遠雷
7.
残ったのは、雨の音だけでした。
現実に引き戻された視界に、青く輝く宝石が一粒。
ポケットから片割れを取り出し、片方ずつ抓んで、眼前に晒します。同じものに間違いありません。サファイヤのイヤリングです。
――そろった。
今の光景は、なんだったんだろう。
僕は立ったまま夢を見たんだろうか。
イヤリングをまとめてポケットにしまい、淡い期待を込めて、巣穴を覗きます。けれどそれは、もはや何の変哲もない鳥の巣でした。薄暗く穿たれた木目に、湿った草が丸く敷き詰められているだけです。
なんとなく、そんな気はしていました。
でも耳に染み入る雨の音が、無性に寂しい。
ばあちゃん……。
『ヘンゼル君』
呼ばれて、ヘンゼルはハッと我に返りました。
そういえば、足元に傘を立て掛けていたのです。すっかり忘れていました。穴を覗くのに夢中で聞えなかっただけで、もしかしたら、何度も話し掛けられていたのかもしれません。
「ごめんカサさん! でも聞いて、ヘンなんだよ! この穴」
『私を差してくれない?』
「え?」
『イヤリング。そろったでしょう。だから私を差して』
語ろうとしたところを遮られ、ヘンゼルは口を噤みます。
待たせたために機嫌を損ねてしまったのかとも思いましたが、どうも傘の様子がおかしい。何故唐突に、差してくれなどと言い出したのでしょう。
「ど……どうしたの?」
『ごめんなさい。でも私、そのイヤリング……私……私……』
傘の口調は、今ひとつ判然としませんでした。自分でも何を言っているのか、何を思い出そうとしているのか、わからないようです。それでいて、そこへ向かおうとする意志は固く、覚束ない声音には、ある種の確信が満ちていました。
『ねぇ、お願い。私、探さなきゃ。彼女を』
降りしきる雨の中、傘の声が、切実に響きます。
「……わかった」
断る理由もありません。傘の真剣な願いに、ヘンゼルは頷きました。
どのみち、自分から頼もうと思っていたことでした。
ヘンゼルだって知りたいのです。
このイヤリングの持ち主――チノ婆ちゃんの居場所を。
そろった一組のイヤリングを握り締め、ヘンゼルは傘を高く掲げました。
傘が点滅を始めます。
ふわり、ゆらり。青い灯火が端から順番に移り変わる……はずでした。
違うのです。一欠片のチーズが色付いたかと思えば、それは消えずに隣が。その隣もまた。青いチーズは増えてゆき、とうとう八つが繋がって、ひとつの円になりました。
あれ? 傘を見上げたヘンゼルは、目の前に広がった光景に、言葉を失います。
仄青い傘の布地いっぱいに、紫陽花が咲いていました。
本当に咲いているわけではありません。これは映像です。いつか夢幻灯籠で見た青い人々。たぶん、それと同じ。実際は此処にはないのに、あるように見えているのです。だってその紫陽花は、くるくる回って真ん中に集まり、次第に形を変えてゆくのですから。
やがて、それは一本の樹になりました。大きな樹です。
ヘンゼルは眼を凝らしました。
樹の下に、誰かいます。
淡く青色に揺らめいて膨張を繰り返す輪郭は、ひどく頼りない印象でした。
顔立ちも体型も、よくわかりません。
ねぇ、誰? ヘンゼルは問い掛けます。人影は答えない。
婆ちゃん? 婆ちゃんなの?
ぽつぽつと雨に打たれる波紋で、映像は、少しずつ薄れてゆきます。
あぁ、消える――、
そのとき、傘が大きく震えました。
『あぁなんてこと!』
柄を握る手に、びりりと刺激が走ります。
『……あぁ……私……!』
喘ぐように息を継ぎ、傘は叫びました。
なんて悲痛な、重苦しい声。傘を握っていなければ、ヘンゼルはきっと両手で耳を塞いでいたことでしょう。もし彼女が人の姿をしていたならば、この場で泥に膝を着き、倒れ伏して泣き崩れたに違いありません。
『私、探していたのよ! ずっと! ずっと!』
言うなり、傘が熱を持ち、ヘンゼルの掌を解いて飛び出しました。
けれど、彼女は傘です。自分で述べていたように、あまり自由には動けないのです。少しだけ浮かんで、ぺちゃん。地面に落ちました。微かな水滴が、ヘンゼルの頬を濡らします。
いったい、どうすればいいのか。
困惑しつつも、ヘンゼルは、傘を助け起こそうとしました。
「ねぇ、どうしたの? だいじょうぶ? カサさん?」
『東よ』
半端に屈んだ姿勢のまま、伸ばした腕が、固まりました。
『東に向かって。そこにいるの。お願い!』
何処かで雷鳴が轟きます。
東に。いる。誰が?
