迎えに来たのよ
10.
唐突の解放で、勢い余った身体がつんのめります。なんとか踏み止まろうとしたヘンゼルでしたが、酷使した脚が言うことを聞きません。結局、蹈鞴を踏んで泥の上へと転がる羽目になりました。
すぐには立ち上がることができず、倒れたまま、頭だけを擡げます。閉じた瞼を透かして、うっすら射し込む光の、なんて明るいことでしょう。どうやら紫陽花を抜けたらしい。腹の底から安堵の溜息が漏れて、一気に脱力しました。
「はあぁ……」
億劫に身体を起こし、眼を眇めつつ、辺りを見回します。
其処は、ぽっかりと開けた空間でした。ヘンゼルが超えてきた紫陽花の世界が、此処だけスプーンでくり抜かれたように、円形の広場になっています。暗順応した視界に、一本の大きな樹が、眩しく雨を弾いていました。
その下に、誰か立っています。
小さな女の子でした。
「…………」
『…………』
白いブラウス。紺のスカート。栗色の髪を青いリボンでツインテールに結んだ、歳の頃は四つ五つほどの少女でした。いきなり出現したヘンゼルに驚いたのか、眼を丸くして、口元で手を重ねています。
『……あなただあれ?』
少女が、舌足らずの、おっとりした口調で問い掛けます。
「ぼ、ぼくは……」
名乗ろうとして、はたと自分の無様な恰好に気が付きました。
地面に四つん這いです。女の子の前で、これはいけません。
「ぼくは、ヘンゼル」
努めてなんでもないふうを装って、ヘンゼルは立ち上がりました。
驚いたのは此方の方です。てっきりチノ婆ちゃんに会えると期待して、はるばる此処までやってきたのですから。予想外の初対面に、困惑を隠せません。しかも、相手は可愛らしい女の子です。なんだか、ちょっとドキドキします。
「き、君は? だれ? ここで何してるの?」
急に恥ずかしくなって、早口で、返す言葉に付け加えました。
『あたしチノちゃん』
乱暴に泥を払う手が、少女の言葉に、ぴたりと止まります。
「……チノ……?」
いいえ。そんなはずはありません。
だってチノ……婆ちゃんは、婆ちゃんです。申し訳ないけれど、どんなに若作りしても六十代、ヘンゼルの見立てでは七十代の老婆でした。いくらなんでも若すぎます。あの子はどう見ても子供。たぶんヘンゼルよりも歳下です。上手く舌も回らない、幼い女の子です。
『あたしね、まってるの』
チノちゃんが、溜息を吐きました。
僅かに小首を傾げて、視線を斜め上に流します。
あぁ、その癖。憶えています。我儘を言って困らせたとき、よくチノ婆ちゃんがしていた仕草です。でも、そんな。
『かさが、ないから』
ぎゅっと、ヘンゼルの心臓が締め付けられました。
片手は無意識に、腰に差した傘へと添えられます。
そういえば、此処へは彼女の案内で辿り着いたのでした。ヘンゼルの頭の中に、傘の言葉が蘇ります。あの場所で。待っている。もう一度会いたい。宝物。ふわらふわらと頼りない記憶が、青いチーズのように揺れて回って、やがて雨に溶ければそれは、置き去りの真実を示して、ある一言を導き出します。
“私には娘がいたの”。
『ママがね、いいこしてたら、すぐおむかえ、くるって』
「……うん」
応えて、ヘンゼルは歩き始めました。
握り締める傘の柄は、人肌の温かさ。
あぁ。結局はそうなのです。この森は非常識。
だからすべての出来事は、どうしたってある種の法則に帰結するのです。
いつだったか、トコヨワタリの夜、ムゥがぽつりと発した一言。
『チノ、いいこだよ。ちゃあんとまってるよ』
この森に落ちてくる者は、その姿を、目的に相応しい形に変えている。
そしてそれは、必ずしも人間とは限らない。
『でもママ、なかなか、こないの』
うん。そうだったね。
チノちゃんの言葉を噛み締めるように、ヘンゼルは、慎重に歩みを進めます。
散歩に出掛けて、雨が降って。傘を忘れて、大きな樹の下で雨宿り。
此処で待っていてね。すぐ迎えに来るから。
そうして二人は別れたんだ。
けれどその結末を。
僕は、まだ聞いていない。
『ママまだかなぁ』
あと数歩の距離で、ヘンゼルは、少女と向かい合います。
薄い茶色の瞳も。穏やかな口元も。少し垂れた目元も。その左下のホクロも。
