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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
あの空を飛べたら
1/71

鳥瞰


――殺したい。

舞い散る桜に空を仰げば、やがて遠い記憶の底から、殺意の正体が浮上する。



1.






 かんさつ日記:1日め  はれ

 そのお魚をみつけたのは、ひょうたん池でした。

 池の中からばしゃっとはねて、なんだかヘンだと思いました。

 ぼくは、じっと見ていました。

 すると、またはねました。

 お魚が、パタパタパタと、とんでいました。

 ぼくはびっくりして、先生をよびに行きました。






                  †






 差し込む眩しさに、ムゥは、水色の眼を細めました。

 朝の陽射しは柔らかく、森の景色を包み込んでいます。うっすら下りた霜、軒先の滴、木陰に溶け残った雪。ささやかな冬の名残も、あと数日で見納めでしょう。囀る小鳥が、待ち遠しく春を歌っているようでした。

 吐息で曇った窓硝子を拭うと、見飽きた顔が眉を寄せています。


 ――変わらないんだな。


 独り言ちて薄く嗤えば、背後でパチリ。薪の爆ぜる音がしました。

 振り返ると暖炉で、炎が弱々しく揺れています。そうそう、薪を足すべきかどうか迷っていたのです。今年の冬は思いの外に厳しくて、予定以上の本数を使ってしまったのでした。まだしばらく朝晩は冷えるでしょうから、できれば節約したいところです。でもこのままでは、少し寒い。


「……外はもっと寒い、か」


 よし、決めた。

 追加の薪を取りに行こうと、何度目かの溜息を吐いた、そのときです。

 バタンと玄関のドアが開いて、バタバタと騒がしい足音が飛び込んできました。そうして、まっすぐ此方へ全力疾走してきたかと思うと、


「あ、ちょっと待っ」


 バタン!

 静止する間もなく、勢い良くドアを開け放ったのです。

 無論、向こうから此方側へ。


「んがうッ!」


 それをしっかり顔面で受け止めてしまったものですから、堪りません。ムゥは、情けない悲鳴を上げて後退りました。ばっちり角でした。鼻に直撃でした。グキッと嫌な音もしました。

 一方、事の張本人は、何が起こったのかわかりません。半歩リビングに足を踏み入れたまま、鼻を押さえて悶絶するムゥをキョトンと見つめます。


「先生どうしたの?」

「は、鼻が……」


 言われて、ようやく己の招いた惨劇を理解したのでしょう。ヘンゼルは、あっと叫んで、ムゥに縋り付きました。


「ごごごごごめんなさい! いたかった? だいじょうぶ?」

「……あぁ……でもドアを開けるときは……注意しなさい……」

「ご、ごめんなさい……」


 しゅんと小さな肩を落として俯くヘンゼルを、ムゥはそれ以上、叱責することができませんでした。だってまだ六歳の男の子なのです。やんちゃは仕方がありません。なにより、上目遣いに見上げる大きな緑色の眼が。柔らかい金髪が、薔薇色の頬が、あどけない唇が、愛くるしいったらなかったのです。

 注意すべきは、大人である自分の方だった。

 そういうことにして、ムゥは、ヘンゼルの頭を優しく撫でました。


「もういい。大丈夫だ。それより、家に帰ったら何て言うんだった?」

「あっ、えっと、ただいま!」


 何故だかペコリと頭を下げるヘンゼルに、ムゥは、痛みも忘れて破顔しました。どうやらヘンゼルの方に怪我はないようです。それなら、鼻の一つや二つぐらい、別にどうってことありません。

 この子を育てるようになって、三年。こんなことは、日常茶飯事でした。どうせまた変な生き物でも見付けたのでしょう。歳の割に賢い子なのですが、興味が先行すると、もういけません。ただいまの挨拶もムゥの言い付けも、こうして綺麗さっぱり忘れてしまうのでした。

 確か、瓢箪池まで果物を採りに行ったはずなのですが。


「何かあったのか?」

「うん! うんそう! すごいのみつけたんだよ! すごい!」


 水を向けてやれば案の定、しょげていた顔にパッと好奇心の光が灯ります。

 やっぱりな。釣られて、ムゥの口元も綻んでいました。


「どんな?」


 相槌を打ちながら、乱れた髪に手櫛を通してやります。よほど急いで帰ったのでしょう。綿菓子みたいな金髪は、汗で額に貼り付いていました。渇いた鼻水を指先で拭ってやれば、くしゅんと一発。クシャミが炸裂します。


