おめでとう
5.
完成した鍵を左へ捻りました。
かちゃん。小気味の良い音がして、呆気なく施錠が解かれます。
ようやく緊張から解放されたムゥは、力が抜けて尻餅を着きました。
「……先生すっごい!! かっこいいー!」
ヘンゼルが歓声を上げて、ムゥの背中に飛び付きます。
「どうやるの? 教えて教えて! ぼくもやる! ジュツやりたい!」
「…………」
どっと疲れました。
ヘンゼルの興奮に構ってやることもできません。両手を突き、脚を放り出して、気道を確保するのがやっとです。たかが鍵、簡単な施術のはずが、予想外の大仕事になってしまいました。これがもっと大きく複雑な生成であれば、どうなっていたのか。ちょっと考えたくない。
手の甲を見れば、血の滲んだ歯形が残っています。
……なんだったんだろう。
術の最中に垣間見た光景。あれはドアの生前の記憶なのか? 魔力を介して素体と繋がったとき、ドアの深層意識へとアクセスしてしまったのだろうか。思えば、自意識を持った物体と接触して施術するのは初めてだった。それ故の副作用か。
「ねぇ先生、ドアさん開けていい? ぼく開けていい?」
テンションの上がりきったヘンゼルは、ムゥの疲労にも怪我にも気付かないようで、額を背中に擦り付けて“おねだり”してきます。
駄目だ、と言ったつもりが、喉がカラカラで声になりませんでした。
やはりこのドア、ヘンゼルが開けるには危険です。なんとか言いくるめなければと思うのですが、いかんせん酸欠状態の脳味噌では回転不足。もやもやと屁理屈が浮かんでは消えるだけで、思考が纏まりません。
「おいおいチビ助。そりゃァ、ムゥの役得だろォがよ」
そのときヘンゼルを制したのは、珍しいことにセヴァでした。
横目で見ると、倒れているドアを起こして、埃を払っているところです。
「やだあ~! ぼくやりたい!」
「おッと」
把手に縋ろうとした首根っこを引っ掴まれ、ヘンゼルは不満の声を上げました。 明らかな抗議の視線で長身を睨み付け、ぶうと頬を膨らませます。
対するセヴァは余裕の笑顔です。さっと青い鍵を引き抜いて、ヘンゼルの鼻先で揺らして見せました。
「やるよ」
「! ほんと!?」
「あァ。宝物にしときな」
「やった! ありがとう!」
セヴァって案外、子供の扱いが上手いのです。これだけで、ヘンゼルはあっさり籠絡されました。すぐ目の前の対象に興味が移る六歳児のこと、物で釣られるのに弱いことを、セヴァはよく知っているのでした。
それは教育上どうなんだ。普段なら苦言の一つも呈するムゥですが、今回ばかりはセヴァに感謝しました。
「さて……そろそろいけそうかい? 術士様?」
セヴァが水筒を投げて寄越しました。
一息に飲み干して、ムゥは立ち上がります。
ドアは、解錠されただけです。自ずと開くことはできません。誰かが開けなければ、彼女のアイデンティティは、ずっと未完成なのです。あんな感情の濁流に翻弄されたまま、いつまでも空虚な扉を探し続けることになる。
開けなければ。自分が。
そう思いました。
これが、仕上げだ。
「……ひとつ、訊いておきたい」
ムゥはドアと対峙しました。
把手を握って、気付きました。ドアが小さく震えています。
「お前は、何がしたかったんだ? 本当は、何になりたかった?」
『…………』
しばしあって、ドアは答えました。
『歌を。歌っていたかった。好きだから。反対された、けど』
そうか。頷くムゥの口元が、少しだけ綻びました。
すっかり、しおらしくなってしまったな。
ゆっくりと、把手を下ろします。
セヴァとヘンゼルが、固唾を呑んで見守っています。
さわさわと風が吹き抜け、場違いに間抜けなトンビの鳴き声が、寸刻を埋めて。
背筋を伸ばし、両脚で土を踏み締めて、ムゥは扉を此方側へ引きました。
――パン!