決まっています。思わずヘンゼルは、乱暴に傘を引っ掴みました。
「ばあちゃんがいるの!? わかったの!?」
『ええ。彼女は東に――あの場所にいるわ』
ヘンゼルの背中に、切ない痺れが走りました。
ざわり首筋が疼いて、足の裏がむずむずします。樹々を、地面を、ヘンゼルを、傘を打つ雨音が、どこか他人事のように漂っていました。傘を握る手に、ぎりりと力を込めて。ヘンゼルは、東を見据えました。
低い樹に囲まれた道が、細く長く続いています。雨雲に隠れた太陽は、それでも徐々に傾いているのでしょう。森は灰色を増して、泥濘の匂いには、いくらか闇が混ざり始めていました。
――婆ちゃん!
『行きましょう、さぁ』
傘の囁きより、僅かに早かったかもしれません。
ヘンゼルは、東を目指して駆け出していました。
†
はぁはぁと、湯気のような息を弾ませ、ヘンゼルは走ります。
髪を湿らせる汗が、額を伝い、顎を滴って、襟元に滲みました。背中に貼り付くシャツの、鬱陶しいことといったらありません。蒸れるレインコートの中、茹だりそうな熱に包まれて、そのくせ喉の奥ばかりが、ひどく冷たい。
雨が強まっていました。傘を差した恰好では、どうしても前屈みになってしまいます。前がよく見えません。何度も滑って、新しい長靴はもう泥だらけです。それでもヘンゼルは、走ることをやめられませんでした。
会いたいよ。会いたい婆ちゃん。早く会いたい。
どうしよう。話したいことが、たくさん、あるよ。
僕のこと、捜しに来てくれたの?
頭、撫でてくれるよね? 坊は良い子だって、笑ってくれるよね?
ぎゅって抱き締めてくれるよね?
早く早く。
チノ婆ちゃんに会いたい!
道はいっそう狭まり、今や大人が二人並べるかどうかの幅です。
左右には背の高い樹が生い茂り、ヘンゼルの頭上で細い枝を雨に揺らし、ただでさえ悪い視界を遮るのでした。
『ねぇヘンゼル君』
傘が、ぽつりと呟きます。
『私、他にも思い出したことがあるの』
虚ろな声には、拭い去れない憂鬱が含まれていました。
ヘンゼルは知っていました。ムゥとセヴァが自分に隠れて大人の話をするとき、こんな喋り方をします。あまり良くない話題です。なので、続きを促すことはしませんでした。
『昔……ずっとずっと昔のことよ。私には、娘がいたの』
うん、と短く返事をします。
『娘が生まれてすぐ、夫は余所に女を作って逃げた。金目の物を全部持ち出して。うちに残ったのは、彼が作った借金だけよ。家計は火の車で、私達は貧しかった。働いても働いても、焼け石に水なの。私、娘だけは飢えさせまいと必死に頑張ったわ。だけど……』
うん。それだけ応えます。聞き慣れない単語もありましたが、たぶん、知らない方が幸せです。だから訊きません。ヘンゼルは聡いのです。
『とうとう、その日のパンもなくなった』
うん。言いながら、そうなったら何を食べたらいいんだろう、と思いました。
『それで私……あの教会なら、娘を育ててくれるかもしれないと思って』
うん。隣町の教会には、身寄りのない子供が何人かいたっけ。
『あの日、私は……』
不意に、ヘンゼルの身体が、ずるっと傾きました。
「うわっ!」
泥濘に足を取られたのです。
片手が塞がっている上に考え事をしていたため、踏ん張りが利きません。
案の定、ものの見事に滑ってバランスを崩し、勢い良く転んでしまいました。
『ヘンゼル君! 大丈夫!?』
我に返ったらしい傘が、心配げな声を上げます。
「いったぁい……」
どうにか上体を起こしたものの、即答できませんでした。
顔面強打こそ免れましたが、咄嗟で突いた両手は泥まみれ。じんと膝が滲みて、擦り剥いたのだと知れます。やや遅れて、衝撃と痛みがやってきました。目頭が熱を持ち、つんと鼻の奥が潤みます。
やっちゃった。
ぐずっと洟を啜り、ヘンゼルは口をへの字に曲げます。こんなとき、いつもならムゥが飛んできて、あれこれと世話を焼いてくれるのですが……。
すっと胸の中に雨粒が染み込んだ気がして、ヘンゼルは頭を振りました。ここで泣いてしまったら、もう立ち上がれないかもしれない。そう思ったのです。
涙が零れないように、痩せ我慢で顔を上げました。
「えっ!?」
喉まで出ていた嗚咽を押し退け、驚愕の声が、ヘンゼルから飛び出しました。
――紫陽花です。
途方もない数の紫陽花が、視界を埋め尽くして、咲き乱れていたのでした。




