鳥瞰
――殺したい。
舞い散る桜に空を仰げば、やがて遠い記憶の底から、殺意の正体が浮上する。
1.
かんさつ日記:1日め はれ
そのお魚をみつけたのは、ひょうたん池でした。
池の中からばしゃっとはねて、なんだかヘンだと思いました。
ぼくは、じっと見ていました。
すると、またはねました。
お魚が、パタパタパタと、とんでいました。
ぼくはびっくりして、先生をよびに行きました。
†
差し込む眩しさに、ムゥは、水色の眼を細めました。
朝の陽射しは柔らかく、森の景色を包み込んでいます。うっすら下りた霜、軒先の滴、木陰に溶け残った雪。ささやかな冬の名残も、あと数日で見納めでしょう。囀る小鳥が、待ち遠しく春を歌っているようでした。
吐息で曇った窓硝子を拭うと、見飽きた顔が眉を寄せています。
――変わらないんだな。
独り言ちて薄く嗤えば、背後でパチリ。薪の爆ぜる音がしました。
振り返ると暖炉で、炎が弱々しく揺れています。そうそう、薪を足すべきかどうか迷っていたのです。今年の冬は思いの外に厳しくて、予定以上の本数を使ってしまったのでした。まだしばらく朝晩は冷えるでしょうから、できれば節約したいところです。でもこのままでは、少し寒い。
「……外はもっと寒い、か」
よし、決めた。
追加の薪を取りに行こうと、何度目かの溜息を吐いた、そのときです。
バタンと玄関のドアが開いて、バタバタと騒がしい足音が飛び込んできました。そうして、まっすぐ此方へ全力疾走してきたかと思うと、
「あ、ちょっと待っ」
バタン!
静止する間もなく、勢い良くドアを開け放ったのです。
無論、向こうから此方側へ。
「んがうッ!」
それをしっかり顔面で受け止めてしまったものですから、堪りません。ムゥは、情けない悲鳴を上げて後退りました。ばっちり角でした。鼻に直撃でした。グキッと嫌な音もしました。
一方、事の張本人は、何が起こったのかわかりません。半歩リビングに足を踏み入れたまま、鼻を押さえて悶絶するムゥをキョトンと見つめます。
「先生どうしたの?」
「は、鼻が……」
言われて、ようやく己の招いた惨劇を理解したのでしょう。ヘンゼルは、あっと叫んで、ムゥに縋り付きました。
「ごごごごごめんなさい! いたかった? だいじょうぶ?」
「……あぁ……でもドアを開けるときは……注意しなさい……」
「ご、ごめんなさい……」
しゅんと小さな肩を落として俯くヘンゼルを、ムゥはそれ以上、叱責することができませんでした。だってまだ六歳の男の子なのです。やんちゃは仕方がありません。なにより、上目遣いに見上げる大きな緑色の眼が。柔らかい金髪が、薔薇色の頬が、あどけない唇が、愛くるしいったらなかったのです。
注意すべきは、大人である自分の方だった。
そういうことにして、ムゥは、ヘンゼルの頭を優しく撫でました。
「もういい。大丈夫だ。それより、家に帰ったら何て言うんだった?」
「あっ、えっと、ただいま!」
何故だかペコリと頭を下げるヘンゼルに、ムゥは、痛みも忘れて破顔しました。どうやらヘンゼルの方に怪我はないようです。それなら、鼻の一つや二つぐらい、別にどうってことありません。
この子を育てるようになって、三年。こんなことは、日常茶飯事でした。どうせまた変な生き物でも見付けたのでしょう。歳の割に賢い子なのですが、興味が先行すると、もういけません。ただいまの挨拶もムゥの言い付けも、こうして綺麗さっぱり忘れてしまうのでした。
確か、瓢箪池まで果物を採りに行ったはずなのですが。
「何かあったのか?」
「うん! うんそう! すごいのみつけたんだよ! すごい!」
水を向けてやれば案の定、しょげていた顔にパッと好奇心の光が灯ります。
やっぱりな。釣られて、ムゥの口元も綻んでいました。
「どんな?」
相槌を打ちながら、乱れた髪に手櫛を通してやります。よほど急いで帰ったのでしょう。綿菓子みたいな金髪は、汗で額に貼り付いていました。渇いた鼻水を指先で拭ってやれば、くしゅんと一発。クシャミが炸裂します。
「飛ぶんだよ! お魚が!」
布を取ろうとしたムゥの手が、ヘンゼルの言葉に、ふと止まりました。
「は?」
「だからね、飛ぶの。お魚がね。飛ぶんだよ!」
さすがに予想斜め上の報告です。どうリアクションして良いのかわからず、ムゥはヘンゼルの顔を覗き込みました。キラキラした緑色の瞳は期待に潤んで、今か今かと解説を待ち侘びています。先生は何でも知っている。そう頑なに信じて疑わない、純粋な視線が、ムゥの常識と自尊心にチクチクと刺さりました。
飛ぶ? 飛ぶって? 魚が。
ニジマス……だろうか?