音が弾けて、視界を塞がれました。
予期せぬ破裂音に、肩が跳ねます。本能的な動作で、ムゥは両手を翳しました。
けれどそれは、決してムゥを吹き飛ばすほどの質量を持ち合わせていません。
色です。
赤、青、白、黄、紫、オレンジ、ピンク。金や銀まで、黒を除く色という色が、細かく刻まれた紙片となって溢れ出してきたのです。その鮮やかなこと、賑やかなことといったら、まるでお祭り騒ぎです。さすがに意外でした。眼を擦るのよりも先に、もう全身が虹のようでした。
えっと。なんだっけ、これ。
こういうの知ってるような気がするんだが、何か根本的に違わないか?
『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』
『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』
続いて、紙吹雪の向こうから、突拍子もない祝福が浴びせられました。
ついでにパパラパーとファンファーレまで鳴り響きます。
『わーい!』『やった!』『よっしゃあ!』『めでてぇなー!』『ベリグゥ!』
ドアの向こうで、大勢の歓声が湧き立ちました。
パチパチパチ。割れんばかりの拍手と共に、今度は称賛の嵐です。
若い男女もいれば、子供もいました。老人まで混じっています。何人……いや、何十人いるのでしょう。あいにく、色とりどりの紙片に両眼をがっつり塞がれて、確認は叶いません。というか見えません。というかなんだ。何事だ?
『凄いよ!』『かっこいい!』『なんて素敵なの!』『ようやった!』
『満点!』『天晴れじゃー!』『良かった良かった!』『最っっっ高だぜ!』
『感服仕りました!』『さっすが!』『あんたにゃ敵わねぇな!』『大好き!』
『感動した!』『君は世界一!』『ようやったようやった!』………
駄目押しとばかりに、大量の紙吹雪とリボンが、ムゥの顔面を直撃しました。
……あぁ、わかったぞ。
最早カラフル蓑虫と成り果てて、ムゥは、ようやく合点がいきました。
くす玉だ。
くす玉、大いに結構です。ムゥの故郷でも、祝賀の際には割りましたとも。でも違う。そうじゃない。いや確かに、私は“福音の鍵”と名付けたけれど。激しすぎるだろ。こんな爆音の福音は近所迷惑にも程がある。あと、そろそろ鼻の穴が埋め立てられそうなんだが。
『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』
このままでは、下手をすると窒息しかねません。呼吸器だけでも死守せねばと、ムゥは両手で顔を覆いました。
だから、気付かなかったのです。
ひしめく原色に包まれて、するするとドアの中から伸びた、一本の手に。
『 …… あ り が と う ……… 』
そっとムゥの掌に重なった手は、桜色の爪。
形の良い指は繊細で、気の毒なほどに華奢です。
肘から先しかなくとも、わかります。
それは、若い女性の腕なのでした。
『わたしは、やっと“わたし”になれた………』
耳元で囁く声に、かぁっと頬が熱くなります。
まったく事態が飲み込めないまま、ムゥは焦りました。完全に不意打ちでした。まさかこんな状況で礼を言われるとは。そもそも相手からのアプローチとはいえ、女性と手を握ったことなんて、今まで一度でもあったでしょうか。
これはどう対応すべきだ? どの魔術書にも書いてなかったぞ!
悪気はなかったのですが、いかんせん免疫が皆無です。頭が真っ白になったムゥは、咄嗟に彼女の手を振り払ってしまいました。
『ありがとう術士様。貴方に、神の祝福が、あらんことを』
二つの手が離れる瞬間、彼女の指が、優しくムゥの指に絡みました。
それから、少しだけ名残惜しそうに拳を握って、現れたときと同じようにドアの向こうへと戻り、ばたん。
ドアを 内側から 閉めました。




