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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
あの空を飛べたら
11/91

どうして

11.






 懸命に羽ばたき、魚が空を目指します。

 全身のバネを上手く使い、リズミカルに尾を振って、みるみるうちに高度を上げました。ぐんぐん上昇してゆきます。これまでとは勢いが違います。

 角度。タイミング。速さ。すべてが完璧!

 ムゥは煙管を取り落として立ち上がりました。

 身を乗り出し、瞬きを忘れました。


 飛べるのか?

 今度こそ。


 魚は二メートルほどの高さに達します。未だ推進力は衰えません。まだ行ける。鱗は黄金の飛沫を弾き、その一つ一つに、眩しい太陽が反射しました。

 一粒として見逃さぬよう。ムゥは息を止めていました。

 口の中が渇いていました。

 握り締めた拳に、何を願ったのでしょう。ムゥ自身にも、わかりません。

 けれど込み上げてくるのです。いてもたってもいられない感情。

 嫌悪でも、苛立ちでもなく。

 それは紛れもない高揚なのでした。


「……よし、よし」


 魚が昇ります。

 三メートル。四メートル。五メートルを超えました。更に昇ります。力強く身体をしならせ、宙を掻いて進む姿は、熟練した船頭が船を漕ぐ様子を思わせます。

 六メートル。動作に無駄がありません。ただまっすぐ、ひたすら青空だけを求めて、持てる力の有りっ丈を振り絞って、魚は足掻きます。


「あっ」


 不意に魚の動きが止まりました。

 六メートルと半、その場所に貼り付けられたように、仰け反ったままです。僅かに身を捩っても ひれだけが虚しく痙攣するのみでした。


 やっぱり……駄目なのか?

 運命には。勝てないのか?

 抗っても無駄なのか?


 唇を噛み、ムゥは呻きます。

 思わず声を出そうとしたそのとき、


「がんばれっ!!」


 ヘンゼルが吼えました。


「ずっとがんばってきたでしょ! あきらめないで! 今がそのときだ! ここでいちばんがんばれ! 空は君のものだ! もう、すぐそこだよ!」


 すると、どうしたことでしょう。

 魚の鱗が、きらきらと不思議な光を放ち始めたのです。

 黄金――でしょうか。いいえ。もっと鮮やかな、煌びやかな色でした。ひれが、鱗が、くつくつと煮立つように色彩を変えてゆきます。まるで静かな熾火(おきび)です。水の中でたくさんのシャボン玉が弾けたら、きっとこんなふうに見えたでしょう。

 ざぁ、と強い風が桜の花びらを散らせました。

 花びらはムゥの頬を掠め、セヴァの袖を叩き、ヘンゼルの声を浚って、魚を包み込みます。

 そうして渦巻く桜に乗って、虹色の魚影が、遂に空高く飛び立ちました。









「と……、………」


 細めた眼の向こう、魚は大きく尾を振りました。虹色の身体が、するすると空に滑り出します。はらり桜の花びらが一枚、ムゥの頭に降り落ちました。


「とんだ」


 ヘンゼルが振り返りました。

 ムゥは反射的に頷きます。

 ヘンゼルの無表情が、みるみる感激に塗り替えられてゆきました。


「飛んだーーー!」


 黄色い絶叫が、瓢箪池に響き渡りました。


「……あぁ」


 己の口から漏れた嘆息が、返答なのか感嘆なのか。ムゥにはわかりません。ただ髪を掻き上げる横顔の、その唇に浮かぶのは、本人が知らずとも確かに、微笑みの形なのでした。


「せんせーせんせーせんせー!」


 駆けてくるヘンゼルに両腕を広げ、抱き留める準備をしてから、ムゥはもう一度空を見上げました。

 細めた眼の晴天の中、虹色の魚が泳ぎます。

 運命の呪縛など痕跡も見せず、しなやかに羽ばたく姿は自信に満ちて眩しくて、小さな虹が飛んでいるみたいでした。最早かつての危うさなど何処にもなく、其処にあるのは奇跡でした。水からも重力からも解き放たれて、自由を掴んだ勝利そのものでした。


