今はこの雨に浸ろう
13.
地面に膝を着きつつ、ムゥが滑り込んできました。
繋いだ手を引き寄せられ、ぐいと付き合わされた顔に、ヘンゼルは再び驚愕し、縮み上がります。
だって、その顔の、怖ろしいこと。
いつも穏やかに垂れた眼が、今は険しく吊上がり、片方の眉が小刻みに痙攣しています。荒い息を吐く唇は、全力疾走のためか他の感情のためか、はぁはぁと呼吸を確保しながらも、やはり不味い物でも食べたみたいに歪んでいました。しかも、髪と言わず服と言わず、全身から水滴を滴らせています。
「馬鹿! 何やってるんだ! どうしてこんなところにいる!」
間髪入れず、厳しい口調が降ってきました。
「せん……せ」
何が起こったのかわからないまま、それでも条件反射で、ヘンゼルの身体が強ばりました。こんな顔のムゥは、見たことがありません。これほどの剣幕で怒鳴られたのも、初めてです。これは相当怒っているに違いない。
「ご、ごめんなさ……」
「お前って子は……本当に」
けれど口を突いた謝罪は、低く喘ぐような溜息に掻き消されました。
二の腕を掴まれ、軽く肩を押されて、ヘンゼルは少し仰け反ります。
続いて与えられたのは、叱責でも拳骨でもありません。
「……無事で良かった……!」
痛いほどに優しい、二度目の抱擁でした。
「…………」
あぁ、先生だ。
とっくに日常だと思い込んでいた、この体温。匂い。鼓動。
こんなにも、特別だったなんて。
何か言わなければならない、と思いました。
ありがとう? ごめんなさい? もっと別のことを?
言葉が出てきません。
自分を抱き締める腕の温もりに、ただただ、涙が込み上げます。そうして途方もない安らぎに包まれて、身体中から力が抜けてゆくのを感じれば、何が何だかわからないまま、もう堪らなくなりました。
「……あぁああん先生! せんせぇえええ」
「よしよし。怖かったろう……もう大丈夫だ」
「こわかったこわかったようこわかったぁ! 先生! 先生!」
「あぁ、私だ。此処にいるぞ。ちゃんといる。何処にも行かないから」
「せんせぇ……せんせぇえええ……」
ムゥの胸に顔を埋め、目一杯しがみついて、ヘンゼルは泣きました。
だから、知らないのです。
泥に膝を着き、降る雨からヘンゼルを庇う姿勢が、まるきりの無意識から生じた結果であったことも。ムゥの切羽詰まった表情は、不安と焦燥と狼狽と疲労、そこに安堵が加わった複雑な足し算の答えだったことも。その唇が、指先が、双眸が、しとどに濡れた水色の髪が、ヘンゼルを失う恐怖に震えていたことも。
寄り添う二人の輪郭は、青い紫陽花のそろって咲く姿にも似て。
或いは親子と見えたかもしれなかったことも。
「あーあァ、無慈悲だねェ。せっかく綺麗に咲いてたッてェのにさ」
頃合いを見計らって登場したセヴァが、ずぶ濡れの尻尾を振りました。
絽の一重を尻っ端折りに巻き上げ、羽織は防水仕様の黒鳶。肩には派手な番傘を担ぎ、あまつさえ、生足に履いているのは真っ赤な長靴です。無慈悲なのは、彼の恰好の方ではないでしょうか。
胸に張り付いた花びらを抓んで一瞥し、セヴァは不服げに唇を尖らせました。
「ッたァく、野暮だぜ。ぜーんぶブッ飛ばしてくれッて言うンだもんよ」
気付いたヘンゼルが、顔を上げて訊ねます。
「……さっきの、もしかしてセヴァさんのジュツ?」
「おうよ」
セヴァはヘンゼルの鼻先で拳を握り、パッと開いてみせました。
「お前がいねェって、ムゥが騒ぎ始めてさ。あちこち探して此処まで来てみりゃ、紫陽花共が道ィ塞いでやがる。ンで、どォするッて訊いたら、これだよ」
