お喋りな傘
2.
「あめあめ、ざあざあ。まだざあざあ。ふってもふってもなくならなーい」
ヘンゼルは、瓢箪池へと続く小道を歩きました。
たんたんとレインコートを打つ雨音で、リズムを取ります。湿る土や葉の匂い。篠突く雨の音階は、絶え間なく感覚を刺激し、靄は仄かに甘く香って、優しく世界を包み込んでいました。
紫陽花が綺麗です。赤、青、紫、白。色とりどりの大輪が、道の両脇に所狭しと咲き乱れ、雨に濡れてはいっそう鮮やかに、ヘンゼルの目を喜ばせます。これだけでも、散歩の理由としては充分ではありませんか。どうして大人は、雨が嫌いなのでしょう。ヘンゼルは不思議でした。
木の枝を揺さぶり、落ちてくる水滴を浴びます。楽しい。
カタツムリを発見、つんつんと角を突いてからかいます。楽しい。
水溜まりという水溜まりに突撃し、両脚で泥水を跳ね上げます。楽しい。
肩に、頭に、全身に、お気に入りのレインコートで受け止める雨粒。何処かで鳥が鳴きます。雨宿りでもしているのでしょうか。蛙は元気に合唱します。運動会でもあるのかな。うきうき。
ヘンゼルは、ムゥが思うよりずっと、雨の散歩を堪能していました。
そうして、道の中程まで来たときでした。
「あれ?」
何か落ちているのを見付けて、ふと立ち止まりました。
近寄って拾い上げると、それは一本の、青い傘です。
「かっこいい! オトナガサだ!」
形状からして、女性用に見えました。でも、我が家といえば男所帯です。従ってムゥのものではありません。セヴァが使っている番傘でもない。ならばいったい、誰の傘? どうしてこんなところに置き去りにされているのでしょう?
これが大人であったなら、真っ先に嫌な予感が頭を掠めるところです。なにしろ此処は非常識の森。これまでにも、魚が飛んだりドアが喋ったりと、散々トラブルに巻き込まれてきました。警戒するに越したことはないのです。
ないのですが。
「おっきいなぁーかっこいいなー」
最早それは、好奇心旺盛な六歳児の知ったことではありませんでした。
ムゥの忠告などは綺麗さっぱり吹き飛んで、俄然、新しい玩具に興味津々。それまで地面を引き摺ってきた棒を放り捨て、嬉々として傘を弄くり始めたのでした。
「えーと……あ、これかな。う、かたい……なかなか……」
大人用だから、力が必要なのでしょうか。
ヘンゼルは、えいやっと渾身の力を込めて、傘の留め具を押し込みました。
『――ぷはぁああぁああぁッ』
†
世にも奇妙な音と共に、傘が開きました。
いいえ。音ではなく、声です。その声があまりに大きかったために、あの独特の「ばすん!」という開音が掻き消されてしまっただけなのです。
ヘンゼルは吃驚仰天。咄嗟に傘を放り投げ、踵を返して、元来た方へと駆け出しました。
というのも、叫んだのはヘンゼルではありません。
傘の方、だったのですから。
『痛ッ』
傘は、広げた骨の先で不規則に地面を転がり、紫陽花に突っ込んで、悲鳴を上げました。
「あ……」
その声に、思わずヘンゼルの足が止まります。
ゆっくり振り返ると、紫陽花の茂みから、恨めしげな声がしました。
『もう……いけない子ねぇ。道具は丁寧に扱わなきゃ駄目よ~』
……叱られてしまいました。
傘に!
『こんなときは? なんて言うのかしら?』
「ご、ごめんなさい」
ヘンゼルは、条件反射で頭を垂れました。
思えば、しょっちゅうムゥと繰り返している遣り取りです。自分では気付かないうちに、ちゃんと躾けられていたのですね。
『はい、よくできました! もういいわよ』
傘は満足げに応じ、ころころと笑いました。
朗らかで、どこか人を安心させる和みを含んだ声です。おっとりした中に、妙な姦しさが主張する感じは、四十代から五十代の女性でしょうか。少なくとも、悪人ではなさそうです。
それなら、怖くありません。元より狡猾な悪など、まだ知らないヘンゼルです。驚愕が収まれば、代わりに沸き上がるのは、持ち前の好奇心でした。
傘へ歩み寄り、茂みから引っこ抜いて、泥を拭ってやります。
「あの、投げてごめんね。だいじょうぶ? 折れてない?」
『だいじょーぶ。どこも壊れてないわぁ。ボク、良い子ねぇ。お名前は?』
「ヘンゼル」
『あら賢いわぁ。いくつなの?』
「六つ」
『あらあらぁ~お利口さんねぇ、うふふふ』
あぁ、これはオバチャンです。間違いありません。
今にも飴でも出してきそうな勢いです。
「ねぇ、カサさんのお名前は?」
『やだわぁ~そんなものないわよ。傘ですもの』
「じゃあ、どこから来たの? ここで何してたの?」
『そうそう、それなのよ~!』
傘は声のトーンを上げ、聞いてくれとばかりに捲し立てます。
『気が付いたら、此処でしょ? 右も左もわからない森の中! 怖かったわぁ~。しかも閉じられたままでよ。喋ることもできないし、息苦しいったらないのよ! 開いてもらって本当に助かったわぁ。あら、なんの話だったかしら……そうそう、何してたのってことよね。それがね、思い出せないのよ。いやねぇ私ったら忘れっぽくって。なんか急いでたような気はするのよねぇ。でもわからないわぁ~』
聡明なヘンゼルは、早々に彼女の身元確認を諦めました。
オバチャンという生物は、こうなると主題を忘れて、好き勝手に喋り出すという習性を持っています。ヘンゼルは、よく知っていました。この森へ迷い込む以前は毎日のように、近所の主婦達や老人達に菓子で餌付けされ、可愛い可愛いと言って連れ回されたものです。懐かしくも、いくらか退屈な思い出でした。
『私ってほら、傘でしょう? 自力で動けないのよねぇ。ちょっとプルプルできるくらいよぉ。おまけに、閉じられてると喋れないの。いやねぇ。開いてもらって、本当に助かったわ~。良い子ねぇ。賢いわぁ~』
「えへへ、ありがとう」
ほら、長くなってきた。
オバチャンは嫌いではありませんが、この長話だけはどうも苦手です。
遅いぞと、ムゥの怒る顔も脳裏をちらつき始めます。昼食の時間も近い。
そろそろ切り上げて帰るべきかしらん。
などと思案しつつ、ヘンゼルは、靴先で足元の泥を捏ねていました。
『だからね、良い子にはご褒美をあげるわ』
ぴくり。ヘンゼルの動きが止まります。
ご・ほ・う・び!