「こいつァたまげた! やりやがったぜ畜生!」


 ハハッと笑って、セヴァが膝を打ちます。

 ちょうどヘンゼルが、ムゥの胸に飛び込んできました。


「先生見た? 見た!?」

「あぁ。驚いたな」

「すごいよやった! トビー君飛んだ! ほんとに飛んだよ!」

「あぁ……」


 ヘンゼルはムゥの腕を掴んで、滅茶苦茶に振り回します。

 泣き笑いのような顔は、歓喜で真っ赤に染まっていました。


「すごいすごいよ! お魚だって飛べるんだよ! トビー君すごいんだよ!」


 ぴょんぴょんと万歳で跳ね回るヘンゼルと魚を交互に見つめ、ムゥは何度も頷きます。高鳴る鼓動の意味は、いっそ考えないことにしました。

 本当に飛んでしまったな。

 独り言ちて振り仰いだ空は、底抜けに青く、遠く、限りなく広がっています。

 魚が虹色の弧を描き、ゆっくりと旋回しました。

 ……そういえば、呼吸はどうするんだろう。見たところ苦しくはなさそうだが。空で息ができるようになったのか? 息継ぎに水に戻るんだろうか……。

 そんなことを考えていると、どこからともなく一羽の鳥が現れました。

 鳥は湖の上へと滑空し、大きくクチバシを開くや否や、目にも留まらぬ速さで魚を咥えて掻っ攫いました。


「あ」


 そして近場の樹に翼を畳み、くっと喉を上向けて、二口三口で、ぱくりごくん。

 呆気なく呑み込んでしまったのです。


「…………」


 一瞬の出来事でした。

 ムゥは一歩を踏み出した姿勢で硬直し、唖然としてその場に立ち尽くしました。


「…………」

「…………」

「…………」


 さわさわと風が、冷たい静寂に場違いな桜吹雪を運びます。


「…………」

「…………」


 セヴァの爆笑で、ムゥは我に返りました。

 ハッとして視線を移すと、ヘンゼルは万歳のまま石像になっていました。


「…………」


 ……食われた。

 食われた! しまった!

 なんてことだ!


「……うわああああッ!!」


 ヘンゼルが絶叫しました。何事か喚きながら金髪を掻き毟り、足元の石を掴んで投げ始めます。いくつもいくつも、拾っては投げ、投げては拾いました。到底届くはずもないのですが、憎き鳥を狙っているのに違いありませんでした。


「ヘンゼル! こら、やめろ!」


 気持ちはわかりますが、これはいけません。

 ムゥは、保護者としての責任を思い出しました。

 ここで一緒に鳥を糾弾することもできます。セヴァに頼めば、それこそ投石一発で仕留めてもくれるでしょう。でもそれは駄目なのです。食べて食べられるのは、生きている限り逃れようのない、生命の掟なのでした。

 それを教えなくては。


「だってだってだって! だって!」

「落ち着け。当たりっこないだろう」

「鳥ばか! ばか! ばかばかばかぁ! うわああぁあん」


 なおも激しく泣き叫ぶヘンゼルを、ムゥは強く抱き締めました。

 ヘンゼルの手から、ふと石が落ちます。

 力の抜けた小さな身体が、がっくりと膝から崩れました。


「……ひっく……ひっく、うぅ………うぃ」

「気の毒だったな……可哀想に」

「鳥……ばか………」

「あぁ。悔しいな。でも、鳥だって食べなきゃいけないんだ。私もヘンゼルもパンを食べるだろう? 同じことなんだ」

「だって! だからってトビーくんを食べなくてもいいじゃない! あんなにがんばって、やっと、やっと飛べたのに! これからいっぱいもっといっぱい、お空を飛ぶはずだったのに!」

「そうだな。運が……悪かったんだ。仕方ないさ」

「しかたないって? なに? なんで……? わかんないよぅ………」


 鳥の方は、下界の騒ぎなど知らんぷりで、呑気に羽根など繕っていました。

 時折キョトンと首を傾げては、不思議そうに此方を眺めています。


「――所詮、魚は魚ってこッた」


 ふっつりと、セヴァが笑うのをやめました。


「足掻こうが藻掻こうが、水の中でしか生きられねェのさ」


 低く呟くセヴァの視線を追えば、未だ波紋の揺れる水面に、虹色の魚鱗が数枚、浮かんでいました。

 ムゥの眼が、大きく見開かれます。

 なんで。なんで。ヘンゼルが叫びます。

 なんで。


 どうして――


「これが」


 運命だから。

 誰かが言った、ような気がしました。

 虹色の煌めきを透かして、男が俯いていました。

 ムゥは彼を知っていました。よく知っていました。目深に被ったフードも、黒いローブも、今より短い水色の髪も。向かい合って微笑む、気高い美丈夫も。


「抗い、戦い、傷付き、勝利し、手に入れた夢が」


 声がします。聞きたくもない言葉を紡ぎます。

 ムゥは咄嗟に耳を塞ぎました。

 やめてくれ。

 頼むから、やめてくれ。

 だって私は。

 とうの昔に、その結末を知っている。


「追い求めた場所に辿り着いても」


 頭が痺れる。苦しい。胸が。息ができない。

 震える脚が、冷たい指先が、瞠目する眼が、腹の底を絞る恐怖が。

 五感のすべてが、夢の続きを拒んでいても。


「其処が理想郷とは限らない」


 それは、けれども容赦なく。

 記憶の棺をこじ開ける。


 空は青く、遠く、広く。

 はらはらと淡く舞う、白い欠片は。

 あぁ思い出せない。私、私は。

 あれがなんだったのかおもいだせない。








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