顧みるセヴァに合わせて視線を遣ると、一帯を囲んでいた紫陽花は、見るも無惨な姿に変わり果てていました。茎は千切れ葉は破れ、花びらは尽く四散し、城壁を彷彿とさせた威圧感は跡形も残らず消し飛んで、今や単なる通路と化しています。
だとすれば、あの空気の膜は。ヘンゼルは、すぐ合点がいきました。あれは爆発からヘンゼルを守るために、セヴァが張った結界だったのです。
「……どうしてぼくがここにいるってわかったの?」
「此奴さ」
長身を屈めて、セヴァが何か拾い上げました。
泥を拭い去られた指先の形に、すぅと繊細な銀色が光ります。
呼子でした。
「いつか、なくしたッて泣いてたじゃねェか。何処で見ッけたンだい?」
「お家まで聞えたの?」
「いンや」
くく、とセヴァが、さも可笑しげに笑います。
「犬笛なンだよ、これ」
つまり人間には聞えなくとも、セヴァの耳には却って鋭く届く仕様というわけ。
ヘンゼルが綺麗だと思っていた音色は、そのほんの一部だったのですね。
「たまたま可聴範囲まで来ていたんだ。運が良かった」
濡れ髪を掻き上げて、ムゥは深い溜息を吐きました。
人心地着いたのか、改めてヘンゼルの手を取り、立ち上がらせます。
「どうしてこんなところにいるんだ? 何があった?」
「あ、あのね。カサさんを拾ったの。なくしものをさがしてくれるって言うから、いっしょに、いろんなとこ行って。最後、アジサイがいっぱいあって、ここに来たんだけど、帰り道がわからなくなって」
「なんだって!? 何処だ、その誘拐傘は!?」
「わ、悪いカサさんじゃないんだよ!」
「出てこい! 骨という骨をヘシ折ってやる!」
「おちついて先生! 帰りながらゆっくり話すから!」
あぁ、始まってしまいました。
ムゥという男、普段は穏やかで思慮深い人物なのです。ですが、ひとたび持病の過保護が重篤化すると、いけません。非常に面倒な症状を示し、手が着けられなくなります。たぶん此処へ来るまで、万事この調子だったのでしょう。セヴァが逆らわないはずです。
長くなるぞ……。
げんなりと肩を落とすヘンゼルの傍で、スイッチの入ってしまったムゥは、本日何度目かのスーパー発狂タイムへと突入するのでした。
†
空は、墨を塗ったように黒々としていました。
降る雨さえも闇に呑まれそうな帰り道、雨が世界を打つリズムは、未だ途切れる気配がありません。少し先、灯りを持つセヴァの手元だけが、ほろほろ揺れて夜道を照らします。
「……それで、そこに先生が来てくれたの」
語り終えたヘンゼルは、ムゥの背中で睫を伏せます。
「そうか……」
しばし置き、ムゥが相槌を打ちました。
ちょくちょく説教が挟まったものの、幸い過保護の発作は途中で収まりました。ヘンゼルの話を聞き終えて事情を理解したのか、しきりと神妙な面持ちで頷いています。
どうやら誤解は解けました。ヘンゼルは、ほっと胸を撫で下ろします。
「いや、しかし今後も誘拐の危険性がゼロとは限らないな……」
と思ったのも束の間。よくよく窺えば、ムゥは俯き加減で、何やらブツブツ不穏な台詞を呟いています。
「以後ヘンゼルの持ち物には、もれなく発信器を内蔵しないと……課題は小型化と量産、素材か……耐久度……そうだ、いっそ首輪にして外れないように……」
「!?」
「お前が犯罪者だよ!」
すかさずセヴァが、ドン引きして距離を取りました。
