僕は非常識でいい
5.
一時間も歩いたでしょうか。
『此処ねぇ』
道が開けて、目の前に草原が広がったとき、傘が言いました。
ヘンゼルは辺りを見渡します。短い草の間に、低い樹が点々と生えている、妙な場所でした。樹の名前すら知りません。当然、ムゥやセヴァと訪れた憶えもありません。まったく初めて来るところです。
「……なんにもないよ?」
『せっかちねぇ~まだ探してないじゃない』
傘は、チッチと舌を鳴らしました。会ったときから不思議なのですが、いったい彼女は、口もないのにどうやって喋っているのでしょうか。ムゥが言うには、こういうところが森の“ヒジョウシキ”なのだそうですが。
そうねぇ。傘は一呼吸置いて、続けました。
『穴の空いてる樹はない?』
「あ」
なるほど。
一本、二本、ヘンゼルは樹の幹を確認して回ります。
五本目で、ぽっかり空いた大きな穴を見付けました。
どうやら天然の洞ではなく、バランスの良い楕円形をしていました。大人が掌を広げたくらいの面積があり、人工的というのも変ですが、何者かが故意に設けた穴に間違いなさそうです。
覗きたくても、目線が届きません。
ヘンゼルは少し躊躇いました。毒蛇や、気の立った獣が居たらどうしましょう。以前、不用意に鳥の巣穴に手を突っ込んで、思い切り突かれた経験があるのです。
「ねぇカサさん、何かいる?」
ヘンゼルは、差した傘に訊ねました。彼女の高さなら見えるはずです。
『う~ん……暗くてわかんないわねぇ』
彼女の答えは、頼りないものでした。
ちょっと怖いけれど、仕方ない。いつだったか、セヴァも言ってたではありませんか。バケツに入らんずばドジを得ず(違ったでしょうか?)。どのみち、目の前にある興味の対象物を諦めるなどという選択肢は、初めからないのです。
ヘンゼルは意を決して、樹の穴に手を入れました。
穴の中は意外に広く、ゆとりがありました。こんもりと敷かれた草が、雨のせいで湿気っています。棚の上を探るような感覚で、それを掻き分けてゆきました。
すると、こつん。指先に固い物が当たります。
細長い部分があったので、そこを抓んで、引っ張り出しました。
「……やったぁ!」
ぱっと顔を輝かせ、ヘンゼルは歓声を上げます。
出てきたのは案の定。ムゥの眼鏡でした。
「あったあった! これだ! よかったぁ!」
興奮しながら、状態を確かめます。酷い傷もなく、レンズも無事。蔓が変に捻れてしまっていますが、これくらいならムゥは簡単に直すでしょう。
でも、不思議です。どうしてこんなところに……?
『鳥か何かが運んできたのかしら?』
「! そっか!」
傘の呟きを聞いて、ヘンゼルは、ぱんと手を打ちました。
まさに正解だったのです。
「これ、アナガラスの巣なんだ!」
厳密にはカラスではなく、鳴き声が似ているため、そう呼ばれる鳥です。
光り物を集める習性を持ち、前に何度か宝石を咥えているのを見たことがありました。おそらくこの眼鏡も、彼等が此処へ運び込んだのでしょう。引っ越しの荷物は少ない方が良いですからね。子育てが終わって空になった巣に、これが残されていたというわけ。
見付からないはずです。ヘンゼルは納得し、頷きました。
婆ちゃんのイヤリングがなかったのは、寂しいけれど。
「ごめんね。返してもらうからね」
ヘンゼルは、眼鏡をポケットに収めました。
家に帰ったら、すぐ先生に渡して、もう一度謝ろう。
「ありがとう、カサさん! 先生よろこぶよ!」
『ど~いたしまして。うふふふ』
次は? 傘は訊ねます。
けれどヘンゼルは、返事をしません。落ち着かない様子でキョロキョロと視線を巡らせ、足踏みなどしています。
『どうしたのよ?』
「ねぇねぇ、ちょっと待っててくれる?」
『なぁに? おしっこ?』
「ちがうよ!」
というのも、偶然発見したアナガラスの巣に、興味津々なのです。
他にも巣があるかもしれません。宝石か、珍しい素材でも見付けて持ち帰れば、更にムゥを驚かせることができます。さぞ褒めてくれるでしょう。いいえ、そんなものより、もっと素敵なもの。たとえば新種の昆虫とか、宝の地図とか、伝説の剣なんかがが眠っているかも。いえいえ、もしかして妖精が飛び出して……。
考えると、もういけません。そわそわ、わくわく。想像力と好奇心が膨らんで、じっとしていられません。
「ちょっとだけ! ちょっとだけさがすの!」
ヘンゼルは渾身の媚び顔で、すりすりと傘の骨を擦りました。何故だか大人は、この顔芸に弱いのです。今朝もムゥを落としたばかりです。
果たして、傘はあっさり籠絡されました。
『……じゃあ、ちょっとだけよ~』
「うんうん! ありがとう!」
ヘンゼルは、残りの樹を調べ始めました。
眼鏡を見付けた五本目の樹から、左に移動しつつ穴を探します。
六本目。なし。
七本目。あるにはありましたが、高すぎて手が届きません。
八本目はどうでしょう。残念、ハズレです。
次、九本目。
「あ!」
後ろ側へ回った幹に、さっきと同じような穴が空いていました。
ちょうどヘンゼルの目の高さです。
これなら届くぞ!
「あったよ! 中も見られそう!」
『あら~気を付けてね』
「うんだいじょーぶ!」
爪先立ちになり、穴の縁に手を掛けて、ヘンゼルは身体を持ち上げました。
期待に逸る眼を輝かせ、中を覗き込みます。
穴の中では、老婆が縫い物をしていました。