「……それはな、空中の虫を食べようとしてジャンプするんだ」
「ちがうよジャンプとちがう! 飛ぶんだよ! こう、パタパタって!」
鳥みたいに! 言いながらヘンゼルは、その場でコートの両袖を羽ばたいてみせます。鳥を模しているつもりなのでしょうが、悪いけれども、鶏の暴れているようにしか見えません。
「ばしゃって水から出てきてね、バタバタってとぶの! 鳥さんみたいにだよ!」
「ニジマス……じゃなくてか?」
「ちがうよ~ニジマスとちがうの!」
ぶんぶんと首を振り、ヘンゼルは地団駄を踏みます。焦れったいのか、ふっくらとした頬が、みるみる不機嫌に膨らんでゆきます。ムゥは困ってしまって、寝室へと続くドアをちらり、盗み見ました。
あいつなら知っているかも?
どのみち、すぐ朝食です。叩き起こさなくてはなりません。ムゥは目の前で飛び跳ねる暴走鶏を器用に掴まえ、気を付けさせて、とりあえず鼻水を拭いてやりました。
「ん~ん~ばたばた~」
「待ってろ。今あいつを起こして訊いてみ……」
そのときでした。
噂をすればなんとやら、出し抜けにドアが開いて、無遠慮な大欠伸がムゥの言葉に重なったのでした。
「なァんでェなんでェ、朝ッぱらからこの騒ぎァよゥ」
無駄に良く通るテノールボイスは、二人を黙らせるのに充分な迫力です。つい今し方まで夢の中にいたのでしょう。ボサボサに爆発した金髪からひょっこり伸びる狐の耳が、まだ眠たげに伏せられています。
「安眠妨害だぜ。そんなにこのセヴァ様のセクシーな寝起きが見てェのかい?」
「そういうのはセクハラと言うんだ」
だいたい、男の寝起きを見て誰が喜ぶというのか。ムゥは呆れて脱力しました。今頃起きてきて、安眠もクソもないものです。セヴァときたら、毎日毎日朝昼晩、ムゥにばかり食事の支度をさせておいて、この言い草なのです。ただでさえ女手のない男所帯、もう少し気遣いがあって然るべきだと、ムゥは常々不満です。
「おはようセヴァさん!」
その隙を突いて、ヘンゼルはムゥの懐中を脱出し、セヴァへと駆け寄りました。ムゥでは埒が明かないと思ったのでしょうね。
セヴァは長身を窮屈に折り曲げて、ヘンゼルと目線を合わせました。ヘンゼルの背丈は、セヴァのちょうど半分くらい。床に膝を突いてもらって、ようやく対等に向き合える高さです。
「おはようさん、チビ助。ご機嫌だねェ。なァんかイイコトあったのかい?」
「うん! あのねセヴァさん、ヘンなお魚がいたんだよ!」
「変? ッてェとアレかい。手足が生えてて盆踊りでもすンのかい?」
「ちがうよ、飛ぶの! パタパタってとぶんだよ! セヴァさん、知ってる?」
あぁ、とセヴァは頷いて、伏せた手刀を横に切りました。
「トビウオってェ奴なら知ってるぜ。こゥ、場合によっちゃ四町近くも飛ぶンだッてよ。世の中にゃァ奇天烈な生き物がいるもンだねェ」
「お前にだけは言われたくないだろうな、トビウオも」
ムゥのツッコミはガン無視です。事件解決だぜとばかりに、セヴァは尻尾を一つ振り、さっさとテーブルに着きました。セヴァだって、充分キテレツな生き物なのです。人間の身体に、狐の耳と尻尾がくっついているのですから。
「ンで? そのトビウオがどォしたって?」
椅子に長い脚を組んで、セヴァはヘンゼルに話の続きを促しました。赤い腰巻きから真っ白な太腿が覗いて、大変に破廉恥です。青少年の健全な育成について持論を展開すべきか。迷ったムゥですが、やめておきました。セヴァのことです。ムキになって猥褻物陳列罪に及ぶに決まっています。
一方ヘンゼルは、いまひとつ腑に落ちない表情でした。
「ひょうたん池にいたんだけど……トビウオ? と、なんかちがう気がする」
