素敵なご褒美
3.
北へ三十分ほど行き、やってきたのは、セヴァの水田でした。
田植えは済ませてあり、雨の波紋の浮く水面に、青々とした苗が元気良く育っています。鼻を突く独特の泥臭さは、その胎内に数多の生物を湛えた証。何処に隠れているのか、何百何千という蛙の鳴き声が、ぎゅうぎゅうにひしめき合って、全身で生命の残り時間を歌っていました。
ムゥとヘンゼルの主食はパンですが、同じ穀類でも、セヴァは米を好みます。
それで彼は、此処でちょっとした稲作を行っていました。普段、家事や農作業の一切をムゥに押し付……信任しているセヴァが、この時期ばかりは張り切って田に入り、秋の収穫まで、せっせと稲の世話に勤しむのです。
もっとも、人手の掛かる田植えや収穫には当然、ムゥも駆り出されるのですが。
『で、何をなくしたのかしら?』
「ちっちゃい笛。セヴァさんがくれたんだ」
『セヴァさんて、だあれ?』
「いっつもいっしょに遊んでくれるよ。オトナだよ」
『あ、じゃあ大きいお友達なのね』
「うん、すごくおっきい。百九十四センチあるの」
『でかっ!』
……あれは、小さな銀の呼子でした。
いつだったか、セヴァが吹いているのを見て、いっぺんで気に入ってしまいました。月の光を千年浴びたという、眩いばかりの銀色で、その音色ときたら、星屑が囁くような美しさ。大層高価な逸品でしょうに、ヘンゼルが欲しがると、セヴァは至極あっさりとこれをくれたのです。
以来、いつも首から提げて持ち歩いていた宝物だったのですが……。
つい先日のことです。
ムゥとセヴァは、この水田で、田植えに精を出していました。
付いては来たものの、こういうときヘンゼルは、基本的に戦力外です。大人達もよろしく心得ていて、脇の畦道で遊ぶのを咎めようとはしませんでした。
ところが、オタマジャクシを追い掛けて走っている最中でした。例によって前方不注意が祟り、全速力で重ねた苗箱に蹴躓いてしまったのです。
バランスを崩した身体は、水田の方へ傾いで、制御不能となりました。
しまった、どうしよう。
脚が宙に浮いた瞬間、脳裏を過ぎったのは、セヴァの珍しく真剣な面持ちです。
いいかい。泥に落ちるときァ、手か足から行けよ。
頭ァ駄目だ。首がポキッと折れッちまう。
そォなったら御陀仏だ。死んじまったら、いくら俺様でも治せねェ。
だから、死にたくなきゃァ、気ィ付けな? 絶ッッッ対だぜ。
いいな?
日頃、健全な青少年の育成などには潔く無関心なセヴァですが、これだけは念を押されていました。加えて、ムゥにも諄いほどの注意を受けています。ヘンゼルの深層心理には「頭から泥=死」という図式が刷り込まれていました。
ほとんど無意識のうちに、ヘンゼルは脚を踏ん張って、背を逸らせました。却って不自然な体勢になってしまいましたが、そんなことは気にしていられません。頭だけは、是が非でも守らなくてはならないのです。死にたくない!
すると、ずぼっ。
勢い余って両脚まとめて泥の中へ没し、見事に腰まで突っ込んで、何をどうしても抜けなくなってしまったのでした。
気付いたムゥが慌てて助けようとするも、こちらも酷く焦っていたため、太腿の辺りまで沈没して身動きが取れなくなり、典型的な二次災害へと発展。
パニック状態で泣き喚くヘンゼル。
ヘンゼルを呼びながら藻掻くムゥ。
爆笑するセヴァ。
のどかだった水田は一転、大騒ぎです。
結局、セヴァが二人を引っこ抜いて事なきを得ましたが、哀れなムゥとヘンゼルは、仲良くズボンを諦める羽目になりました。フル○ン師弟コンビだ、と更に笑い転げるセヴァがタコ殴りに遭ったのは、言うまでもありません。
あのときなくしたのでしょう。
家に帰って風呂に入ろうとしたら、銀の呼子は消えていました。
不思議なものです。
この場所に立った途端、昨日のことのように記憶が蘇ります。
沸き上がる後悔、寂しさ、喪失感。激しい自己嫌悪に苛まれ、未練に枕を濡らしたあの夜を、いつの間に忘れてしまったのでしょう。思い出すほどに、しみじみ胸が痛みました。
どうして、もっと大切にしてやらなかったんだろう。
『ほら、あそこよ。あの板のところ』
ヘンゼルの感傷を察してか、傘は、慰めるような口調で囁きました。
板、というと……。
「あっ」
ヘンゼルは、水取口へと走りました。
これは引水のための水路です。幅は約五十センチ四方、一カ所が水田側にコの字型に窪んでおり、境目には板が填め込まれています。いつもは小川のように穏やかな流れの水が、今は雨で濁って、強い泥の匂いがしました。
