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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
紫陽花散歩
24/92

素敵なご褒美

3.






 北へ三十分ほど行き、やってきたのは、セヴァの水田でした。

 田植えは済ませてあり、雨の波紋の浮く水面に、青々とした苗が元気良く育っています。鼻を突く独特の泥臭さは、その胎内に数多の生物を湛えた証。何処に隠れているのか、何百何千という蛙の鳴き声が、ぎゅうぎゅうにひしめき合って、全身で生命の残り時間を歌っていました。

 ムゥとヘンゼルの主食はパンですが、同じ穀類でも、セヴァは米を好みます。

 それで彼は、此処でちょっとした稲作を行っていました。普段、家事や農作業の一切をムゥに押し付……信任しているセヴァが、この時期ばかりは張り切って田に入り、秋の収穫まで、せっせと稲の世話に勤しむのです。

 もっとも、人手の掛かる田植えや収穫には当然、ムゥも駆り出されるのですが。


『で、何をなくしたのかしら?』

「ちっちゃい笛。セヴァさんがくれたんだ」

『セヴァさんて、だあれ?』

「いっつもいっしょに遊んでくれるよ。オトナだよ」

『あ、じゃあ大きいお友達なのね』

「うん、すごくおっきい。百九十四センチあるの」

『でかっ!』


 ……あれは、小さな銀の呼子(よびこ)でした。

 いつだったか、セヴァが吹いているのを見て、いっぺんで気に入ってしまいました。月の光を千年浴びたという、眩いばかりの銀色で、その音色ときたら、星屑が囁くような美しさ。大層高価な逸品でしょうに、ヘンゼルが欲しがると、セヴァは至極あっさりとこれをくれたのです。

 以来、いつも首から提げて持ち歩いていた宝物だったのですが……。






 つい先日のことです。

 ムゥとセヴァは、この水田で、田植えに精を出していました。

 付いては来たものの、こういうときヘンゼルは、基本的に戦力外です。大人達もよろしく心得ていて、脇の畦道(あぜみち)で遊ぶのを咎めようとはしませんでした。

 ところが、オタマジャクシを追い掛けて走っている最中でした。例によって前方不注意が祟り、全速力で重ねた苗箱に蹴躓けつまづいてしまったのです。

 バランスを崩した身体は、水田の方へ傾いで、制御不能となりました。

 しまった、どうしよう。

 脚が宙に浮いた瞬間、脳裏を過ぎったのは、セヴァの珍しく真剣な面持ちです。


 いいかい。泥に落ちるときァ、手か足から行けよ。

 頭ァ駄目だ。首がポキッと折れッちまう。

 そォなったら御陀仏だ。死んじまったら、いくら俺様でも治せねェ。

 だから、死にたくなきゃァ、気ィ付けな? 絶ッッッ対だぜ。

 いいな?


 日頃、健全な青少年の育成などには潔く無関心なセヴァですが、これだけは念を押されていました。加えて、ムゥにも(くど)いほどの注意を受けています。ヘンゼルの深層心理には「頭から泥=死」という図式が刷り込まれていました。

 ほとんど無意識のうちに、ヘンゼルは脚を踏ん張って、背を逸らせました。却って不自然な体勢になってしまいましたが、そんなことは気にしていられません。頭だけは、是が非でも守らなくてはならないのです。死にたくない!

 すると、ずぼっ。

 勢い余って両脚まとめて泥の中へ没し、見事に腰まで突っ込んで、何をどうしても抜けなくなってしまったのでした。

 気付いたムゥが慌てて助けようとするも、こちらも酷く焦っていたため、太腿の辺りまで沈没して身動きが取れなくなり、典型的な二次災害へと発展。

 パニック状態で泣き喚くヘンゼル。

 ヘンゼルを呼びながら藻掻くムゥ。

 爆笑するセヴァ。

 のどかだった水田は一転、大騒ぎです。

 結局、セヴァが二人を引っこ抜いて事なきを得ましたが、哀れなムゥとヘンゼルは、仲良くズボンを諦める羽目になりました。フル○ン師弟コンビだ、と更に笑い転げるセヴァがタコ殴りに遭ったのは、言うまでもありません。

 あのときなくしたのでしょう。

 家に帰って風呂に入ろうとしたら、銀の呼子は消えていました。






 不思議なものです。

 この場所に立った途端、昨日のことのように記憶が蘇ります。

 沸き上がる後悔、寂しさ、喪失感。激しい自己嫌悪に苛まれ、未練に枕を濡らしたあの夜を、いつの間に忘れてしまったのでしょう。思い出すほどに、しみじみ胸が痛みました。

 どうして、もっと大切にしてやらなかったんだろう。


『ほら、あそこよ。あの板のところ』


 ヘンゼルの感傷を察してか、傘は、慰めるような口調で囁きました。

 板、というと……。


「あっ」


 ヘンゼルは、水取口へと走りました。

 これは引水のための水路です。幅は約五十センチ四方、一カ所が水田側にコの字型に窪んでおり、境目には板が填め込まれています。いつもは小川のように穏やかな流れの水が、今は雨で濁って、強い泥の匂いがしました。