「ちなみにトビウオは海の魚だぞ」
ムゥが補足すると、ヘンゼルは、今度こそ黙り込んでしまいました。
眉間に薄い皺を立て、腕を組んで、爪先でトントンと床を打つ。六歳児がするには、いくぶん大人びた仕草です。いったい何処で憶えてきたのかと、ムゥは不思議に思います。今まさに自分がまったく同じ格好で首を傾げていることには、気付きません。セヴァだけが、そんな二人を見てニヤニヤしています。
三者三様。斯くなる上は、いつもの展開が待っているのでした。
「じゃあ、朝食の後みんなで行ってみよう」
「ほんと!?」
「あぁ」
ムゥが言うと、ヘンゼルは万歳して、黄色い歓声を上げました。
「だから手を綺麗に洗っておいで。ミルクを温めておくから」
「はーいはーいはーい! やったー!」
「ハイは一回。あとコートを脱ぎ散らかすんじゃないぞ。きちんと……」
「うん、コートかけに着せてあげるんでしょ!」
ひとまずは、これでよし、です。
慌ただしく洗面所へ消える後ろ姿を見送り、やれやれとムゥは一息。軽く伸びをして、窓の外へと目を遣りました。いつしか朝靄は麗らかな光に溶けて、さらさらと吹く風が、白い花びらを宙へ運んでゆきます。
あれはなんの花だったろう。
何気なくその行方を追った視線が、ふと、ある樹の枝で留まりました。
一羽の小鳥が、真っ黒な瞳を丸くして、此方を見下ろしていました。
「…………」
少し口角を上げたムゥは、その鳥に向かって、心なし肩を竦めてみせました。鳥とはいえ、一連の騒動を余すところなく見られていたかと思うと、なんだか気恥ずかしくなったのです。
あの鳥は母親なのだろうか。お腹を空かせた子供達のために、餌を探しているのだろうか。何処か近くに巣があるのだろうか。帰ったら、そこで待っている子供達にこの出来事を語るのだろうか。そっちはそっちで、さぞかし騒がしいだろうな。
「おーい、腹減った」
とりとめのない空想にボンヤリしていたムゥは、セヴァの声で我に返りました。そうです。自分にも仕事があります。根拠のない空想でしたが、おそらくあの鳥と自分は、たいして違わないのでしょう。こちらも餌の時間でした。
「あぁ、すぐ行く」
ムゥは台所へ急ぎます。セヴァは、勝手にオーブンを開けてパンを摘み食いしていました。すかさず頭を引っ叩いてやると、何しやがると逆ギレされて口論になります。そこへヘンゼルが戻ってきて、わけもわからず混ざりたがるものですから、もう収拾が付きません。やかましいこと、この上ない。
窓の外から先程の鳥が、そんな愉快な家族ごっこを眺めていました。
けれど彼女も、己の在るべき場所を思い出したのでしょう。やがて枝を蹴り、翼を広げて、空へ飛び立ちました。
一軒家の日常は羽音に霞み、赤い屋根はたちまち縮んで豆粒になります。冷たい風を切って高く羽ばたけば、舞い散る羽だけを残して、すべては朝陽の彼方。唐突に下界の匂いが消え失せて、此処から先は、彼女達の世界です。
そうして俯瞰する森は、相も変わらず鮮明でした。
有りっ丈の優しさと、呆れるほどの残酷さと、途方もない寂しさと、何もかもを飲み込んでしまう虚無と、惜しみなく与える愛をその巨大な腕に抱いて。森は今日も静かに佇んでいました。
吹く風が樹々を撫でれば、それは囁きとなって木霊し、獣は草原を駆け抜け、魚は川を下り、鳥の唄は丘を越えて、空を渡ります。雨が降れば土は潤い、陽が射せば花は咲き、季節は何度も巡って――けれど何処にも到達しない。
何故なら此処は、出発点であり、終着駅であり、まだ途中。
結局のところ、いつまでも広がり続けながら、もう塞がっているのでした。