なにもかもが青かった
6.
テーブルがありました。
椅子がありました。柱時計が、ソファが、チェストがありました。棚に飾られた紫陽花は、白と青。雨の音と、甘い匂いがありました。もう過去になってしまったはずの時間が。そこには、懐かしい“あの日”がありました。
憶えています。この部屋。
黄色にくたびれた壁紙。テーブルクロスの刺繍は、ベッドカバーとおそろいの花模様。アップルパイの香り。なにより中央のテーブルで縫い物をしている老婆を。僕は大好きだったじゃないか。
――チノ婆ちゃんの家だ。
変です。ヘンゼルは、アナガラスの巣を覗いているはずなのです。
いったいどうしたことでしょう。こんな穴の中に部屋が丸ごと、しかも故郷の、過去の情景が収まっているなんて。いくらなんでも有り得ません。六歳のヘンゼルにだって、説明不要の虚実でした。これは夢でしょうか。幻でしょうか。いずれにせよ、とんでもなく非常識な状況です。
でも……。
ヘンゼルは緑の眼をいっぱいに見開き、唇を引き結びました。
でも、それなら僕は、ヒジョウシキでいい。
「退屈かい、坊?」
チノ婆ちゃんが口を開きます。
少し掠れた優しい声は、記憶にある彼女のそのものでした。思わず返答しようと迫り上がった言葉を、ヘンゼルはぐっと呑み込みます。だってこれは非常識な時間なのです。ここで声を出したら、その微かな吐息にすら吹き飛ばされて、すべてが消えて、なくなってしまいそうな気がして。
その代わり、空間が焦点を引きました。
「おそと、いきたいな」
明らかになった全体像の端、左側の窓辺に、小さな背中が佇んでいます。
それを見た途端、ヘンゼルは再びハッと息を呑みました。
緑の眼が四つ、同じタイミングで瞬きます。
「そうだろうねぇ。でも、今日はおよし。濡れたら風邪を引いてしまうよ」
「ばあちゃんは、ずっとチクチク、たのしいの?」
「ああ、楽しいねぇ。坊と一緒だからねぇ」
くるくると跳ねた金髪に、黄色い声。あぁ、彼のことなら、誰よりもよく知っています。背中なんか見たのは初めてだったし、今よりずっと幼いけれど。
えぇ、よく知っていますとも。母親が仕事で忙しいとき、彼は大抵、この部屋で過ごしたのです。豪勢な歓迎も、賑やかな音楽もありませんでした。此処で得られるのは、老婆の昔話と、手作りのお菓子。それにちょっとした生活の豆知識など。一緒に居るというだけの、他愛のない時間でした。
けれど、他に何が必要だったというのか。あの頃の彼には、それが己の知る世界の限界で、充分だったのです。
あの日……この日もそうだった。
確か、ママが街へ買い出しに行ってしまって。降り続く雨にうんざりした僕は、婆ちゃんにねだったんだっけ。
「ばあちゃん! なにか、おはなししてよ!」
ぱたぱたと駆け寄ってきた幼児に袖を引かれ、チノ婆ちゃんは、あらと短い声を立てました。坊、針が危ないよ。そうは言うものの、皺だらけの顔は穏やかに綻んで、茶色の双眸に、憤りの色は微塵もありません。
「ねぇねぇ、おはなし! おはなしききたいな!」
「お話かい。あぁいいとも」
チノ婆ちゃんは、眩しげに傍らの幼児を見つめて、縫いかけのケープをテーブルの上に置きました。
「どんなお話がいいかねぇ。坊は、何か聞きたい話はあるかい?」
「んっとね、えっとね、ぼくのね、しらないおはなし!」
そうさねぇ。チノ婆ちゃんは僅かに小首を傾げ、視線を斜め上に流しました。
幼児を膝に招く間にも、たんたんと雨が窓を打ちます。
やがてチノ婆ちゃんは、おもむろに頷いて老眼鏡を外しました。
「じゃあ、こんな雨の日のお話を」
むかーし昔。婆ちゃんは、小さな子供だった。
どれくらい? そうだねぇ。もう七十年は前になるねぇ。婆ちゃんは、五つ六つの女の子だった。うふふふ、婆ちゃんだってね。最初から婆ちゃんだったわけじゃないんだよ。
あれは、春の終わり頃だった。蒸し暑いくらいの昼下がりだったねぇ。
婆ちゃんは、ママとお散歩に出掛けた。
うん? 違う違う。婆ちゃんのママさ。婆ちゃんにもママがいるんだよ。そう。坊のママにだって、そのママのママにだってね。誰にでもみんな、産んでくれた人がいるのさ。坊も、たまには感謝おしよ。