膝を突き、転げ落ちないよう気を付けて、そっと中を覗き込みます。
歪んだ波紋の底で、何かがきらりと光りました。
「……あっ、うそっ!?」
袖を捲って手を突っ込み、掴み上げます。
サヤエンドウに似た愛らしい形が、水面から姿を現しました。泥を裂いて輝くのは、世にも神秘的な銀色です。冷たく小さな手応えが、けれどこんなにも確実で、懐かしい。この形。この色。
それは紛れもなく、なくしたはずの、あの銀の呼子だったのでした。
「あったぁーーー!」
万歳した拍子に、またもやヘンゼルは傘を放り出していました。
ちょっと痛いじゃない! と転がってゆく抗議も、耳に入りません。
感激に潤んだ瞳には、掌に収まった宝物が、銀色に滲んでいるのみでした。
あの日、一度はなくした感触が、質量が、色彩が、愛着が、セヴァから譲り受けた瞬間の喜びが。幸せな熱となって頬を紅潮させ、息を弾ませます。あぁ、此処にある。僕の手の中に。そう思うと、どうしようもなく愛しくて、胸がいっぱいで、苦しいくらいです。
こんなところにあったなんて。
よく流されずに留まっていてくれました。
逸る気持ちで水の中を何度か潜らせ、咥えて、ゆっくり吹きます。
ややあって、詰まっていた泥がぴゅっと飛び出し、続いて透き通った音色が細く零れて、雨音に重なりました。
「………」
あぁ。二度と再び、この音を聞く日は来ないと諦めていたのに。
ヘンゼルは、銀の呼子を両手で祈りの形に握り締め、今度こそ決してなくさないよう、レインコートのポケットにしまって、ボタンを留めました。
ごめんね。もうなくさないよ。
おかえり、僕の宝物!
「ありがとうカサさ……あれ?」
『こっちよ~』
恨めしげな声に振り向くと、果たせるかな傘は、ヘンゼルの遙か後方で、田圃の泥に半分埋まって憤っていました。
『もう……落ち着きのない子ねぇ』
「ご、ごめんなさい! また投げちゃった!」
慌てて駆け寄り、傘を救出します。
「ごめんね。でもありがとう! 笛、もどってきたよ!」
『うふふふ。どう? なくしものが見付かるって、嬉しいでしょう?』
「うん! すっごくうれしい! ありがとうカサさん!」
『どーいたしまして~』
謝意を示すと、傘はけろりと機嫌を直し、満足げに震えました。
ヘンゼルは、感激一入です。人間は、なくしものが返ってくるだけで、こんなにも幸せになれるのか。ひとつ賢くなりました。傘の言ったとおり、これは本当に、素晴らしいご褒美だったのです。
『次はどうするの?』
思い掛けない言葉に、ヘンゼルは瞬きして訊き返しました。
「え? ひとつだけ……じゃないの?」
『あら~そんなケチなこと言ってないわぁ~。別にいいのよ、いくつでも。幸せは多い方がいいに決まってるもの、うふふふ』
……おかわり?
おかわりってことか!
「やったあー! ありがとーう!」
理解するや否や、ヘンゼルの興奮は最高潮に達しました。こういうものは大概、たったひとつの貴重な権利と相場が決まっているのに。ずいぶん太っ腹な傘です。でも嬉しい!
四度目に投げ出すところだったのを、さすがに学習してしっかり抱き締め、片手で万歳三唱。ヘンゼルは、即座に次の候補を固めたのでした。
「えっとね、じゃあね、じゃあ、ぼく」
『あ、ちょっと待って』
「ぼく……ん? なあに?」
『あそこ。まだ、何かあるわよ?』
「え?」
『さっきの場所よ。今、キラッて光ったわ』
言われて身体を捩れば、視線の先にあるのは、件の水取口です。
呼子は回収しました。訝しみながら、ポケットに手を入れます。あります。他に此処でなくした物など、ないはずでした。
とはいえ、そう言われると気になります。
ヘンゼルは、水取口のところまで戻って、水面を凝視しました。
『どう?』
「うーん、よくわかんない」
眼を皿にして、身を乗り出します。鼻先に掛かる飛沫は、泥の匂い。水流は結構な速さです。延々見ていると、なんだか頭がぐるぐるしてきました。
さっきの呼子だって、流されずに引っ掛かっていたのが奇跡でした。これ以上、何かあるとも思えないのですが……。
「あれ?」
見間違いかと立ち上がりかけた、そのときです。
視線の端が、水の中で揺れる小さな青い輝きを捉えました。
「あったよ!」
『ちょっと、気を付けてね!』
興味を惹かれたヘンゼルは、意気込んで水中へと手を伸ばします。捲り上げた袖ギリギリの深さでしたが、彷徨わせた指先が、何か硬い粒を探り当てました。
確保して、目の高さまで引き揚げてやります。
涙型の青い石に、細いフックが付いた華奢な細工。
――サファイヤの、イヤリングでした。




