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貴公子と女中

作者: 烏有

拙作<坊ちゃんと女中>の続編となっております。

宜しければシリーズ一覧よりご覧下さい。




「さあ、その可愛い声で呼んでごらん。」



 頤をすっと撫で上げた白い指が、流れる様に下唇に触れた。美しい鳶色の双眸が、蜂蜜の様なとろりした甘さを放ちながら私を見下ろしている。



「上手に言えたら、ご褒美をあげるよ。」



 耳にふき込まれる声は熱っぽく、そのまま私の脳を蕩けさせる。ぞくりと肌が粟立つのを感じて、思わず頬を染めた。密着しそうなほど近くに息遣いを感じ、警鐘の如く鼓動が激しくなる。



「カーレル、様…。」



 ほら、と急かす声に耐え切れずに、からからに乾いた喉から羞恥に塗れた声を絞り出した。そんな私に満足した様子の彼は、透き通った亜麻色の髪を揺らしながら、酷く嬉しそうに微笑む。



「良く出来ました。僕の可愛い恋人。」



 ちゅうっと頬に唇を落とした社交界の麗しき薔薇は、そう言って凡庸な女中の腰に手を回すのだった。





・・・・





「ふうん。バルフォン団長のお嫁さん選びねえ…。」



 それで最近悩んでたんだ、と頬杖を付いて見上げてくるのは、貴公子の名高い第三騎士団団長、カーレル・グレイズ様だ。



「坊ちゃん……主人は職務に実直過ぎる嫌いがありまして……このベスティモーナの言葉も耳に入らないらしく……。」



 困ったものです、と零す私に労わるような視線を向けたグレイズ様は、長い脚を組みかえながら微笑んだ。


 敬愛する主人、ギース・バルフォン様の婚活に行き詰ったバルフォン伯爵家の女中である私、ベスティモーナ。今日も坊ちゃんとの攻防に敗北して泣く泣く騎士団を後にする私を引き留めたのが、このグレイズ様であった。

 「貴女が落ち込んでいるようだから」と言って半ば強引に庭園へと誘った彼は、この東屋にて、腰の引けた私からするすると、言葉巧みに話を引き出したのだった。


 史上最年少で騎士団長を拝命した坊ちゃんには及ばないが、彼もまた二十四歳の若さで団長を務める天才である。グレイズ伯爵家の三男であられるこの方は、高貴な身分にも関わらず他家の使用人の私にまで声をかけて下さる気さくなお人だ。

 氷の様な美貌の主人とは対称的に、柔和で甘い顔立ちの麗人である。砂糖菓子の様な笑顔を振り撒く彼は、坊ちゃんと同じく女性に大層人気がおありらしい。その中性的な容姿からは想像も付かないほどの剣の達人であることから、騎士団長としての能力も高く評価されている。

