。

 何か言わなければならない、と思いました。

 ありがとう? ごめんなさい? もっと別のことを?

 言葉が出てきません。

 自分を抱き締める腕の温もりに、ただただ、涙が込み上げます。そうして途方もない安らぎに包まれて、身体中から力が抜けてゆくのを感じれば、何が何だかわからないまま、もう堪らなくなりました。


「……あぁああん先生! せんせぇえええ」

「よしよし。怖かったろう……もう大丈夫だ」

「こわかったこわかったようこわかったぁ! 先生! 先生!」

「あぁ、私だ。此処にいるぞ。ちゃんといる。何処にも行かないから」

「せんせぇ……せんせぇえええ……」


 ムゥの胸に顔を埋め、目一杯しがみついて、ヘンゼルは泣きました。

 だから、知らないのです。

 泥に膝を着き、降る雨からヘンゼルを庇う姿勢が、まるきりの無意識から生じた結果であったことも。ムゥの切羽詰まった表情は、不安と焦燥と狼狽と疲労、そこに安堵が加わった複雑な足し算の答えだったことも。その唇が、指先が、双眸が、しとどに濡れた水色の髪が、ヘンゼルを失う恐怖に震えていたことも。

 寄り添う二人の輪郭は、青い紫陽花のそろって咲く姿にも似て。

 或いは親子と見えたかもしれなかったことも。


「あーあァ、無慈悲だねェ。せっかく綺麗に咲いてたッてェのにさ」


 頃合いを見計らって登場したセヴァが、ずぶ濡れの尻尾を振りました。

 の一重を尻っ端折りに巻き上げ、羽織は防水仕様の黒鳶。肩には派手な番傘を担ぎ、あまつさえ、生足に履いているのは真っ赤な長靴です。無慈悲なのは、彼の恰好の方ではないでしょうか。

 胸に張り付いた花びらを抓んで一瞥し、セヴァは不服げに唇を尖らせました。


「ッたァく、野暮だぜ。ぜーんぶブッ飛ばしてくれッて言うンだもんよ」


 気付いたヘンゼルが、顔を上げて訊ねます。


「……さっきの、もしかしてセヴァさんのジュツ?」

「おうよ」


 セヴァはヘンゼルの鼻先で拳を握り、パッと開いてみせました。


「お前がいねェって、ムゥが騒ぎ始めてさ。あちこち探して此処まで来てみりゃ、紫陽花共が道ィ塞いでやがる。ンで、どォするッて訊いたら、これだよ」


 顧みるセヴァに合わせて視線を遣ると、一帯を囲んでいた紫陽花は、見るも無惨な姿に変わり果てていました。茎は千切れ葉は破れ、花びらは尽く四散し、城壁を彷彿とさせた威圧感は跡形も残らず消し飛んで、今や単なる通路と化しています。

 だとすれば、あの空気の膜は。ヘンゼルは、すぐ合点がいきました。あれは爆発からヘンゼルを守るために、セヴァが張った結界だったのです。


「……どうしてぼくがここにいるってわかったの?」

「此奴さ」


 長身を屈めて、セヴァが何か拾い上げました。

 泥を拭い去られた指先の形に、すぅと繊細な銀色が光ります。

 呼子でした。


「いつか、なくしたッて泣いてたじゃねェか。何処でッけたンだい?」

「お家まで聞えたの?」

「いンや」


 くく、とセヴァが、さも可笑しげに笑います。


「犬笛なンだよ、これ」


 つまり人間には聞えなくとも、セヴァの耳には却って鋭く届く仕様というわけ。

 ヘンゼルが綺麗だと思っていた音色は、そのほんの一部だったのですね。


「たまたま可聴範囲まで来ていたんだ。運が良かった」


 濡れ髪を掻き上げて、ムゥは深い溜息を吐きました。

 人心地着いたのか、改めてヘンゼルの手を取り、立ち上がらせます。


「どうしてこんなところにいるんだ? 何があった?」

「あ、あのね。カサさんを拾ったの。なくしものをさがしてくれるって言うから、いっしょに、いろんなとこ行って。最後、アジサイがいっぱいあって、ここに来たんだけど、帰り道がわからなくなって」

「なんだって!? 何処だ、その誘拐傘は!?」

「わ、悪いカサさんじゃないんだよ!」

「出てこい! 骨という骨をヘシ折ってやる!」

「おちついて先生! 帰りながらゆっくり話すから!」


 あぁ、始まってしまいました。

 ムゥという男、普段は穏やかで思慮深い人物なのです。ですが、ひとたび持病の過保護が重篤化すると、いけません。非常に面倒な症状を示し、手が着けられなくなります。たぶん此処へ来るまで、万事この調子だったのでしょう。セヴァが逆らわないはずです。

