あの日から
2.
朝食を済ませて、三人は家を出ました。
小高い丘の上に建つ我が家から、まず東へ坂を下り、小川に渡した橋を超えて、しばらく行くと三叉路です。そこを南に折れると、目的地はすぐそこ。ヘンゼルを連れていても、二十分も掛からない距離でした。
あと何日かすれば、此処も桜色の並木道です。先を行くヘンゼルは時折、樹の幹をパンパンと叩いて、早く咲いてねとお願いしていました。
「おおかた魚っぽい鳥が池に落ッこちただけなンだぜ?」
手近な蕾を抓みながら、セヴァが意地悪く言います。
ヘンゼルが振り向いて、いーっと歯を見せました。
「ちがうもん! お魚だもん! まちがえないもん!」
「そういえば前に溺れてる魚ならいたな」
「あれはセヴァさんが食べちゃったんだよ」
ムゥは、頬を膨らませるヘンゼルを掴まえて、ずり落ちたマフラーを直してやりました。ヘンゼルの瞳と同じ緑色です。この冬に編んでやったばかりなのに、もうあちこちが解れて、まるで虫食いの葉っぱでした。繕うのは、もちろんムゥです。ほんの少しでも注意してくれれば、助かるのですが。
「ヘンゼル、マフラーを預かろうか?」
「やだ!」
「首のところ。汗を掻いてるだろう」
「いいの! これ好きなの」
ヘンゼルは、きらきらと笑いながら駆けてゆきます。そんな顔をされると、ムゥは苦笑するしかありません。差し伸べた手は通り過ぎる冬の残り香だけを掴んで、所在なく上着のポケットへと戻るのでした。
「どうしてあんなにボロボロになるんだ……」
「いいじゃねェか、元気ッてェことよ。また来年も編んでやンな」
「それは別に構わないんだが」
「あ、俺のも頼むぜ。今度はもッと派手なのがいいねェ。どォもお前の作る着物ァ地味でいけねェ。葬式じゃァねェンだからよゥ。もッとコゥ、朱とか金とか」
「自分でやれ!」
勝手なことを言い始めたセヴァに、ムゥは軽く肘鉄を見舞います。それをひょいと躱して、セヴァは、剣呑剣呑と笑いました。やたらに長い袖が翻って、梅の刺繍が宙に咲きます。カランと、履物の音が鳴りました。
「だいたい、お前は派手すぎるんだ」
ムゥが舌打ちすると、セヴァは、これみよがしに耳を伏せます。
もっとも、ムゥはある意味、感心しています。よくこんな格好で森を不自由なく歩き回れるものです。あのフリソデとかいう奇妙な服も、檜で作ったゲタとかいう履物も、とても活動的には見えません。前にブーツを勧めたら、野暮だと突き返されたことがありました。そういう問題なのでしょうか。
ふぅと頭を振って、ムゥは空を見上げました。
本当に良い天気です。鼻を突く空気は硬くとも、生命の囀りは春めいて、道端の雪は半ば溶けかかっていました。踏み締めた土は、その優しい温もりを受け止めて潤み、微睡みの世界からそっと、新しい芽吹きを送り出すのです。
あぁ、空が青い。
今日は畑仕事が捗るな。大掃除をして、衣替えも済ませてしまおうか。いや、先に洗濯物をやっつけなくては……。
ぼんやりと、一日の予定が頭の中を回ります。
振り仰いだ空は途方もない青でした。
あぁ、空が――、
変わらないんだな。
呟いて、ムゥは眼を細めます。
そうして果てない青に意識が揺らぎ、視界の端を鳥が掠めて、何処かで葉の滴がひとつ落ちれば、水色の髪は風にそよいで、あの日の記憶が蘇るのでした。
あれは春だったか。それとも冬の終わりか。
気付けば、一人で立っていた。
此処は何処なんだろう。
私は、何処から来たんだろう。
目に映るのは森ばかり。聞こえるのは、樹々のざわめき。風の遠吠え。噎せ返るような緑の匂い。なんて暗いところだ。今が夜なのか昼なのか。それすらも、わからない。頭が。思考が働かない。霧が深い。己という存在が。
すべて四散してしまったよう。
振り返ってはいけません。
どうして? 問う声に、答える者もなく。
ごうごうと、風が髪を踊らせた。
私は……。
どうしてこんなところにいるんだろう。
ムゥ。
名前を呼ばれたような気がして、ハッとした。
ざわり全身の皮膚が粟立つ。
怒号。罵声。慟哭。耳に痛いほどの静けさの中、無音の絶叫を、確かに聞いた。それは凄まじい絶望と憎悪を伴い、圧倒的な速さで迫ってくる。まるで透明な津波が押し寄せるように、とてつもない殺意が、風よりも速く。此処へ来る。
追われる恐怖が、背中を突き飛ばした。
逃げなければ!