 膝を突き、転げ落ちないよう気を付けて、そっと中を覗き込みます。

 歪んだ波紋の底で、何かがきらりと光りました。


「……あっ、うそっ!?」


 袖を捲って手を突っ込み、掴み上げます。

 サヤエンドウに似た愛らしい形が、水面から姿を現しました。泥を裂いて輝くのは、世にも神秘的な銀色です。冷たく小さな手応えが、けれどこんなにも確実で、懐かしい。この形。この色。

 それは紛れもなく、なくしたはずの、あの銀の呼子だったのでした。


「あったぁーーー!」


 万歳した拍子に、またもやヘンゼルは傘を放り出していました。

 ちょっと痛いじゃない! と転がってゆく抗議も、耳に入りません。

 感激に潤んだ瞳には、掌に収まった宝物が、銀色に滲んでいるのみでした。

 あの日、一度はなくした感触が、質量が、色彩が、愛着が、セヴァから譲り受けた瞬間の喜びが。幸せな熱となって頬を紅潮させ、息を弾ませます。あぁ、此処にある。僕の手の中に。そう思うと、どうしようもなく愛しくて、胸がいっぱいで、苦しいくらいです。

 こんなところにあったなんて。

 よく流されずに留まっていてくれました。

 逸る気持ちで水の中を何度か潜らせ、咥えて、ゆっくり吹きます。

 ややあって、詰まっていた泥がぴゅっと飛び出し、続いて透き通った音色が細く零れて、雨音に重なりました。


「………」


 あぁ。二度と再び、この音を聞く日は来ないと諦めていたのに。

 ヘンゼルは、銀の呼子を両手で祈りの形に握り締め、今度こそ決してなくさないよう、レインコートのポケットにしまって、ボタンを留めました。

 ごめんね。もうなくさないよ。

 おかえり、僕の宝物!


「ありがとうカサさ……あれ?」

『こっちよ~』


 恨めしげな声に振り向くと、果たせるかな傘は、ヘンゼルの遙か後方で、田圃たんぼの泥に半分埋まって憤っていました。


『もう……落ち着きのない子ねぇ』

「ご、ごめんなさい! また投げちゃった!」


 慌てて駆け寄り、傘を救出します。


「ごめんね。でもありがとう! 笛、もどってきたよ!」

『うふふふ。どう? なくしものが見付かるって、嬉しいでしょう?』

「うん! すっごくうれしい! ありがとうカサさん!」

『どーいたしまして~』


 謝意を示すと、傘はけろりと機嫌を直し、満足げに震えました。

 ヘンゼルは、感激一入ひとしおです。人間は、なくしものが返ってくるだけで、こんなにも幸せになれるのか。ひとつ賢くなりました。傘の言ったとおり、これは本当に、素晴らしいご褒美だったのです。


『次はどうするの?』


 思い掛けない言葉に、ヘンゼルは瞬きして訊き返しました。


「え? ひとつだけ……じゃないの?」

『あら~そんなケチなこと言ってないわぁ~。別にいいのよ、いくつでも。幸せは多い方がいいに決まってるもの、うふふふ』


 ……おかわり?

 おかわりってことか!


「やったあー! ありがとーう!」


 理解するや否や、ヘンゼルの興奮は最高潮に達しました。こういうものは大概、たったひとつの貴重な権利と相場が決まっているのに。ずいぶん太っ腹な傘です。でも嬉しい!

 四度目に投げ出すところだったのを、さすがに学習してしっかり抱き締め、片手で万歳三唱。ヘンゼルは、即座に次の候補を固めたのでした。


「えっとね、じゃあね、じゃあ、ぼく」

『あ、ちょっと待って』

「ぼく……ん? なあに?」

『あそこ。まだ、何かあるわよ?』

「え?」

『さっきの場所よ。今、キラッて光ったわ』


 言われて身体を捩れば、視線の先にあるのは、件の水取口です。

 呼子は回収しました。訝しみながら、ポケットに手を入れます。あります。他に此処でなくした物など、ないはずでした。

 とはいえ、そう言われると気になります。

 ヘンゼルは、水取口のところまで戻って、水面を凝視しました。


『どう?』

「うーん、よくわかんない」


 眼を皿にして、身を乗り出します。鼻先に掛かる飛沫は、泥の匂い。水流は結構な速さです。延々見ていると、なんだか頭がぐるぐるしてきました。

 さっきの呼子だって、流されずに引っ掛かっていたのが奇跡でした。これ以上、何かあるとも思えないのですが……。


「あれ?」


 見間違いかと立ち上がりかけた、そのときです。

 視線の端が、水の中で揺れる小さな青い輝きを捉えました。


「あったよ!」

『ちょっと、気を付けてね!』


 興味を惹かれたヘンゼルは、意気込んで水中へと手を伸ばします。捲り上げた袖ギリギリの深さでしたが、彷徨わせた指先が、何か硬い粒を探り当てました。

 確保して、目の高さまで引き揚げてやります。

 涙型の青い石に、細いフックが付いた華奢な細工。

 ――サファイヤの、イヤリングでした。










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