抜群の殺し文句に、緑の眼が、ぱっと期待と歓喜の色に塗り変わりました。
ついでにムゥの言い付けと空腹も、跡形もなく消し飛びました。
「なになに? ごほうびって何? 何くれるの!?」
『うふふふ。それはねぇ、なくしものよ』
「? な、なくしもの……?」
『そうよぉ~』
傘は得意げに鼻を鳴らしました(どうやっているのでしょう?)。
曰く、彼女には変わった特技があるというのです。
それはいわゆる“失せ物探し”で、手を繋いで意識を集中すれば、その人が過去に失った物の在処を知ることができるのだそう。
生来の能力か、修行を積んで会得したのか、彼女自身わからないのですが、効果は覿面。つまりはその能力を使ってヘンゼルの“なくしもの”を見付けてくれるという申し出なのでした。
「それって、ごほうび……なの?」
ヘンゼルは、とても正直な表情で眉を下げました。
物をなくすことは多々あります。でも、その度にムゥが新品を作って与えてくれるのです。二言三言叱られるくらいで、そこまで深刻な事態に陥った憶えはありません。これといって、なくしもので不自由はしていませんでした。
どうせなら、お菓子とかビー玉とか、楽器とか、珍しい虫とか。もっと実用性のある快楽をくれればいいのに。
けれど傘は、予想通りといった反応で、ふふふと笑います。
『うふふふ、よくわからないって顔してるわねぇ。まぁ、ボクまだ小さいものね。こういうのはねぇ、ロマンよロマン。想像してごらんなさいな。二度と会えないって諦めてた相手との、運命の再会よぉ。あぁロマンチックだわ~』
「えっと、そのお話、長くなる?」
『あらあら、ごめんなさい。いやねぇ、私ったら』
いいから黙って私を差してごらんなさい。
腑に落ちない部分は残りますが、物は試しです。
傘の言うとおり、ひとまずヘンゼルは、彼女を差してみました。
『もっと高く上げて。できるだけまっすぐに。腕をぴーんと伸ばすの。そうそう、勇者の剣みたいにね』
やってみると、ちょっとカッコイイ。
すぐに気分が乗ったヘンゼルは、爪先立ちになって姿勢を正し、わくわくして、次の指示を待ちました。
『うん、こんな感じね。よくできました。そしたらね、それをなくしたときのことを思い出して……あら、何処でなくしたのかわからない? じゃあ、なくした物はなにかしら? よーーーく思い浮かべて。ボクが、どんなにそれを好きだったか。一緒に過ごした時間は、どんなに幸せだったか。きっと憶えてるはずよ』
なくしもの、か。
いろいろあるけど、何にしよう?
しばし考えて、幾つか浮かんだ候補の中から、ひとつ選びました。
眼を閉じ、頭の中に像を描きます。
「………」
『………』
雨音が束の間の沈黙を埋める中、傘が、淡く点滅を始めました。
骨で仕切られた小閒が、息をするように濃淡を持ちます。柄を握る手に人肌の熱が生まれ、ヘンゼルは頭上を振り仰ぎました。仄青い光が、ゆらり眠たげに揺れながら、右回りに流れてゆきます。青いチーズが回っているみたいでした。
ゆったりと、呼吸のリズムで移り変わる色彩は、当たる雨を弾いて、ふわら青い霧となり、やがてある方角を指して、そこで止まりました。
『わかったわ。北よ』
北?
はて、何があったでしょう。
「――あっ!」
首を傾げかけたヘンゼルは、次の瞬間、短く叫んで駆け出していました。
北だって?
あの橋を渡って北へ曲がって、その先の場所って、確か。
『ちょっと~何するのよ!』
と、後方から上がる抗議に、急ブレーキ。ぶちゅっと泥が跳ね上がります。
それから空になった両手を確認し、ヘンゼルは、いけないと肩を竦めました。
「また投げちゃった」




