vector F→L ~F先輩のベクトル~(前)
少し重い話です。今までの雰囲気が好きな方は受け入れにくいかもしれません。
「藤澤さん、好きだ。もしよかったら、付き合ってくれませんか?」
体育館裏へ呼び出してきて何かと思えば、案の定告白だった。
「そうねぇ・・・・・・」
あたしは彼の全身を舐め回すように見る。
顔・まずまず、髪・似合ってない、身長・ばっちり、性格・穏やかな好青年、か・・・。なるほどね。
――で、肝心のアレはどうかな・・・と。ああ、こりゃダメね。
「・・・ねえ、加藤くん」
「な、何かな?」
返事を期待したのか、彼は少し緊張した面持ちで言葉の続きを待った。
「君、まだ前の彼女のこと好きでしょ。喧嘩して振られたか何かしたわけ?」
「な、何でそれを・・・」
どうやら図星だ。
「んー?見れば分かるよ」
――その胸のベクトルを見ればね。
「あたしで忘れようとしてるならやめた方がいいんじゃない?・・・向こうも反省してるみたいだし」
「彼女に会ったのか!?」
「まあ・・・そんなとこかな。早く行っといで、探してるよ」
「わ、わかった・・・ごめん藤澤、サンキューな!」
加藤くんは手を振って走って行った。
「・・・これで何人目だろ」
一人残されたあたしは溜息を吐く。
幼い頃からずっと両親や友達、幼稚園の先生の胸にそれが見えていた。
長さも方向もそれぞれなそれは、その人がどこかへ移動するたびくるりと回転して向きを変える。しばらく観察して、それが決まった何かを指し示しているんだと気付いた。
あたしに視えているのは“意識”――誰のことを、どれだけ想っているのか示すベクトルだ。
加藤くんの胸からは後ろに向かって一本の長いベクトルが伸びていた。その先を辿ってみると、加藤くんと付き合っていると噂になっていた女の子。そして彼女からも、加藤くんへ向かって長いベクトルが伸びている。
状況は大体分かる。何度もこんなシチュエーションを繰り返せば誰だって慣れる。
「何で本命が居るのに、あたしんとこ来ちゃうかなあ・・・」
自分が美人だっていう自信はあった。ある程度の努力もしてるつもり。
男子からもてはやされているのはベクトルから察しているけれど、誰もあたしに本気でぶつかってはこなかった。画面の向こうで歌うアイドルに熱狂するような、そんな目でしか見ない男共。
“高嶺の花”。そう呼ばれるようになったのはいつからだっけ。もう覚えていない。
←↓→
「―ユリ姉、また告白だって?」
学校からの帰り道、従姉妹の江梨とばったり出くわした。
「相変わらず耳が早いね、アンタは」
あたしは溜息を吐く。どうせこいつのことだから狙って会いに来たんだろうけど。
江梨の胸に意識を集中して・・・相変わらずだなこのベクトル娘。
「どっから聞いたの?」
「んー?テニス部筋からちょろっとね。自称“加藤先輩の親友”からの垂れ込みよ」
「加藤くん、友達見る目ないわ・・・」
可愛そうに。速攻で秘密をバラされている。
もっとも、こいつの情報網から逃れられる奴は滅多にいないけど。
江梨はあたしが今まで見てきた中でもかなり珍しいタイプ、全方向にベクトルが伸びている女だ。校内で起こる全てのことに興味を持ち、全てのことを自分で調べに行くから、その胸からは全校生徒へ向かって何百本というベクトルが伸び、総じてそれが長い。あたしとしてはあんまり直視したい光景じゃないので(なんか串刺しみたいだから)、一瞬確認したらすぐに意識を離す。今となっては見るも見ないもある程度調節出来るようになった。
昔は・・・見たくないものが見えて、すごく苦しかったこともあったけど。
「ユリ姉は彼氏作んないの?せっかく美人なのに勿体無いわね~」
「それは、“顔が似てるあたしも結構美人”って暗に言ってるわけ?」
皮肉めいた口調で返してやると、江梨はまさか、と笑う。
「似られるもんなら似たかったわよ、あたしも。従姉妹なのにあんまり似てないんだもの」
皆教えなくちゃ気付かないくらいだしね。そっくりじゃないのは確か。
「アンタはあたしと方向性が違うだけでしょ。充分可愛いと思うけど?」
「身内贔屓ってやつよ。ま、あたしが可愛いのは事実として」
「よく言うわ、自分で」
でもまあ、あたしに変なコンプレックス持たれるよりはマシだ。それに江梨は、自分の身の丈をちゃんと理解したうえでそう言っているんだから。確固とした自分があるっていうのは羨ましい限り。
「そういえば、例の純情ちゃんとお笑いくんはどうしてんの?」
ふと思い出して訊くと、江梨は肩をすくめてみせる。
「全然駄目ね。進展なし。半年前と全然変わってないわ」
「ふーん」
・・・相変わらず分かってない、か。
あの二人は最近結構いい雰囲気。知らないのはこいつだけだ。
例えベクトルが全方向を向いていても、全ての情報を得られるわけじゃない。どんなにベクトルを増やしても死角は出来る。それは何かに注目すればするほど、他の部分が疎かになるから。
灯台下暗し。
江梨のベクトルが一本だけ少し長いのを、あたしは知ってる。それは純情ちゃんに向かうベクトル。純情ちゃんへの想いは少しだけ特別だから、だからこそ客観的に彼女を見ることが出来ない。近くにあるものほど見えなくなるのは、誰にとっても変わらない事実だ。もちろん江梨にとっても。それに気付いた瞬間から、あたしは誰かに興味を持つことをやめた。
江梨のベクトルが全方向に伸びているなら、あたしはどこにもベクトルを伸ばさない。誰にも興味を持たないことで死角をつくらないように出来るかもしれないってそう思ったから。本当に出来るのかどうかは分からないけど。
