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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
あの空を飛べたら
3/71

哀しいねェ

3.






 さて、瓢箪池へ着きました。

 正確には池ではなく湖なのですが、この際それは、どうでもいいことです。名前の由来は極めてシンプル。形が似ているから、それだけです。どだい、誰の所有物でもありません。どう呼ぼうと、文句を言う人などいないのです。

 辺りは湖を中心に円状の広場になっていて、我が家で瓢箪池といえば、そこまで含めての一帯を指します。年を通して収穫可能な果実が実り、魚は常に豊漁、水質はすこぶる良好で、そのまま飲んだっていいくらいです。湖底には、貴重な素材もわんさか眠っています。なんといっても、我が家から近い。そのため此処は、ムゥ達にとって、第二の生活拠点になっているのでした。

 点在する桜はまだ蕾。お花見は、もう少しお預けです。


「おーさかなさーん!」


 ヘンゼルが、湖に向かって叫びました。当然、返事はありません。

 ムゥは辺りを見回しました。露を含んだ茂みに、ヘンゼルが放り出したらしい籠とポポの実が転がっています。拾い上げようと、身体を屈めたときでした。

 ばしゃん!

 音がして、水面から何かが跳ねました。

 魚です。


「いた! いたよ!」

「ほいきた」


 ヘンゼルが声を上げると、袖を捲って待機していたセヴァが間髪入れず引っ掴みます。目にも留まらない速さでした。

 抵抗する魚の尾を抓んで鼻先を近付け、セヴァは、クンクンと匂いを嗅ぎます。吊り上がった金色の眼に睨まれて、魚はピチピチと左右に暴れました。

 別段、なんということもありません。ただの魚です。


「小汚ェ(ふな)だねェ。まァ昼飯にァもってこいだ」

「セヴァさん! かわいそうだよ!」

「へいへい」


 トビウオなわけねェか。言ってセヴァは、無造作に魚を投げました。

 魚は、空中でヒレをばたつかせ、身体を弓形にしならせます。

 そして、そのとき一瞬。

 ほんの一瞬ですが、重力に逆らって、宙に浮いたのです。


「!」

「!」


 速度を緩めて、魚は水面に落ちました。

 ムゥとセヴァは、驚愕の表情を突き合わせました。

 ヘンゼルが大きく万歳し、二人の間に割って入ります。


「ほらねほらね! 言ったでしょ! 飛んだでしょ!」

「……あぁ」


 ムゥの喉から、同意とも感嘆ともつかない、情けない吐息が漏れました。確かに見たのです。ごく僅かな時間ですが、あの魚は間違いなく飛びました。

 正確には、飛ぼうとしている、という状態でしょうか。

 水の中を泳いでは、時折ばしゃんと跳ね上がり、バタバタと懸命にヒレを動かします。少しだけ浮いて、チャポンと湖面に落ちる。どういう了見か、魚は延々そんなことを繰り返しているのです。

 すっかりテンションの上がったヘンゼルは、きゃあきゃあ喚きながら畔を行ったり来たり、魚を追いかけ回していました。

 落ちるなよ、と声を掛けて、ムゥは腕を組みます。

 妙な魚がいるものです。どういった心変わりなのでしょう。


「ありゃァ、森の鮒じゃねェな」


 ずいぶん低い位置から声が聞こえたと思ったら、いつの間にかセヴァは、適当な岩に腰掛けていました。


「アレだよ。トコヨワタリ。昨日新月だったろ」


 懐に手を入れ、取り出したのは愛用の煙管です。咥えて火を点け、大きく吸ってひとつ吐き、セヴァは空を見上げました。


「まァた誰か落っこッたンだ」


 あぁ、とムゥは嘆息します。


落人おちゅうどか」


 ままあることでした。

 彼等は獣だったり、植物だったり、家具や書物だったりします。それぞれ自身を相応しい姿に変え、落とした何かを得るべく森を彷徨うのです。

 基本的に害はありませんが、中には危険な輩もいました。面倒に巻き込まれるのは御免です。極力避けるに越したことはない、がムゥの信条です。

 とはいえ最近では、ヘンゼルが真っ先に興味を示して至極積極的に関わってしまうので、無視を決め込むことも難しいのでした。この魚のように。

 ムゥは、じっと魚を凝視しました。

 ……魚です。

 敵意は感じません。そもそもが、ただの魚です。魚が飛んだところで誰も困りませんし、無害です。ヘンゼルが夢中なのは少し気掛かりですが、よもや取って食われることもないでしょう。ならば、どうでもいいではありませんか。

 まぁいいか。頷いて、セヴァの隣に腰を下ろしました。


「ヘンゼル。観察は構わないが、あまり深入りするのは……」


 言いかけたムゥの唇が、つと歪みました。

 ムゥは眉をしかめ、咄嗟に掌で口元を覆います。

 驚きのためであり、また困惑のためでした。

 だって。

 だって私は、何を考えている?


 ――殺したい。


 あの魚を殺したい。

 強く、そう思ったのです。

 まるで意味がわかりませんでした。ただの魚です。誰が危害を加えられたわけでもありません。好きも嫌いもあるはずがない。それなのに、この感情は何?

 恐怖? 焦燥? 侮辱? 憐憫? 義憤? 或いはそのすべてが。ぐちゃぐちゃに混ざって溢れ出したような。暴力的な嫌悪感が、背筋を這い上ってきます。それは憎悪でした。得体の知れない凄まじい憎悪が腹の中を掻き回し、ドス黒い腫瘍となって、冷たく胸を締め付けるのを確かに、感じるのです。

 どうして……?


「哀しいねェ」


 ぽつり低い呟きに、ムゥは隣のセヴァを見ました。

 セヴァはどこか遠い目で、昇る煙を眺めていました。


「……何が?」


 セヴァは答えません。ただ黙って、長い紫煙を吐くのみでした。






                 †






 かんさつ日記:1日め・つづき  はれ

 今日から、かんさつ日記をつけることにしました。

 お魚のお名前は、トビーくんです。

 たんすいぎょ。ふな科。

 長さ・20センチくらい。重さ・ふめい。色・黒っぽいねずみ色。

 トビーくんは、せびれとおびれをパタパタして、飛ぼうとします。

 びゅーっと早く泳いで、お池の中からシュッと出てきます。

 いきおいをつけているのだと思います。

 セヴァさんが食べないように、気をつけようと思います。







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