「飛ぶんだよ! お魚が!」


 布を取ろうとしたムゥの手が、ヘンゼルの言葉に、ふと止まりました。


「は?」

「だからね、飛ぶの。お魚がね。飛ぶんだよ!」


 さすがに予想斜め上の報告です。どうリアクションして良いのかわからず、ムゥはヘンゼルの顔を覗き込みました。キラキラした緑色の瞳は期待に潤んで、今か今かと解説を待ち侘びています。先生は何でも知っている。そう頑なに信じて疑わない、純粋な視線が、ムゥの常識と自尊心にチクチクと刺さりました。

 飛ぶ? 飛ぶって? 魚が。

 ニジマス……だろうか?


「……それはな、空中の虫を食べようとしてジャンプするんだ」

「ちがうよジャンプとちがう! 飛ぶんだよ! こう、パタパタって!」


 鳥みたいに! 言いながらヘンゼルは、その場でコートの両袖を羽ばたいてみせます。鳥を模しているつもりなのでしょうが、悪いけれども、鶏の暴れているようにしか見えません。


「ばしゃって水から出てきてね、バタバタってとぶの! 鳥さんみたいにだよ!」

「ニジマス……じゃなくてか?」

「ちがうよ~ニジマスとちがうの!」


 ぶんぶんと首を振り、ヘンゼルは地団駄を踏みます。焦れったいのか、ふっくらとした頬が、みるみる不機嫌に膨らんでゆきます。ムゥは困ってしまって、寝室へと続くドアをちらり、盗み見ました。

 あいつなら知っているかも?

 どのみち、すぐ朝食です。叩き起こさなくてはなりません。ムゥは目の前で飛び跳ねる暴走鶏を器用に掴まえ、気を付け・・・・させて、とりあえず鼻水を拭いてやりました。


「ん~ん~ばたばた~」

「待ってろ。今あいつを起こして訊いてみ……」


 そのときでした。

 噂をすればなんとやら、出し抜けにドアが開いて、無遠慮な大欠伸がムゥの言葉に重なったのでした。


「なァんでェなんでェ、朝ッぱらからこの騒ぎァよゥ」


 無駄に良く通るテノールボイスは、二人を黙らせるのに充分な迫力です。つい今し方まで夢の中にいたのでしょう。ボサボサに爆発した金髪からひょっこり伸びる狐の耳が、まだ眠たげに伏せられています。


「安眠妨害だぜ。そんなにこのセヴァ様のセクシーな寝起きが見てェのかい?」

「そういうのはセクハラと言うんだ」


 だいたい、男の寝起きを見て誰が喜ぶというのか。ムゥは呆れて脱力しました。今頃起きてきて、安眠もクソもないものです。セヴァときたら、毎日毎日朝昼晩、ムゥにばかり食事の支度をさせておいて、この言い草なのです。ただでさえ女手のない男所帯、もう少し気遣いがあって然るべきだと、ムゥは常々不満です。


「おはようセヴァさん!」


 その隙を突いて、ヘンゼルはムゥの懐中を脱出し、セヴァへと駆け寄りました。ムゥでは埒が明かないと思ったのでしょうね。

 セヴァは長身を窮屈に折り曲げて、ヘンゼルと目線を合わせました。ヘンゼルの背丈は、セヴァのちょうど半分くらい。床に膝を突いてもらって、ようやく対等に向き合える高さです。


「おはようさん、チビ助。ご機嫌だねェ。なァんかイイコトあったのかい?」

「うん! あのねセヴァさん、ヘンなお魚がいたんだよ!」

「変? ッてェとアレかい。手足が生えてて盆踊りでもすンのかい?」

「ちがうよ、飛ぶの! パタパタってとぶんだよ! セヴァさん、知ってる?」


 あぁ、とセヴァは頷いて、伏せた手刀を横に切りました。


「トビウオってェ奴なら知ってるぜ。こゥ、場合によっちゃ四町近くも飛ぶンだッてよ。世の中にゃァ奇天烈な生き物がいるもンだねェ」

「お前にだけは言われたくないだろうな、トビウオも」


 ムゥのツッコミはガン無視です。事件解決だぜとばかりに、セヴァは尻尾を一つ振り、さっさとテーブルに着きました。セヴァだって、充分キテレツな生き物なのです。人間の身体に、狐の耳と尻尾がくっついているのですから。