 第四騎士団長の家人である私は騎士団に出入りする機会も多い為、偶然にも顔を覚えて下さったようだ。顔を合わす度に声をかけて頂ける程度には、親交があると思っている。



「私が厳しく教育し過ぎたばかりに、ご自分の幸せを蔑ろにされる様になってしまうなんて……。グレイズ様、私はどうしたら良いのでしょう……。」



 進展の無い縁談の数々にすっかり消沈していた所為もあってか、彼の話術ですっかり本音を晒してしまった私は、もはや恥も捨てて助言を求めた。

 柔らかな髪を風に靡かせるグレイズ様は、深慮する様にその目を伏せる。



「やっぱり恋愛に興味がないんじゃないかなあ。あの真面目な団長様は。」



 そう言って首を傾げる貴公子は、思わず目を見開いた私を見て可笑しそうに笑った。



「僕が言うのもなんだけど、あれだけ美女に囲まれて眉一つ動かさない男は初めて見たよ。」

「で、ではやはり私の教育が間違って……ああ何と言うことでしょう!全てはこのベスの責任だったのですね……!」



 お許し下さい旦那様、そして奥様。そう心中で懺悔して、顔を両手で覆い込む。

 坊ちゃんを立派な次期当主にお育てする為と、善かれと思ってしたことが、まさかこんな弊害を産み出すとは。

 見苦しく取り乱した私を窘めるように、まあ落ち着いて、とグレイズ様は言葉を続けた。



「ベスティモーナさんの教育がどんなものだったかは分からないけど、いちばん身近な他人の貴女が未だに独身ってことも大きな要因かもしれないね。」

「そ、それはどう言う……?」



 ことでしょう、と続く言葉を遮って、彼は悪戯な表情を浮かべる。



「考えてもみてよ。結婚しろって言う本人が独り身じゃ、説得力も何も無くない?それにバルフォン団長にとってベスティモーナさんは、言わば姉の様な存在なんでしょう?姉が結婚しない内は、なーんて思ってたりして。」

「そ、そう言われれば確かに、そうかもしれませんが、しかし……。」

「まあ要するに、貴女が恋人の一人でも作れば、彼も色恋に興味持つんじゃない?ってこと。」

「こっ……!?」



 がたん、と脚を打ち付けて立ち上がった私の無礼を咎めることなく、グレイズ様はその笑みを深めるのであった。







「わ、わたくし、この様な平凡な身でありますし、もう三十になりますゆえ……今更恋人など無理に決まっております……。」



 悲しいかな、それが事実だ。

 数秒の後に我に返った私は、この身の不甲斐なさにもはや言葉もなかった。



「それに、恥ずかしながら私、人並みの恋というものを経験したことがなくて…。」



 私の青春は、朝から晩まで坊ちゃんのお世話に消えたのである。そのことに何一つ後悔は無く、むしろ誇らしくすら感じるのだが。



「ふうん。じゃあいつも貴女を口説いていた僕は、全くの対象外だったって訳だ。」

「あ、あれがご冗談なことくらい、私にも分かりますわ。」



 意地悪そうな表情を浮かべる貴公子の、責めるような口調に少し後ろ暗い気持ちが芽生える。しかし、口説き文句を挨拶代わりに放つ貴方様にも非はあると思うのだ。


 私の返答がつまらなかったのか、ふうんと再び呟いたグレイズ様は、徐に立ち上がると机に身を乗り出し、その美しい顔を私の凡庸な顔に近づけた。

 あまりの近さに驚いた私の喉から、ひゅうと情けない音が鳴る。



「本気だったら良いの?」



 蕩ける笑みを一切消した彼は、麗しの薔薇と呼ばれるその人には到底見えず。

 燃える様な視線が網膜に焼き付いて、一瞬視界がくらくらと眩んだ。



「貴女が愛おしくて堪らなくて、今すぐその唇を奪ってしまいたい。僕だけを見て、僕だけを愛して、僕だけを感じて欲しい。その潤んだ瞳も、可愛らしい声も、全てが僕のものになれば、どんなに幸せか。」



 耳元で囁く声は、日頃のふわふわとした甘さを全く感じさせずに情熱的で、どこか苦しそうに掠れていた。

 思わず肩がびくりと跳ねる。頬がどうしようもなく火照り、鼓動が激しさを増した。今までに感じたことのない切なさを覚えて、訳もなく羞恥が込み上げてくる。

 顔を隠すように俯いた私の頭上から、程なくしてくすくすと笑う声が降ってきた。



「ふふ、どきどきした?」

「は、はい……。」



 見上げれば、すっかり普段の貴公子に戻っていたグレイズ様が、口元に手を当てて品良く笑っていた。私の動揺し具合に甚く満足されたらしい。上機嫌な笑い声を響かせた彼は、本題に入るけど、と言って再び椅子に座り直した。



「これからときどき、僕と<恋人ごっこ>するってのはどう?疑似恋愛って言えば良いのかな。そうすれば貴女も、貴女の坊ちゃんに愛の素晴らしさを説いてあげられるんじゃない?ああ勿論、貴女が嫌がることはしないよ。」



