どうして
11.
懸命に羽ばたき、魚が空を目指します。
全身のバネを上手く使い、リズミカルに尾を振って、みるみるうちに高度を上げました。ぐんぐん上昇してゆきます。これまでとは勢いが違います。
角度。タイミング。速さ。すべてが完璧!
ムゥは煙管を取り落として立ち上がりました。
身を乗り出し、瞬きを忘れました。
飛べるのか?
今度こそ。
魚は二メートルほどの高さに達します。未だ推進力は衰えません。まだ行ける。鱗は黄金の飛沫を弾き、その一つ一つに、眩しい太陽が反射しました。
一粒として見逃さぬよう。ムゥは息を止めていました。
口の中が渇いていました。
握り締めた拳に、何を願ったのでしょう。ムゥ自身にも、わかりません。
けれど込み上げてくるのです。いてもたってもいられない感情。
嫌悪でも、苛立ちでもなく。
それは紛れもない高揚なのでした。
「……よし、よし」
魚が昇ります。
三メートル。四メートル。五メートルを超えました。更に昇ります。力強く身体をしならせ、宙を掻いて進む姿は、熟練した船頭が船を漕ぐ様子を思わせます。
六メートル。動作に無駄がありません。ただまっすぐ、ひたすら青空だけを求めて、持てる力の有りっ丈を振り絞って、魚は足掻きます。
「あっ」
不意に魚の動きが止まりました。
六メートルと半、その場所に貼り付けられたように、仰け反ったままです。僅かに身を捩っても ひれだけが虚しく痙攣するのみでした。
やっぱり……駄目なのか?
運命には。勝てないのか?
抗っても無駄なのか?
唇を噛み、ムゥは呻きます。
思わず声を出そうとしたそのとき、
「がんばれっ!!」
ヘンゼルが吼えました。
「ずっとがんばってきたでしょ! あきらめないで! 今がそのときだ! ここでいちばんがんばれ! 空は君のものだ! もう、すぐそこだよ!」
すると、どうしたことでしょう。
魚の鱗が、きらきらと不思議な光を放ち始めたのです。
黄金――でしょうか。いいえ。もっと鮮やかな、煌びやかな色でした。ひれが、鱗が、くつくつと煮立つように色彩を変えてゆきます。まるで静かな熾火です。水の中でたくさんのシャボン玉が弾けたら、きっとこんなふうに見えたでしょう。
ざぁ、と強い風が桜の花びらを散らせました。
花びらはムゥの頬を掠め、セヴァの袖を叩き、ヘンゼルの声を浚って、魚を包み込みます。
そうして渦巻く桜に乗って、虹色の魚影が、遂に空高く飛び立ちました。
「と……、………」
細めた眼の向こう、魚は大きく尾を振りました。虹色の身体が、するすると空に滑り出します。はらり桜の花びらが一枚、ムゥの頭に降り落ちました。
「とんだ」
ヘンゼルが振り返りました。
ムゥは反射的に頷きます。
ヘンゼルの無表情が、みるみる感激に塗り替えられてゆきました。
「飛んだーーー!」
黄色い絶叫が、瓢箪池に響き渡りました。
「……あぁ」
己の口から漏れた嘆息が、返答なのか感嘆なのか。ムゥにはわかりません。ただ髪を掻き上げる横顔の、その唇に浮かぶのは、本人が知らずとも確かに、微笑みの形なのでした。
「せんせーせんせーせんせー!」
駆けてくるヘンゼルに両腕を広げ、抱き留める準備をしてから、ムゥはもう一度空を見上げました。
細めた眼の晴天の中、虹色の魚が泳ぎます。
運命の呪縛など痕跡も見せず、しなやかに羽ばたく姿は自信に満ちて眩しくて、小さな虹が飛んでいるみたいでした。最早かつての危うさなど何処にもなく、其処にあるのは奇跡でした。水からも重力からも解き放たれて、自由を掴んだ勝利そのものでした。
「こいつァたまげた! やりやがったぜ畜生!」
ハハッと笑って、セヴァが膝を打ちます。
ちょうどヘンゼルが、ムゥの胸に飛び込んできました。
「先生見た? 見た!?」
「あぁ。驚いたな」
「すごいよやった! トビー君飛んだ! ほんとに飛んだよ!」
「あぁ……」
ヘンゼルはムゥの腕を掴んで、滅茶苦茶に振り回します。
泣き笑いのような顔は、歓喜で真っ赤に染まっていました。
「すごいすごいよ! お魚だって飛べるんだよ! トビー君すごいんだよ!」
ぴょんぴょんと万歳で跳ね回るヘンゼルと魚を交互に見つめ、ムゥは何度も頷きます。高鳴る鼓動の意味は、いっそ考えないことにしました。
本当に飛んでしまったな。
独り言ちて振り仰いだ空は、底抜けに青く、遠く、限りなく広がっています。
魚が虹色の弧を描き、ゆっくりと旋回しました。
……そういえば、呼吸はどうするんだろう。見たところ苦しくはなさそうだが。空で息ができるようになったのか? 息継ぎに水に戻るんだろうか……。
そんなことを考えていると、どこからともなく一羽の鳥が現れました。
鳥は湖の上へと滑空し、大きくクチバシを開くや否や、目にも留まらぬ速さで魚を咥えて掻っ攫いました。
「あ」
そして近場の樹に翼を畳み、くっと喉を上向けて、二口三口で、ぱくりごくん。
呆気なく呑み込んでしまったのです。
「…………」
一瞬の出来事でした。
ムゥは一歩を踏み出した姿勢で硬直し、唖然としてその場に立ち尽くしました。
「…………」
「…………」
「…………」
さわさわと風が、冷たい静寂に場違いな桜吹雪を運びます。
「…………」
「…………」
セヴァの爆笑で、ムゥは我に返りました。
ハッとして視線を移すと、ヘンゼルは万歳のまま石像になっていました。
「…………」
……食われた。
食われた! しまった!
