いつまで
15.
「……セヴァ。起きてるか?」
「あァ」
飛び交うインドウボタルが時折、うっすら誰かの顔を照らします。
ヘンゼルが眠りに就いて、今は静寂がソファに座る三人を包み込んでいました。テーブルの上、夢幻灯籠は仄白く光り、どこか眠たげに、とろとろと傘を回しています。
青白い人影は、もういません。
代わりに彼等の想い出が、部屋いっぱいに満ちていました。
走る少年。ピアノを弾く詩人。眼鏡を押さえる男。伸びをする猫。傘を差す女。万歳する人々。ステップを踏む踊り子。手を繋ぐ恋人達。包帯を巻く医者。煙突を昇る掃除夫。祈る僧侶。酔い潰れたイカサマ師。荒野を行くジプシー。止まった柱時計。売れない作家。波打ち際に立つ後ろ姿。収穫祭。焚き火を囲む旅人達。城塞都市の朝。行進する兵隊。結婚式。揺り籠を覗く母親。その肩を抱く父親。
「これを見せたかったのにな」
やれやれと、ムゥが苦笑を零しました。
「なァに、おチビのこッた。夢で見てるさァ」
「ふふ、そうかもしれないな」
「しッかし、こりゃァ思ったよりよく撮れてるねェ。上出来だ」
「だろう?」
この映像は、四日前のトコヨワタリを記録したものです。本当の彼等は、夜空を越えて在るべき場所へと渡ってゆきました。こうして想い出だけを残して。
「さても絶景哉、絶景哉」
ソファの肘掛けに頬杖を突き、セヴァはぐるりと視線を巡らせます。
ゆるりと回転する夢幻灯籠に合わせて、誰かの想い出が、室内を歩みました。
泣いて。笑って。怒って。照れて。数多の人々の様々な表情が、それぞれの言葉を紡いでいます。ムゥには、何を言っているのかわかりませんでした。元から存在しないのか録音が難しいのか、残念ながら音声を得ることはできなかったのです。
セヴァには聞こえるのだろうか。ちらり目を遣ると、彼は此方に背中を向けて、ゆったり尻尾を動かしています。
何か聞こえるか? 訊ねようと、ムゥは僅かに上体を傾けました。
ヘンゼルが、うぅんと小さく呻きます。
まずい、起こしたか。慌てて口を噤み、そっと膝の上を確認しました。大丈夫。ただの寝返りです。むにゃむにゃと何事か発して、またすぐ夢の世界に戻ってゆきました。
紅葉のような手が、しっかりとムゥの服を掴んでいます。
それがあんまり可愛くて、ついつい頬が緩みます。
こんなとき、ムゥは思うのです。
私はいつまで、この子と一緒にいられるだろう。
いつまで――
「セヴァ」
「ん」
「いつか話しただろう。私はエリクサーを生成して、陛下に飲ませた。それで病を治せると信じたんだ。だがエリクサーの効能は、私の考えていたものとは違った。あれは毒だった。不老不死の呪いを秘めた……忌まわしい液体だった」
「…………」
セヴァが、ボリボリと金髪を掻きます。
耳だけはしっかりと立てているので、聞いてはいるのでしょう。
ムゥは続けました。
「陛下は狂ってしまった。正常な精神を保てなくなったんだろう。私は禁術と謀反の罪で投獄され、処刑当日に脱走して、この森へ迷い込んだ」
「……そォだっけな」
「お前は訊かなかったが、変だと思わなかったのか? 私が駆け付けたとき、既に陛下は危篤状態だった。そう言ったろう。なら意識のない陛下に、私はどうやってエリクサーを飲ませた? 私は、どうしたと思う?」
セヴァの返事はありません。
「――口移しだ」
重く吸った息と共に、ムゥは言葉を吐き出しました。
「私も……飲んだんだ。ほんの少し」
己の口元を覆うムゥの指は、震えています。
いくらか荒れてはいましたが、肌理の細かい、若者の手でした。
怪我をすれば血が出るし、治癒にはそれなりの時間が掛かりました。風邪を引くこともあるし、体調の悪いときもあります。頭痛や腹痛に悩む日もあれば、無理をすれば身体に響きました。そこは普通の人間と同じです。
だから気付くのが遅れました。
いくらなんでも、おかしいのです。
だって、あれから何十年が経った?
明らかに異常だろう?
この身体は、まったく歳を取っていない!
