あの日の雨はまだ降っている
9.
あの日、私は、娘を連れて家を出た。
二度と帰らないつもりで。
降り続いた雨が嘘みたいに途切れた、真っ青な空だったわね。
良い日だと思ったのよ。
終わりにするには。
町外れの教会。彼処なら、この子を育ててくれるだろう。その算段で、目印の樹までは辿り着いたけれど。どうしたのかしらね。言い出すことができなくて。
この時間が永遠に続けばいいのに。そんなことを考えていたら、ぽつぽつ。雨が降り出したんだったわね。思い出したみたいに。
傘を取ってくるから。なんて、なんであんなこと言っちゃったのかしら。一緒に帰ればいいのに? 訊ねられたら、どう返すつもりだったのかしら。馬鹿よね。
でも、あの子は素直に頷いて。待ってるから。そう笑ったのよ。
私はイヤリングを外して、小さな手に握らせてやった。
形見にしてね。なんて、図々しいことは言えない。あなたは私を忘れていいの。お金に困ったら売ってちょうだい。その程度の気持ちだった。どうせ私には、もう必要ないんだもの。なのに、あの子ったら。ありがとうって言ったのよ。
さよなら。口の中で呟いて。
私は、あの子に背を向けた。
そして全力で走った。
当てなんてないわ。ただ静かで、誰にも邪魔されない場所。私を殺す場所。殺してくれる場所。其処へ行きたかった。無責任よね。娘を残して。ううん、捨てた。私は娘を捨てて、逃げたのよ。こうすれば、あの子は幸せになれる。頑なに、そう自分に言い聞かせて。
だから振り返らないつもりだった。
つもりだったのに。
雨が激しくなる。
曇天で唸る雷が、神様の警告みたいで。私の脚は勝手に止まる。
あの子は濡れていないかしら。おなかを空かせていないかしら。この雨に、雷に怯えていないかしら。ママ、ママ。私を呼んで、泣いていないかしら。
……だって、まだたった五つの娘なのよ?
可愛い可愛い、私の娘なのよ。
あぁ――、
やっぱり、そんなこと、できるわけないじゃない!
私は踵を返して、元来た道を駆け出した。
あの子は待っているのよ。あの子を迎えに行かなきゃ。約束したんだもの。すぐ戻るって。雨が降るなら、私が傘になってあげる。槍が降るなら、私が盾になってあげる。私が守らなきゃ。守るから。
だから、チノ。
どうかまだ、あの樹の下に――お願い。
雨が激しくて。バシャバシャと水が跳ねて。何度、顔を拭ったかしら。
走り続けて、川に架かる橋まで辿り着いたわ。
上流の方を見遣れば、土堤になった道の端。あの樹が小さく霞んでいる。
ホッとしたのも束の間。樹の下で蹲るチノに、誰かが手を差し伸べていた。痩躯の黒衣は、神父様だ。泥に膝を付いて、何か話し掛けている。おいで。そう言って微笑んでいるに違いなかった。
待って!
私は叫んで、思わず手摺りから身を乗り出してしまった。
そのときだったわ。掬い上げられるみたいに、足が滑って……。
視界が真っ逆さまに反転した。
宙に浮く感覚は一瞬だけで。
妙にくぐもった水音を聞いたところで、私の意識は途切れたの。