 長くなるぞ……。

 げんなりと肩を落とすヘンゼルの傍で、スイッチの入ってしまったムゥは、本日何度目かのスーパー発狂タイムへと突入するのでした。






                  †







 空は、墨を塗ったように黒々としていました。

 降る雨さえも闇に呑まれそうな帰り道、雨が世界を打つリズムは、未だ途切れる気配がありません。少し先、灯りを持つセヴァの手元だけが、ほろほろ揺れて夜道を照らします。


「……それで、そこに先生が来てくれたの」


 語り終えたヘンゼルは、ムゥの背中で睫を伏せます。


「そうか……」


 しばし置き、ムゥが相槌を打ちました。

 ちょくちょく説教が挟まったものの、幸い過保護の発作は途中で収まりました。ヘンゼルの話を聞き終えて事情を理解したのか、しきりと神妙な面持ちで頷いています。

 どうやら誤解は解けました。ヘンゼルは、ほっと胸を撫で下ろします。


「いや、しかし今後も誘拐の危険性がゼロとは限らないな……」


 と思ったのも束の間。よくよく窺えば、ムゥは俯き加減で、何やらブツブツ不穏な台詞を呟いています。


「以後ヘンゼルの持ち物には、もれなく発信器を内蔵しないと……課題は小型化と量産、素材か……耐久度……そうだ、いっそ首輪にして外れないように……」

「!?」

「お前が犯罪者だよ!」


 すかさずセヴァが、ドン引きして距離を取りました。

 誤解は解けましたが、その代わり、もっと深刻な問題が生じた気がします。ここは断固拒否して思い止まらせねば、今後の自由行動が脅かされる……のですが、実のところヘンゼルには、もうこの先生を説得するだけの気力が残されていません。今日は疲れました。身も心も、くたくたです。

 どっと脱力したヘンゼルは、その件に関する抗議は明日と決めて、ムゥの首筋に頭を垂れました。

 なんだか、とっても、眠い。

 重い瞼を伏せると、世界を満たす音が、微睡む意識に染み込んできます。

 ざあざあと、雨の音。がっががっが。蛙の声。たんたんたん。フードが雨を弾く音。ずるべちゃっ。ムゥとセヴァが泥濘を踏む音。短い一日に詰め込まれた様々な感情が、雪崩を打って押し寄せます。そのすべてを、ムゥの背に預けて。

 疲労と睡魔に身を委ねれば、甘ったるい土と燻る緑の匂いが鼻を突く。


 ……あぁ、やっぱり、あの日に似ている。


 あの日。

 僕は森を歩いていた。

 何度も通ったことがある。慣れた道だったのに。

 どういうわけか、僕は迷った。

 途方に暮れて歩き続けた。

 そのうち、こんな激しい雨が降ってきたんだ。

 見付けた樹の洞に潜り込んで、僕は泣いた。

 怖くて、怯えて、濡れて、ひとりぼっちで。

 潰れてしまいそうなくらい、真っ暗だった。

 そんなとき。

 あなたが現れたんだっけ。


「ねぇ、先生」

「なんだ?」

「……今日は、ごめんなさい」

「あぁ……これから気を付けるんだぞ」

「はい」


 暗闇を照らした灯火。轟く遠雷。暴れる風と、激しい雨の中。

 おいで。微笑んで手を差し伸べた、その人を。

 僕は、いつか先生と呼ぶことになる。


「ねぇ、先生……」

「なんだ?」

「アップルパイ……食べたいな」

「うん……? あぁ、わかった。明日作ってやる」


 僕は、あの日も先生の背中で、森の音を聞いた。

 広くて、硬くて、花の香りもしなくて。ママの背中とは、まるで違う。

 だけどその背中が、どんなに温かかったろう。

 頼もしかったろう。

 あなたの笑顔が、青空みたいな瞳が、ひたすらに優しくて。

 この人が、きっと僕を守ってくれる。そう思った。


「ねぇ、先生」

「うん?」


 あのとき、僕は訊ねた。何処へ行くの。

 私達の家だよ。あなたが答えた。


「ぼく、先生もセヴァさんも……大好きだよ……」

「?」


 あぁ、もうその必要はない。

 だって僕は知っている。

 僕は、僕達の家へ帰るんだ。

 先生とセヴァさんと僕の。三人の、お家。


「だから……」


 だから、今は、安心して眠ろう。

 僕がどんな夢を見ても。

 目覚めたとき、きっと、あなたが傍にいてくれる。

 ママがいなくても。

 婆ちゃんがいなくても。

 この雨が、終わらぬ追憶の檻だとしても。


「今は、これで、いいんだよ、ね…………」









「ヘンゼル?」


 途切れた言葉が気に懸かり、ムゥは、そっと背中へ呼び掛けました。

 返事は安らかな寝息です。

 起こさないよう、慎重に位置を調整して、足を速めました。


「……私はな、ヘンゼル」


 未だやまない雨を浴び、籠もる吐息は靄となります。さんざめく蛙が殊更に喉を鳴らせば、割れるような喧騒に、囁きは掻き消えて、泥濘は柔らかに郷愁の香りを漂わせるのみ。そうして数秒遅れて轟いた遠雷が、今日という日に、思わせぶりな足跡を残すのです。


「……て、……るから」


 ぽつり呟く視線の先、前を歩くセヴァの番傘が、くるくる回る。

 揺れる灯りは朧と霞み、ほろほろ踊って、家路を照らしました。

 雨霧を纏う三人の背中が、やがて夜に紛れて掠れ、細い闇へと遠ざかる頃、道端で咲く紫陽花の影から、ふわり。二匹の蛍が昇ってゆきました。









紫陽花散歩/了







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 以前自分が書いた感想を読み返して少し驚きました。 今回の「紫陽花散歩」の再読は、ひたすら雨の情景に浸り、ヘンゼルと一緒に雨を楽しみ、最後の方で迷子になった絶望と雨の冷たさを感じました。雨の季…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