「ンで? そのトビウオがどォしたって?」


 椅子に長い脚を組んで、セヴァはヘンゼルに話の続きを促しました。赤い腰巻きから真っ白な太腿が覗いて、大変に破廉恥です。青少年の健全な育成について持論を展開すべきか。迷ったムゥですが、やめておきました。セヴァのことです。ムキになって猥褻物陳列罪に及ぶに決まっています。

 一方ヘンゼルは、いまひとつ腑に落ちない表情でした。


「ひょうたん池にいたんだけど……トビウオ? と、なんかちがう気がする」

「ちなみにトビウオは海の魚だぞ」


 ムゥが補足すると、ヘンゼルは、今度こそ黙り込んでしまいました。

 眉間に薄い皺を立て、腕を組んで、爪先でトントンと床を打つ。六歳児がするには、いくぶん大人びた仕草です。いったい何処で憶えてきたのかと、ムゥは不思議に思います。今まさに自分がまったく同じ格好で首を傾げていることには、気付きません。セヴァだけが、そんな二人を見てニヤニヤしています。

 三者三様。斯くなる上は、いつもの展開が待っているのでした。


「じゃあ、朝食の後みんなで行ってみよう」

「ほんと!?」

「あぁ」


 ムゥが言うと、ヘンゼルは万歳して、黄色い歓声を上げました。


「だから手を綺麗に洗っておいで。ミルクを温めておくから」

「はーいはーいはーい! やったー!」

「ハイは一回。あとコートを脱ぎ散らかすんじゃないぞ。きちんと……」

「うん、コートかけに着せてあげるんでしょ!」


 ひとまずは、これでよし、です。

 慌ただしく洗面所へ消える後ろ姿を見送り、やれやれとムゥは一息。軽く伸びをして、窓の外へと目を遣りました。いつしか朝靄は麗らかな光に溶けて、さらさらと吹く風が、白い花びらを宙へ運んでゆきます。

 あれはなんの花だったろう。

 何気なくその行方を追った視線が、ふと、ある樹の枝で留まりました。

 一羽の小鳥が、真っ黒な瞳を丸くして、此方を見下ろしていました。


「…………」


 少し口角を上げたムゥは、その鳥に向かって、心なし肩を竦めてみせました。鳥とはいえ、一連の騒動を余すところなく見られていたかと思うと、なんだか気恥ずかしくなったのです。

 あの鳥は母親なのだろうか。お腹を空かせた子供達のために、餌を探しているのだろうか。何処か近くに巣があるのだろうか。帰ったら、そこで待っている子供達にこの出来事を語るのだろうか。そっちはそっちで、さぞかし騒がしいだろうな。


「おーい、腹減った」


 とりとめのない空想にボンヤリしていたムゥは、セヴァの声で我に返りました。そうです。自分にも仕事があります。根拠のない空想でしたが、おそらくあの鳥と自分は、たいして違わないのでしょう。こちらも餌の時間でした。


「あぁ、すぐ行く」


 ムゥは台所へ急ぎます。セヴァは、勝手にオーブンを開けてパンを摘み食いしていました。すかさず頭を引っ叩いてやると、何しやがると逆ギレされて口論になります。そこへヘンゼルが戻ってきて、わけもわからず混ざりたがるものですから、もう収拾が付きません。やかましいこと、この上ない。

 窓の外から先程の鳥が、そんな愉快な家族ごっこを眺めていました。

 けれど彼女も、己の在るべき場所を思い出したのでしょう。やがて枝を蹴り、翼を広げて、空へ飛び立ちました。

 一軒家の日常は羽音に霞み、赤い屋根はたちまち縮んで豆粒になります。冷たい風を切って高く羽ばたけば、舞い散る羽だけを残して、すべては朝陽の彼方。唐突に下界の匂いが消え失せて、此処から先は、彼女達の世界です。

 そうして俯瞰する森は、相も変わらず鮮明でした。

 有りっ丈の優しさと、呆れるほどの残酷さと、途方もない寂しさと、何もかもを飲み込んでしまう虚無と、惜しみなく与える愛をその巨大な腕に抱いて。森は今日も静かに佇んでいました。

 吹く風が樹々を撫でれば、それは囁きとなって木霊し、獣は草原を駆け抜け、魚は川を下り、鳥の唄は丘を越えて、空を渡ります。雨が降れば土は潤い、陽が射せば花は咲き、季節は何度も巡って――けれど何処にも到達しない。

 何故なら此処は、出発点であり、終着駅であり、まだ途中。

 結局のところ、いつまでも広がり続けながら、もう塞がっているのでした。







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