鈴生りの祝福
6.
ふと我に返ると、ドアは、もう何処にもありませんでした。
歓声も拍手も。初めから何もなかったかのように。
野原は、静まり返っていました。
「……なんだったんだよ」
セヴァが悪態を吐きます。口調は荒いのですが、尻尾の毛はボウボウに逆立っていました。ぽかんと立ち尽くすヘンゼルの金髪には、とばっちりの紙吹雪が、大量に絡み付いていました。
原色の紙片だけを残して、前触れもなく始まった騒動は、また唐突に消え去っていたのでした。
風が、吹きます。
いつしか空は黄昏の匂いを含んで、うっすらと茜を差していました。
すると、リン。
小さく澄んだ音色が、聞えたような気がしました。
ん、とセヴァが耳を立てました。
リンリン。音を追って、セヴァの耳が前後左右に角度を変えます。彼方から聞えたと思えば、此方から聞えます。出所を探して、ヘンゼルも首を回しました。ムゥもそれに倣います。
「な、なんだ?」
虫が鳴くには時間が早すぎます。ましてこの音は、春の虫ではありません。
喩えるなら、星が転がるような。金の糸が編まれるような。木漏れ日のくすくすと笑うような。或いは、降り積もる雪が透明な水晶であったなら、こんな音がするのかもしれません。
遠くの樹から、傍の草むらから、岩場から、タンポポの綿毛から、後から後から溢れてきます。あっという間に、野原全体が歌い始めました。
リン、リンリン。リン。
リンリンリンリンリン。リンリン、リリリン。リンリリリン………。
「あっ」
キョロキョロしていたヘンゼルが、屈んで足元の草を分け、何か摘まみ上げました。
ゾックの実です。
ただし、朱い。
青いはずの実が、どういうわけか、鮮やかな朱に染まっていました。
ヘンゼルが軽く振ると、紅い実はリンと鳴ります。
音の正体は、これだったのです。
「まさか野原中の……?」
ムゥは辺りを見回しました。確かめる必要はなさそうです。此処にも。あれも。それも。ヘンゼルが次々と近場の実を拾い集め、掌に盛っていきます。そのどれもが、リンリンと朱く歌っていました。
意見を求めて、ムゥはセヴァに視線を投げます。
セヴァは、無言で金髪を掻き毟りました。彼にもわからないようです。
それにしても、なんて幻想的な音色でしょう。
法則性もなく好き勝手に鳴っているくせに、どう重なっても不協和音を生まないのです。透明な小人が、魔法の楽器で合奏しているみたいです。それはもう音ではなく、旋律と呼ぶべきものでした。
うっとりと耳を澄ませば、風の具合で曲調が変わります。テンポやリズムだけではなく、メロディそのものが違います。この野原に実るゾックの総数を考えれば、いったい何通りのパターンを奏でるのか。想像も付きません。
まさに福音でした。
こんな美しい音は、聞いたことも……
ハッとして、ムゥは己の掌を見ました。
ある。あるのです。
それも、ついさっき。あろうことか、ほんの数分前ではありませんか。
「ドアさんのお礼だよ! 先生ほら! こんなにいっぱい!」
ヘンゼルが、紅い実を山と盛った掌を頭上に捧げます。
それでピンときたらしい。セヴァが、にやりと口角を上げました。
「なるほどねェ」
そういうことかい。
朱い実を一粒摘まみ、妙に色っぽい仕草で唇に押し当てて見せます。
「ずいぶんと気に入られたみてェじゃねェか? えェ色男?」
「………」
からかい混じりの眼差しに、ムゥは、わざとらしく咳払いしました。
そっぽを向いた耳が熱い。風は優しく吹き、リンリンと野原が歌います。なんだか照れ臭くなって、ムゥは、意味もなく鼻の頭を擦りました。
指先に触れた紙片を抓んで、ちらり戯れに目の高さへ運びます。
ひとひらの、可憐なピンクでした。
「……ありがとう、か」
本当は、綺麗な声をしていたんだな。
見上げれば薄橙の空に、ひらひらと紙吹雪が舞っていました。
――ツンデレ・ドアめ。
細めた双眸で呟きながら、ムゥの胸の奥では、騒々しい祝福の余韻が、鮮明に尾を引いて疼くのでした。
†
さてさて。
以来、野原は平穏です。相も変わらず牧歌的で、いつも美しい音色に満ち、行く風に乗せて祝福を歌い続けています。別段、おかしな事件も起きていません。
三人の方も、相変わらずでした。たまに野原を訪れる日もありますが、時が経つにつれて、あのドアと騒動の記憶は、生活の地層に埋もれてゆきます。
それでも風の強い日など、窓を開けていると、何処からか清い鈴の音が舞い込んでくる瞬間がありました。
それはカーテンを揺らし、髪をそよがせ、頬を撫で、耳に届いて、リン。ムゥの胸を朱に鳴らすのです。
そんなことがあってから、だそうですよ。
三人が、この野原を“鈴生ヶ原”と呼ぶようになったのは。
トビラノムコウ/了