その、婆ちゃんのママとね。婆ちゃんは、手を繋いで、てくてく歩いたよ。
……そう。歩いただけだよ。お散歩だものね。
つまんないって? そんなことはないさね。
婆ちゃんは嬉しかったねぇ。楽しかったねぇ。なんたって、大好きなママと一緒なんだからね。それに、お洋服はいちばんのお気に入り。真っ白なブラウスと、紺のスカート。青い靴を履いてさ。そりゃあもう、ウキウキの上機嫌さ。いつもよりお喋りだったから、あれはきっと、ママも楽しかったんだろうよ。
隣町の真ん中には、川が流れてるだろう。坊は知ってるかい。あそこの橋を渡って少し北へ行ったらね、大きな大きな樹があるんだよ。そうそう、教会の前さね。婆ちゃんとママが、その近くまで来たときだ。
泣き出しそうだった空模様が、とうとう崩れて、雨が降ってきたんだよ。
婆ちゃん達は、樹の下で雨宿りを始めたんだけどねぇ。雨は強くなるばかり。
どのくらい、そうしてただろうね。
婆ちゃんのママが、傘を取ってくるって言い出した。
あぁ……そうだねぇ。変だねぇ。二人で、お家に帰れば良いんだから。坊は賢いんだねぇ。そのときの婆ちゃんは、そんなことちっとも思い付かなかったよ。ママも、思い付かなかったんだろうねぇ。たぶん、二人とも、まだお散歩を続けていたかったんだ。ずっと続けていたかったんだよ。
ちょっとだけ、此処で待っていてね。すぐに迎えに来るから。
ママは、そう言って婆ちゃんを抱き締めた。
婆ちゃんは頷いたよ。お留守番なら、何度もやったことがあるもの。同じようなことだと思ったのさ。そりゃあ、ひとりは寂しいけれども。お利口さんにしてればいいだけだから、そんなに難しい話じゃあない。
そしたら、ママは、婆ちゃんの頭を撫でて。
自分のイヤリングを外して、そっと婆ちゃんの手に握らせてくれたんだ。
良い子だから、御褒美をあげるのよ。ってねぇ。
それはママの宝物だった。青い――サファイヤっていうのさ――宝石がキラキラ揺れる、綺麗な綺麗なイヤリング。貧乏な婆ちゃんのお家で、これだけが、本当に本物の財産だった。あぁ、財産ていうのはね。お金に換えられるものってことさ。宝石とか、畑とか、お屋敷とか、売ればお金になるだろう?
そのイヤリングだって、売ればちょっとした金額になったんだろうけれど。
どんなに困っても、ママは絶対に手放したりしなかった。
なのにね……それをねぇ。そのとき、くれたんだよ。婆ちゃんにね。
……あぁそうとも。優しいママさ。
ほら、綺麗だろう?
これが、そのイヤリングなんだよ。
「……おしまい?」
幼児は、きょとんとした顔で首を傾げます。
「ママは、いつもどってきたの? ばあちゃんは、それからどうしたの?」
「婆ちゃんは神父様に拾われて、教会で育ったよ。大人になって、お仕事に就いて……そのまま街で生きていく覚悟を決めていたはずなんだけどねぇ……どうしてだろうね。ふと静かな場所で暮らしたくなったんだ。それで此処にいるんだよ」
「ママは?」
「きっと、まだ傘が見付からないのさ」
「………」
あのときも今も。どうしてチノ婆ちゃんがこんな話をしたのか、ヘンゼルには、わかりませんでした。それまでに聞いた童話や昔話とは、明らかに違います。正直なところ、面白いのかどうかも、判断できません。
けれど窓の外、降りしきる雨へと眼を細める老婆の姿が、なんだかとても小さく見えて。沸き上がる得体の知れない寂しさに、聡明な幼児は、追求を忘れて呟くのです。
「ぼくのママは、ぼくのこと、むかえにきてくれるよね?」
「もちろんだとも」
チノ婆ちゃんは、大袈裟なくらい何度も頷いて、幼児の頭を撫でました。
「坊のママは、夕方になったら、ちゃあんとお迎えに来るよ」
だから良い子にしておいで。
少し掠れた優しい声に、元気の良い返事が続いた、そのとき。
ヘンゼルの瞳から、ぽとり涙が零れ落ちました。
反射的に眼を擦ります。
あ、いけない。
しまったと思ったときには、遅かったのです。たちまち老婆と幼児の姿は霞み、テーブルも、椅子も、花瓶も、縫いかけのケープも、アップルパイの香りも。夢から醒めるように、ふわり輪郭をなくして、消えてゆきます。
慌てて瞬きを繰り返しても、懐かしい情景は、もう何処にもありませんでした。