次の瞬間、駆け出していた。何処へ行くのか、あてなどない。だが逃げなければならない。あれに追い付かれてはいけない。焦燥と恐怖が、脚を止めることを許さなかった。落葉を蹴り上げ、小枝を踏み折り、転んでは立ち上がって、ひたすらに駆けた。どんどん森の奥へ分け入ってゆく。
駆けても駆けても駆けても駆けても駆けても駆けても駆けても駆けても、
駆けても駆けても、森の中。
何度目かに倒れた後、もう立てなかった。
仰向けになって見上げた空に、白い欠片が舞っていた。
あれが雪だったのか。桜だったのか。どうにも思い出せません。
以来ムゥは、二度と森の外へ出ることはありませんでした。
本当に、ただの一度も。一歩たりとも出ていません。
だって出られないのですから。
最初の頃は、何度か脱出を試みたものでした。けれど、どんなに歩き続けても、森は終わりがないのです。なんだか同じ場所をぐるぐる廻っているみたいでした。閉じ込められたのだと知るのに、そう時間は掛かりませんでした。
そのくせ、森は豊潤でした。食べる物も着る物も、慣れてしまえば調達は容易です。生きてゆくには困らないのです。その中途半端さが余計にムゥを苛立たせましたが、結局のところ、それすら慣れてしまいました。
セヴァに拾われ、二人で暮らすようになりました。
長い年月が流れました。
春が来て、夏が訪れ、秋を過ぎ、冬は去りました。
いつしか数えることをやめて、それでも季節は巡りました。
二人は変わりませんでした。陽が昇り、風が吹き、花が咲いて散り、雨が降り、虹が出て、黄昏に陽が沈む。呆れるほど繰り返しても変わらずに、月日だけを重ねました。
「先生おそーい! もう着いちゃうよ!」
ムゥが顔を上げると、前方で、ヘンゼルが両手を振っていました。
並木道は終わりに近付き、前方で右に折れています。あそこを曲がれば、目的地はもうすぐそこです。回想に浸っている間、思ったより歩を進めていたのでした。
「今日はぼくの勝ち! ぼく、いっちばーん!」
ビシッとポーズをキメて、ヘンゼルは踵を返しました。
「走ると転ぶぞ! 気を付けろ!」
「へーきへーき!」
やたらと元気の良い返事は、逆に嫌な予感がしました。小さな背中が、ふわふわの金髪が、緑のマフラーが、角を曲がって見えなくなります。
やはり手を繋ごう。ムゥが足を速めた途端、ズザーーー。案の定、何かの派手に滑る音がして、ヘンゼルの情けない声が聞こえてきました。
「いたぁ~い」
……転けた。
「これだもんなァ」
隣のセヴァが両の掌を上向け、小首を傾げて、肩を竦めました。
ついこの間までムゥの背に負われていたというのに、最近のヘンゼルときたら、何処へ行くにも先陣を切りたがります。元来が好奇心旺盛な性質ですから、ムゥがいくら注意しても、これなのです。
これから、もっと身体が大きくなって、行動範囲は広がるでしょう。興味を持つ対象も増えるでしょう。そのうち反抗期など迎えて、もっともっと手が掛かるようになるでしょう。そうして流れた年月はいつか、ヘンゼルを大人にするのです。
そのときヘンゼルは、今日のことを懐かしがるのでしょうか。恥ずかしがるのでしょうか。
……そうだった。
たったひとつ、変わったことといえば――。
「だから言っただろう」
ムゥは苦笑して、ヘンゼルの元へと走ります。
はらり上着のフードが捲れて、緩く編んだ水色の髪が跳ねました。煌めく木漏れ日の眩しいこと。片手を翳せば指の隙間から、六角形の光が降り注ぎます。
嫌われているのか、好かれているのか。
守られたのか捕らわれたのか。
いずれにせよ、この森は、相当に意地が悪い。