「お前もそうだから……此処は、そういう森なのだと思っていた。時間の止まった場所で、この中にいる限り、誰も歳を取らないのだと」
「あんまりボンヤリしてッから、歳の取り方ァ忘れちまったのさ」
「それは自分のことも言ってるのか?」
「は、人間風情と一緒にすンない。俺様を誰だと思ってやがる」
そうです。セヴァの場合は特別です。わかっていて、混ぜ返しました。どう見ても、彼は人間ではありません。正確な年齢を把握しているわけではないのですが、会話を掻い摘まんで推測するに、相当に長生きの種族なのでしょう。たかが数十年では、外見も変わらないようでした。
でも、ムゥは違います。ムゥは人間です。
人間だったはずです。
案じていた可能性は、ヘンゼルを育てるようになって、いよいよ決定的な確信へと至りました。
出逢ったのは三歳でした。言葉も上手く喋れず、一人で用も足せず、食事は滅茶苦茶に取り散らかす。理屈は通じず、何から何まで未熟で、生活の全般に於いて、ことごとくムゥの手を焼いたものです。
それが今はどうでしょう。多くの言葉を憶え、知識を得て、言い付けを理解するようになりました。背も伸び、体重も増えて、服も靴も大きくなりました。家事を手伝ってくれることすらあります。
ヘンゼルは成長しているのです。人として正しい速度で、身体も心も。
つまりこの森では、断じて時間が止まっているわけではありません。ヘンゼルが成長してゆくのなら、自分は等しく老いてゆかねばならないのでした。
なのに、どうして変わらないのでしょう。
「……怖いんだ」
答えは、既に知っています。皇帝を不老不死に至らしめた液体。
この手で生み出した呪いの毒薬。エリクサー。
一口に満たない量とはいえ、ムゥは飲んだのです。
「私……私、もしも…………」
いっそ致命傷を試すこともできました。
しませんでした。できませんでした。
だってそれで、もし死んでしまったら……いいえ。
死ななかったら?
「怖いんだ。怖くて死にそうになるんだ。でも……死なないから……いや、だけどそれが怖くて死にそうで………」
どうしたらいいのか、わからない。
「セヴァ。私、何を言っているんだろう。私、私……」
ずっと迷い続けている。
運命に抗い、理を曲げて、愛しい者を地獄に突き落とし、与えられた唯一の贖罪までも拒んで。彼処から逃げ出したのに。今此処で、後悔と絶望の狭間、己の命を持て余している。
あぁ、あのとき。
どうして逃げてしまったのか。
「……私……どうして、私」
往き着いた先は、また檻の中で。
永遠も死も。
どちらも、まだ選べない。
「私は、いつまで」
いつまで、しがみついている?
醜く、惨めで、滑稽な。こんな命に。
「心配すンな」
優しい低音が、ムゥの言葉を遮りました。
表情は窺えません。セヴァはただ、ゆったりと尻尾を振っていました。
「そのときは、ちゃんと俺が殺してやるよ」
すいとインドウボタルが、二人の間を横切りました。
再び訪れた静寂は、いっそう夜の密度を増して、しばしの沈黙を引き受けます。こうしていると、聞こえないはずの声が語りかけてくる気がしました。ざわめく風のように、小川のせせらぎのように。決して大声ではないのに、耳に染み込む鼓動感じて、ムゥの唇は安らかな自嘲の形に歪むのでした。
「……うん」
ほろり。浮かぶ灯りが点滅します。
「ありがとう、セヴァ」
眼を伏せても、朧の残光は、まだ明るい。
「もォ寝る」
立ち上がったセヴァが、背中で軽く手を振りました。
彼の姿が寝室へ消えるのを見届けて、ムゥもソファに背中を預けました。
起こさないように注意しながら、ヘンゼルに自分の上着を掛けます。あどけない寝顔は、どんな夢を見ているのでしょう。それは幸せな夢であってほしい。塵ほどの哀しみも入り込む余地のない、とびきり楽しくて、甘い夢を。
「おやすみ」
柔らかい金髪を撫でて、ムゥは眼を閉じました。
瞼の奥で、青白い人影が揺れます。
インドウボタルの灯りが、遠く近く、瞬きます。
「……今は……」
私は、神に祈る資格もない男だ。
だから、誰に求めているのか、わからないけれど。
――もう少しだけ――
ざわざわと風が吹く。舞い散るあれは雪か、桜か。
セヴァの、低く謡を口ずさむ声が、やがて途切れて。
微睡みに手を伸ばせば、青い空に虹色の魚が飛び立つ。
あぁ廻る。夢幻灯籠。くるくると。
願わくば、まだ止まるな。
どうか、どうか、まだ。もう少しだけ。
もう少しだけ。
あの空を飛べたら/了