誤解は解けましたが、その代わり、もっと深刻な問題が生じた気がします。ここは断固拒否して思い止まらせねば、今後の自由行動が脅かされる……のですが、実のところヘンゼルには、もうこの先生を説得するだけの気力が残されていません。今日は疲れました。身も心も、くたくたです。
どっと脱力したヘンゼルは、その件に関する抗議は明日と決めて、ムゥの首筋に頭を垂れました。
なんだか、とっても、眠い。
重い瞼を伏せると、世界を満たす音が、微睡む意識に染み込んできます。
ざあざあと、雨の音。がっががっが。蛙の声。たんたんたん。フードが雨を弾く音。ずるべちゃっ。ムゥとセヴァが泥濘を踏む音。短い一日に詰め込まれた様々な感情が、雪崩を打って押し寄せます。そのすべてを、ムゥの背に預けて。
疲労と睡魔に身を委ねれば、甘ったるい土と燻る緑の匂いが鼻を突く。
……あぁ、やっぱり、あの日に似ている。
あの日。
僕は森を歩いていた。
何度も通ったことがある。慣れた道だったのに。
どういうわけか、僕は迷った。
途方に暮れて歩き続けた。
そのうち、こんな激しい雨が降ってきたんだ。
見付けた樹の洞に潜り込んで、僕は泣いた。
怖くて、怯えて、濡れて、ひとりぼっちで。
潰れてしまいそうなくらい、真っ暗だった。
そんなとき。
あなたが現れたんだっけ。
「ねぇ、先生」
「なんだ?」
「……今日は、ごめんなさい」
「あぁ……これから気を付けるんだぞ」
「はい」
暗闇を照らした灯火。轟く遠雷。暴れる風と、激しい雨の中。
おいで。微笑んで手を差し伸べた、その人を。
僕は、いつか先生と呼ぶことになる。
「ねぇ、先生……」
「なんだ?」
「アップルパイ……食べたいな」
「うん……? あぁ、わかった。明日作ってやる」
僕は、あの日も先生の背中で、森の音を聞いた。
広くて、硬くて、花の香りもしなくて。ママの背中とは、まるで違う。
だけどその背中が、どんなに温かかったろう。
頼もしかったろう。
あなたの笑顔が、青空みたいな瞳が、ひたすらに優しくて。
この人が、きっと僕を守ってくれる。そう思った。
「ねぇ、先生」
「うん?」
あのとき、僕は訊ねた。何処へ行くの。
私達の家だよ。あなたが答えた。
「ぼく、先生もセヴァさんも……大好きだよ……」
「?」
あぁ、もうその必要はない。
だって僕は知っている。
僕は、僕達の家へ帰るんだ。
先生とセヴァさんと僕の。三人の、お家。
「だから……」
だから、今は、安心して眠ろう。
僕がどんな夢を見ても。
目覚めたとき、きっと、あなたが傍にいてくれる。
ママがいなくても。
婆ちゃんがいなくても。
この雨が、終わらぬ追憶の檻だとしても。
「今は、これで、いいんだよ、ね…………」
「ヘンゼル?」
途切れた言葉が気に懸かり、ムゥは、そっと背中へ呼び掛けました。
返事は安らかな寝息です。
起こさないよう、慎重に位置を調整して、足を速めました。
「……私はな、ヘンゼル」
未だやまない雨を浴び、籠もる吐息は靄となります。さんざめく蛙が殊更に喉を鳴らせば、割れるような喧騒に、囁きは掻き消えて、泥濘は柔らかに郷愁の香りを漂わせるのみ。そうして数秒遅れて轟いた遠雷が、今日という日に、思わせぶりな足跡を残すのです。
「……て、……るから」
ぽつり呟く視線の先、前を歩くセヴァの番傘が、くるくる回る。
揺れる灯りは朧と霞み、ほろほろ踊って、家路を照らしました。
雨霧を纏う三人の背中が、やがて夜に紛れて掠れ、細い闇へと遠ざかる頃、道端で咲く紫陽花の影から、ふわり。二匹の蛍が昇ってゆきました。
紫陽花散歩/了