 基本はお茶しながら楽しくお喋りだね。そう言った彼の声が、どこか遠くに感じる。判断力が極端に低下している気がして、これではまるで私の方が年下みたいだ。

 未だ落ち着かない鼓動を必死に落ち着けながら、しどろもどろに言葉を返す。



「そ、そのような無礼なこと、この年増には…。」

「僕がそうしたいんだから良いの。どうせ気楽な三男坊だしさ。ご主人様の為でしょ?それとも、僕とじゃ嘘でも恋人にはなれない?」



 寂しそうなその声に、頷いてはいけないと言うのは分かっていた。

 それでも彼の言う<主人の為>と言う言葉と<嘘>と言う言葉が、私の心を傾かせる。

 嘘でもこの方と恋人の様に語らえば、私にも愛と言うものが分かるのだろうか。そうすれば少しでも坊ちゃんに、その素晴らしさをお教えすることが出来るのだろうか。


 どれほど時が経ったのだろうか、暫くしてのろのろと首肯した私を見たグレイズ様は、満足そうに微笑むと、ゆっくりとこの手を取るのだった。



「喜んで、レディ。」



 それにしてもどうしてこの方は、ここまで私に良くして下さるのだろう。

 少年の様に顔を綻ばせるグレイズ様を前に、その疑問が音を持つことはなかった。




・・・・





「くっ…あははは!!」



 彼女が去った後の東屋で、この愉快な気持ちを吐き出すように声を上げる。



「なんて愚かで可愛いんだろうね。」



 この醜い劣情に少しも気付かない彼女は、本当に愚かで仕方がない。

 下がらない口角を隠すように顔を手で覆えば、暗転した視界で彼女が微笑んでいる気がした。


 バルフォン家の優秀な女中の話は、ギース・バルフォンが入団してから間もなく、騎士団に広まっていった。

 初めは大した興味もなかった。まさか彼女が自分の運命だとは思いもしなかったのだから。

 騎士団始まって以来の鬼才と恐れられる、ギース・バルフォンが唯一心を開く人物。その理由は、彼女を初めて見たときに容易く分かってしまったのだ。


(そう、あの笑顔が。僕までも虜にしてしまったんだ。)


 大輪が綻ぶような笑顔では決してなかった。

 けれどあの我が子を叱るような、それでいて慈しむようなあの笑顔が、自分にも向けられればと思ってしまった。


(あれが欲しい。)


 彼女は知らないのだろう。彼女の敬愛する主人が、それはそれは頑丈な檻を用意していることを。騎士団での栄誉も全て、平民の彼女と結ばれる為のものだなんて。


 そしてまた、彼女は知らないのだろう。僕が彼女の主人を殺したいほど憎んでいることを。彼女が嬉しそうに<坊ちゃん>の話をする度に、この想いが黒く染まっていったのを。


(僕をこんなにしたのは、貴女なんだよ。ベスティモーナ。)


 だから貴女は僕と結ばれないといけないんだ。

 その為に少しばかり、意地悪な方法でこの距離を縮めてみたのだけど。彼女ときたらまるで僕の気持ちに気付かないんだから、可笑しくて笑いが止まらない。


(そんなところも可愛いんだけど。)


 そろそろこの茶番も終わりにしよう。

 主人の檻に囚われる前に、僕が貴女を助けてあげる。

 この狂気を悟られないよう、彼女が怯えてしまわないよう、優しく優しく愛してあげる。



「だから、絶対に逃がしてあげないよ。」



 まずは僕の名前を呼ばせることから始めよう。


 愛しい人に、嘘で固めた見えない首輪を巻きつけて、貴公子は凄絶に微笑むのであった。




続編希望頂きまして書かせて貰いました。

お読み下さり有難うございました。


7/25、続編<約束と女中>を投稿しましたので、宜しければシリーズ一覧よりどうぞ。

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