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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
紫陽花散歩
29/90

永劫回廊に咲く

8.






 まるで壁です。

 異常に群生した紫陽花が、びっしりと行く手を塞いでいました。

 赤、青、白、紫。鮮やかな色彩が、互いに茎を絡め、葉を重ね、花と花とを押し合って、ほとんど限界の密度で広がっています。横は道幅いっぱい、縦はちょっとした樹の高さまで。敷き詰めたというよりは、押し込んだ。そう形容すべき状態でした。

 紫陽花って、こんな咲き方をするんだっけ?

 なんの前触れもなく出現した光景に、ヘンゼルは、呆然として瞬きました。

 ついさっきまで、こんなものはなかったのに。


『ちょっとヘンゼル君! 怪我してるじゃない!』

「うん、だいじょうぶ……それよりカサさん……これ」


 紫陽花に視線を流すと、傘も驚いたのか、言葉を失っていました。

 ヘンゼルは、恐る恐る歩み寄って紫陽花を掻き分け、中の様子を窺います。

 ようやく子供一人が通れそうな空間が、ぽつんとあるだけです。奥がどうなっているのか、見当も付かないほど深い。それに、この狭さです。侵入してしまえば、戻ることは難しくなるでしょう。

 好奇心旺盛なヘンゼルですが、これはさすがに躊躇いました。


「…………」


 きぃ、と遠くで鳥が鳴きます。

 いよいよ薄暗くなってきました。雨粒を弾いて仄かに浮かび上がる紫陽花は、息を呑むほど幻想的で、圧倒的に美しく、故に怖ろしいのです。抜け穴のような隙間は、なんだか、獲物を待ち構える獣の口を連想させます。

 何処まで続いているのか。何処へ辿り着くのか。考えると、頭がくらくらして、足の裏がもぞもぞしてきました。

 ……どうしよう?


「ねぇ、カサさん」


 情けなく眉を下げて、ヘンゼルは訊ねます。


「この先なの?」

『……えぇ』


 傘が答え、ふわらと青く光りました。


『お願い、ヘンゼル君。私、もう一度会いたいの。私の宝物に!』


 宝物……。

 無意識に、ポケットへ手を入れていました。

 イヤリングが指先に触れます。もう片方のポケットには、セヴァの呼子とムゥの眼鏡。いつか失い、思いがけず戻ってきた、ヘンゼルの宝物でした。この二つは傘のおかげで見付けることができましたが、なくしてしまったものは、それ以外にもたくさんあります。

 川で流された片方だけの靴。蝶を追い掛けて置き去りにしたポーチ。風に浚われた麦藁帽子。赤インクの羽根ペン。虹色のビー玉。あれもこれも全部、ヘンゼルが大好きだった宝物でした。

 あぁ。思えば、六年という短い人生で。

 僕はどれだけ多くのものをなくしてしまったんだろう。

 伏せた瞼に、皺だらけの微笑が浮かびます。


 婆ちゃん。

 ――もう一度、会いたい。


 こんな紫陽花がなんだ。此処まで来て逃げるもんか。

 また失う方が……二度と婆ちゃんに会えない方が、僕は、ずっと怖い。

 ヘンゼルは手の泥を拭い、傘に了解を取って、彼女を畳みました。それを騎士の剣よろしくズボンに通し、抜けないように固定します。そうして、レインコートのフードを内側へ折り込めば、準備は完了。

 あとは勇気を出すだけ。

 深く息を吸い、吐いて、ヘンゼルは拳を握り締めました。

 行くぞ!









 幾重にも層を成した紫陽花は、ヘンゼルの視界から、容赦なく光源を奪います。

 思った以上に暗い。頭を庇いつつ、目一杯に背を屈めて、慎重に進みました。手や脚を掠める花びらが、さわさわと衣擦れに似た音を立てます。笑っているみたいだと、ヘンゼルは肩を竦めました。此処は雨すら届かない。動くものは自分だけ。完全な、紫陽花の世界なのです。

 無秩序に現れる曲がり角を右へ、左へ。

 何度繰り返しても、見えるのは暗い紫陽花の輪郭ばかりです。

 今、どの辺りなんだろう。

 外はどうなってるんだろう。

 何分経った? いや、何十分? それとも、まだ数秒?

 時間の感覚は、すぐに薄れてゆきました。閉じ込められた空気に蒸されて、頭がぼんやりします。布でも被せられている感覚でした。

 そういえば、前に先生が読んでくれた絵本に、こんな話があったっけ。

 海賊の残した財宝を探しに海へ出た少年が、船から落ちて鯨に飲まれて……。

 どきん。心臓が跳ね上がります。

 周りの紫陽花が、一斉に此方を向いたような気がしました。

 あるはずのない視線に怯えて、ヘンゼルの身体が強ばります。違う。あれは嘘のお話だ。先生が言ってたじゃないか。作り話だって。だから大丈夫。怖くない。お話だもん。でも、あの少年は、それからどうなったんだっけ? 無事に家へ帰れただろうか? 思い出せない。


 ざわざわ、かさかさ、さらさら、くすくす。


 紫陽花たちが笑います。

 彼等は意思を持って動き出し、自分を捕らえようとしているのではないか。

 紛れ込んだ異物として、攻撃の対象と認識されてはいないか。

 或いは珍しい玩具と喜ばれ、弄ばれ、食べられてしまうのではないか。

 そう、今にも!

 根拠のない空想だと、理解はしています。そんなものは、不安が生む幻影です。けれど此処は、非常識の森なのでした。それが現実にならない保証が、何処にあるでしょう。


「か、カサさん……」


 堪らなくなって、ヘンゼルは呼び掛けました。

 返事はありません。そうです。傘は閉じていました。

 早く。早く行かなきゃ。

 ヘンゼルは焦りました。焦っても、紫陽花に挟まれた身体は、無茶な体勢です。どう足掻いても、全力疾走というわけにはいきません。ままならない状況が、恐怖と焦燥に、いっそう拍車を掛けます。足元はもつれ、呼吸は上がり、唇がわなわなと震え始めました。押し潰されそうな圧迫感。

 暑い。暗い。熱い。苦しい。

 怖いよ。

 ……本当に、出口なんてあるんだろうか?

 後ろから、誰か悪者が追ってきてはいないか?

 歩いても歩いても。紫陽花が増殖し続けているのではないか?

 ずっと同じ場所を廻ってはいないか?

 あぁ、僕は。


 ――永遠に抜け出すことができないのではないか?

 この堂々巡りから。


「!」


 そのときでした。

 前方に、ぽっと小さな光が灯ったのです。

 ともすれば見過ごしてしまいそうな小さな光です。が、それは紛れもなく希望の光でした。もしかして、あれは。棒になった脚が、速度を取り戻します。ヘンゼルが進むにつれ、その光は明度を上げ、期待に応えるように面積を広げて、だんだん大きくなってゆきました。

 あとはもう無我夢中。

 光へ向かって、ヘンゼルは突き進みました。







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