予定調和の過ち
12.
我に返ってみれば、まったく見知らぬ場所です。
辺りは一面すっかり暗く、既に夜の気配が忍び寄っていました。ヘンゼルを取り囲む紫陽花は、遠巻きにもどれもこれも似たような姿で、区別なんて付きません。というか、どっちから来たのか、完全に忘れています。
というかそもそも、此処は……何処?
「あれ? えっと? あれ?」
ええと、落ち着け。額に手を当て、ヘンゼルは記憶を辿ります。
要は来た道を戻ればいいのです。傘に会って、まずセヴァの水田へ。次は確か北へ進みました。そこから東へ……紫陽花に潜って、まず南にへ曲がった? いや、北だったかな? 違う。え、その後は? どの方角へ何度、曲がったのかなんて。とてもじゃないが憶えていません。それどころではありませんでしたし。
ひょっとして、これって迷子?
「ど、ど、どうしよう!」
ひょっとしなくても、正真正銘の迷子でした。
ヘンゼルの全身から、さっと血の気が引きます。雨模様の上に陽も沈んで、太陽の位置で方角を割り出すこともできません。ちょっと待て。これはまずくないか。
どうするんだっけ? こんなときは?
ほとんど過呼吸のような深呼吸をして、ヘンゼルは考えます。
落ち着かなければ……。
そうです。こんなときは、まず落ち着け。ムゥは、そう言っていました。そしてその場から動かないこと。体力を温存して救助を待つ。落ち着いて。落ち着いて。それから?
「そうだ!」
何か役に立つものがあるかもしれません。
ヘンゼルはポケットに手を突っ込み、中身を掴み出しました。
壊れた眼鏡と、銀の呼子。埃少々。これで全部です。
使えそうなのは、呼子でしょうか。
ヘンゼルは呼子を咥えて、渾身の力で吹きました。
ひゅるぅうううぅ――。
雨の狭間に、繊細な音色が漂います。なんて美しい、透き通った音色でしょう。でもそれだけでした。こんなか細い音が、我が家まで届くわけがありません。
「せんせぇええーーー! セヴァさぁあああん!」
焦って、大声を張り上げました。
尾を引いて震えた木霊は、じき虚しく暗闇に褪せ、ざわり樹々の呼吸に吸われて掠れ、何事もなかったかのように呑み込まれてしまいます。
そうして声が途切れてみれば、蘇る雨音が、寒々しく迫り来るのです。
「先生……セヴァさん…………」
じんわりと、目頭が熱くなりました。喉が詰まります。口元が引き攣り、鼻の奥が痛みました。あぁ駄目だ。泣いたってしょうがない。堪えようと、ごしごし眼を擦ります。いけません。いくら拭っても、次から次へと、涙が溢れて止まらない。
駄目。駄目だ。駄目だってば。
……もう駄目だ。
小さな膝が、力なく崩れ落ちます。
ぱしゃん。弾みで泥が顔へ跳ね、最終的に、これが箍を外す役割を果たしたのでしょう。押さえ付けていた不安が、恐怖が、空腹が、孤独が、此処へ来てとうとう限界を超えてしまいました。
ヘンゼルは、わっと火が点いたように泣き出してしまったのでした。
「あぁああんわああん、せんせぇえセヴァさあああん」
身を捩って叫んでも、返事はありません。応じる者のない静寂に、いよいよ窮地を思い知り、泣けば泣くほど、そんな自分が悲しくなってきます。遂に両脚を放り出して天を仰げば、無慈悲な雨が頬を、額を、怯えた全身を打ち据えました。
「ああぁああん、あああん。ぼく、ここだよぅううこわいよう」
雨は一向に弱まる気配を見せず、あんなに熱かった身体が、がくがくと震え出します。止め処なく溢れる涙と鼻水は、降る雨に流されて、もう全身で泣いている気がしました。何処からか、蛙の鳴き声がします。終わりなく延々と同じ調子を繰り返す様は、さながら狂気の合唱です。
もう嫌だ。怖い。耳を塞いで、頭を振ります。
見計らったかのように、稲光が暗い空を切り裂き、雷鳴が咆哮を上げました。
「ひぁっ……」
目一杯に身体を縮め、両手で顔を覆います。
降りしきる雨。唸る雷鳴。辺りは真っ暗で。ひとりぼっちで。
――あの日と同じだ。
三年前の、あの日。
僕は、ママと二人で、小さな森を歩いていた。
何度も通ったことがある。慣れた道だったのに。
どういうわけか、僕は迷った。
ママ。ママ。呼んでも呼んでも、返事はなくて。
途方に暮れて歩き続けた。
そのうち、こんな激しい雨が降ってきたんだ。
それで、見付けた樹の洞に潜り込んで。
こうして、ずっと泣いていた。
怖くて、怯えて、濡れて、ひとりぼっちで。
潰れてしまいそうなくらい――真っ暗だった。
「うわあぁぁあああぁッ!!」
あぁどうして。
あの母娘は再会したのに。
どうして。
僕のママは迎えに来てくれないの?
「こわいようこわいよぅ。くらいよう。おなかへったよう。こわいよう!」
誰か助けて。此処は暗い。とても暗くて、寂しくて。
「あぁああんママぁああママに会いたいよぉおう」
果てしなくひとりぼっちだ。
また、ひとりぼっち!
「ママぁああああ!」
そのときでした。
突然、ヘンゼルの世界から音が消えました。
周囲の空気が薄く均され、ぐわり広がったかと思うと一転、凝縮して、たちまちのうちに球となり、有無を言わさずヘンゼルを包み込みます。息を呑む暇があったかどうか。
次の瞬間、物凄い爆発音が鼓膜を震わせました。
「…………ッ」
あまりのことに、ヘンゼルは、驚愕すら忘れて眼を見開きます。
その瞳に映ったのは、夜目に鮮やかな花びらが千々に飛び散る様でした。
紫陽花……。
ほどなくヘンゼルは、それが弾け飛んだ紫陽花の残骸だと知りました。
ただし不思議なことには、耳を掠める小さな花びらは、その一枚一枚が、仄かな緑の光を纏って、きらきらと硝子のように輝いているのです。
何? 何が起こったの?
ハッとして、振り返ります。空気の膜は消えていました。発光する花びらは、雨に掻き落とされて地面へと散らばり、色を失って、視界は再び闇に沈みます。
その中で、暗い細道の先に一粒、ぽうと浮かぶ灯火。
それだけが残りました。
それは、近付いてきます。慌ただしい靴音が、ばしゃばしゃと泥を跳ね上げて、此方へ向かってきます。一人ではありません。二人です。灯火は暴れながら大きくなり、彼等は短く会話を交わしていました。
よく知った、そのくせ、どこまでも懐かしい声で。
……あぁ、そうだった。
かちゃん、と音がして、放り出されたランタンが、地面へ転がりました。
下方からの灯りに浮かび上がるレインコートは、ヘンゼルとおそろいの青です。
大好きな色でした。空の青、水の青、サファイヤの青。
そして、彼の髪と瞳の色。
涙に歪む世界で、やおら膨らむ灯火は、胸を焦がして熱となり、追憶の揺り籠を止めて、細めた眼に手を伸ばすのです。
「ヘンゼル!!」
いつだって、この手を取るのは――。