どんなにか会いたかった、チノ婆ちゃんと同じ。
あぁ、この子は。
いつかの……ううん。
その日のチノ婆ちゃんなんだ。
『あめあめ、ざあざあ』
篠突く雨に金髪を濡らして、ヘンゼルは少女を見つめました。
しとしと、ぱちゃん。たん、たたん。雨音に記憶が波打ち、小さなチノちゃんの姿が、優しい老婆と重なります。あの雨の日、母親の迎えを待つヘンゼルに、彼女が縫い物の手を止めて語った話は。きっと今日、この日のために。
『ヘンゼルくんは、なにをしてるの?』
不意に訊かれて、ヘンゼルの眉が上がります。
「ぼく? ぼくは……」
答えようとして、視線を落としました。
話したいことが、たくさんありました。
他に言うべきことがあるような気もします。
けれど、そのときヘンゼルの口を突いて出たのは、何故でしょう。
「君に」
あとで思えば、まったく頓珍漢な言葉だったのでした。
「――カサを持ってきたんだ」
ズボンから傘を引き抜き、ゆっくりと開きます。
ぽんと可愛らしい音を立てて、傘はヘンゼルの手を離れました。金属の骨が軋みもせず、するすると服を脱ぐように布地を解いてゆきます。広がった布地は、雨を弾いてひらり優雅に裏返り、柄を中心に、全身を包みました。
青い布地が蕾の形に緩く絞られ、次の瞬間。
花のように咲いたのは、もう傘ではありません。
ひとりの小柄な女性でした。
微かな波紋を足元に描いて、女性は地面へ降り立ちました。
ヘンゼルが想像していたより、ずっと若い女性です。はて、と瞠目して、すぐに合点がいきました。彼女もまた、その日の彼女なのです。ならば若いのは当たり前でした。栗色の髪。薄い茶色の瞳。青いワンピースがよく似合っています。
やっぱり、そっくりなんだな。
場違いな関心に、ヘンゼルは、やはり場違いな苦笑を浮かべました。
『…………ママ?』
ぽかんと開いた少女の口から、微かな声が漏れました。
そうよ。限りなく優しい声が答えます。
『チノ……』
『ママ』
『そうよ。ママよ』
女性は頷き、両腕をいっぱいに広げました。
『遅くなってごめんなさい。迎えに来たわ』
『ママ』
『迎えに、来たのよ』
浅く息を継ぐ唇は、続く言葉を紡げずに、ぐっと引き結ばれて、震えます。
ですがそれは、少女も同じ。
後悔。逡巡。寂しさの果てに、受け入れた運命。幸せも、不幸せも。見つめ合う瞳に、流れた年月のすべてが詰まっていました。数秒にも満たない沈黙は、生涯を振り返るには、あまりにも短かったでしょう。けれどもこの母娘にとって、それは永遠にも似た時間でした。
『ママ――!』
少女の眼が涙を湛えて、くしゃっと歪みます。
それが崩れるよりも早く、鮮やかな青いワンピースが翻りました。
栗色の髪が踊り、女性が地を蹴ったのと同時。
娘もまた、母の胸に飛び込んでゆきました。
『うわあぁママ! ママ! ママあぁ!!』
『チノ! あぁ……ごめんなさい! チノ! 私のチノ!』
そして動き出した時間は、抱擁となって重なるのです。
強く、固く。抱き合った二人は、互いの体温を掴んで、離しません。ごめんね。ママ。ごめんね。それだけ繰り返される言葉は、いくら叫んでも足りない。ずっと伝えたかった、伝えられなかった、愛しているの意味でした。
これで埋まるんだな。
なんとなく、ヘンゼルはそう思いました。
ヘンゼルには、彼女たち母娘の過ごした人生の密度など、知る由もありません。それでも、きっと。募り、焦がれた空白の、此処が終着点なのでしょう。今にして思えば、たぶん頭の片隅で、そんな気がしていたのです。だってヘンゼルは訊きませんでした。いったい彼女とチノ婆ちゃんは、どういう知り合いなのか。
彼女も語りませんでしたしね。
……いいんだ、これで。
緑の眼を細めて、ヘンゼルは母娘を見守ります。すっかり目は慣れたのに、二人の姿は、傍で祝福するには眩しすぎました。だからヘンゼルは、せいぜい腕を組んで少し肩を竦め、とんとんと長靴の爪先で、いたずらに雨のリズムを刻むのです。
彼女達が幸せなら、それでいいじゃないか。うん。
ハッピーエンドってやつさ。
知らずセヴァの口調を真似て、ヘンゼルは独り言ちました。