なんてことだ!
「……うわああああッ!!」
ヘンゼルが絶叫しました。何事か喚きながら金髪を掻き毟り、足元の石を掴んで投げ始めます。いくつもいくつも、拾っては投げ、投げては拾いました。到底届くはずもないのですが、憎き鳥を狙っているのに違いありませんでした。
「ヘンゼル! こら、やめろ!」
気持ちはわかりますが、これはいけません。
ムゥは、保護者としての責任を思い出しました。
ここで一緒に鳥を糾弾することもできます。セヴァに頼めば、それこそ投石一発で仕留めてもくれるでしょう。でもそれは駄目なのです。食べて食べられるのは、生きている限り逃れようのない、生命の掟なのでした。
それを教えなくては。
「だってだってだって! だって!」
「落ち着け。当たりっこないだろう」
「鳥ばか! ばか! ばかばかばかぁ! うわああぁあん」
なおも激しく泣き叫ぶヘンゼルを、ムゥは強く抱き締めました。
ヘンゼルの手から、ふと石が落ちます。
力の抜けた小さな身体が、がっくりと膝から崩れました。
「……ひっく……ひっく、うぅ………うぃ」
「気の毒だったな……可哀想に」
「鳥……ばか………」
「あぁ。悔しいな。でも、鳥だって食べなきゃいけないんだ。私もヘンゼルもパンを食べるだろう? 同じことなんだ」
「だって! だからってトビーくんを食べなくてもいいじゃない! あんなにがんばって、やっと、やっと飛べたのに! これからいっぱいもっといっぱい、お空を飛ぶはずだったのに!」
「そうだな。運が……悪かったんだ。仕方ないさ」
「しかたないって? なに? なんで……? わかんないよぅ………」
鳥の方は、下界の騒ぎなど知らんぷりで、呑気に羽根など繕っていました。
時折キョトンと首を傾げては、不思議そうに此方を眺めています。
「――所詮、魚は魚ってこッた」
ふっつりと、セヴァが笑うのをやめました。
「足掻こうが藻掻こうが、水の中でしか生きられねェのさ」
低く呟くセヴァの視線を追えば、未だ波紋の揺れる水面に、虹色の魚鱗が数枚、浮かんでいました。
ムゥの眼が、大きく見開かれます。
なんで。なんで。ヘンゼルが叫びます。
なんで。
どうして――
「これが」
運命だから。
誰かが言った、ような気がしました。
虹色の煌めきを透かして、男が俯いていました。
ムゥは彼を知っていました。よく知っていました。目深に被ったフードも、黒いローブも、今より短い水色の髪も。向かい合って微笑む、気高い美丈夫も。
「抗い、戦い、傷付き、勝利し、手に入れた夢が」
声がします。聞きたくもない言葉を紡ぎます。
ムゥは咄嗟に耳を塞ぎました。
やめてくれ。
頼むから、やめてくれ。
だって私は。
とうの昔に、その結末を知っている。
「追い求めた場所に辿り着いても」
頭が痺れる。苦しい。胸が。息ができない。
震える脚が、冷たい指先が、瞠目する眼が、腹の底を絞る恐怖が。
五感のすべてが、夢の続きを拒んでいても。
「其処が理想郷とは限らない」
それは、けれども容赦なく。
記憶の棺をこじ開ける。
空は青く、遠く、広く。
はらはらと淡く舞う、白い欠片は。
あぁ思い出せない。私、私は。
あれがなんだったのかおもいだせない。