あたしは自分の胸を見下ろした。
どんなに意識を集中してみても、あたし自身のベクトルは見当たらない。それがベクトルを伸ばしていない所為なのか、あるいは自分のベクトルは見えないということなのかは未だに分からなかった。
――あたしは、自分のベクトルを一度も見たことがない。
誰のことが大切でどれだけ想っているのか、他人のことは手に取るように分かるのに、肝心のあたし自身のことは何一つ分からなかった。
「何?大きさでも気にしてるの?」
「うるさい」
とりあえず分かっていること・・・胸の大きさだけは江梨に負けている。
「スレンダーなんだからいいじゃない」
「喧嘩売ってんの?」
「売ってないわよ。褒めてるの」
貧乳を気にしている人間にとって“スレンダー”は褒め言葉にならない。こいつにはそれが分かってない。
もう一度下を見下ろして、
「・・・・・・壁で悪いかッ!!」
「何も言ってないわよ!!」
視界を遮らずクリアに見下ろせる足元。
そのコンプレックスはある意味、確かにあたしを形作る要素かもしれなかった。
←↓→
図書室には相変わらず通っている。今年は受験勉強がメインだけど、去年までも普通に勉強していた。
勉強は嫌いじゃない。あたしに対して何の感情も向けないから。そのくせ尽くせば尽くすほど、あたしを愛してくれるみたいに結果も伴う。
家だと勉強してる暇はないから本当なら教室で空き時間にでもやりたいんだけど、ガリ勉イメージが定着するのが嫌だったから場所を変えることにしたんだ。図書室なら人も少ないし、例え誰か居たとしても同じように勉強しに来てるわけだからバカにされることもない。
偏差値はそこそこのくせに、この学校は進学よりも専門学校を目指すやつが多い。この時期になるとさすがに増えるけど、春先から受験勉強を始めていた子は少なかった。まして普段から勉強しているなんて真面目なやつはそうそう居ない。
いじめなんてどこにでもある話だけど、あたしはそれが特に嫌いだった。
『からかっただけ』とか、『ただの冗談のつもりだった』なんて言い訳するやつはざらにいるけど、その一部は嘘だってことをあたしは知ってる。
反応が面白いからちょっかいを出すっていうのは、確かに度を越えなければからかいの範疇。でもやられる方に向かって『気持ち悪い』とか『消えて欲しい』なんていうベクトルが伸びているなら、それはれっきとした悪意だ。
悪意のこもったベクトルは、とても鋭利で冷たい。だから嫌い。銃刀法なんかじゃ取り締まれない、確かに人を刺し殺せるそれを人間は誰しも持っているんだ。
あたしは見たことがある、ベクトルが一人の人間を貫くその瞬間を。
毎日切っ先で嬲られ続けて、ある時決定的な一言でその胸を貫かれた。彼のベクトルが根元から折れて地面に落ち、砕け散って。
これが“心を折られる”ということなんだと、あたしはその時悟った。
彼の心は死んでしまった。そして、二度と元には戻らなかった。
彼が死んで、あたしは人間の恐ろしさを、そして自分の恐ろしさを知ったんだ。
いつこの胸から伸びてくるかも分からない、その刃の恐ろしさを・・・。
「こんにちは、藤澤先輩」
「やっほー、天野ちゃん。あれ、一人?」
いつものように図書室へ行くと、珍しく一人で本を読んでいる天野ちゃんを見つけた。
「今日は大会で公欠なんです、万里くん」
「へえ、一年生なのに大変だね。応援?」
「いえ、一応スタメンで・・・」
「うわお、やっぱ格が違うか」
ここはサッカーじゃ結構な強豪校。三年が居ないとはいえレギュラーを獲るには相当の実力が要る。
「彼女としては鼻が高かったりするんじゃない?」
からかってやると、天野ちゃんは照れたように笑う。
「そうですね。私の方が嬉しいくらいで」
・・・変わったなあ、天野ちゃん。前は『彼女なんかじゃないです』って困ったような顔をしてたのに。自分では堅物くんに釣り合わないなんて、そんなことを考えて。
強い人に憧れているだけじゃ、余計に自分の弱さが際立って虚しくなるだけ。
それよりも必要とされること、誰かに大事にしてもらうことの方がよっぽど効果的で、自分に自信が持てるようになるんだろう。
「やっぱり堅物くんを選んで正解だったよ、天野ちゃんは」
「何がですか?」
「ううん、何でもない」
お笑いくんへの気持ちは嘘だったわけじゃないけど、小さくて淡かった。憧れと恋の境界上でゆらゆらと揺れているそれはひどく不安定で、堅物くんがそっと触れる度少しずつ、でも確実にベクトルが動いていくのをあたしはずっと見ていた。迷う必要なんかない。天野ちゃんが心から想っているのは堅物くんだってことが見えていたから、だからあの時背中を押した。
江梨がメールを寄越してきたのも理由の一つではあったけど、それはただのきっかけだ。もともと純情ちゃんとお笑いくんの気持ちは知ってたし。
「天野ちゃんさあ、マネージャーとかやんないの?」
「え?」
「マネージャーならずーっと堅物くんの側に居られるよ?放課後は部活だし、大会も一緒に公欠になるし」
「・・・それ、何か理由が不純じゃないですか?」
少し呆れたような口調で天野ちゃんが言う。
「理由なんてそんなの天野ちゃんが考えればいいことでしょ?あたしは向いてると思うけどな」
「はあ・・・」
「やればきっと分かるよ、大事なことがさ」
「大事な・・・こと」
自分には堅物くんが必要で、堅物くんにも自分が必要。与え合うのももらい合うのも当たり前のことだって、そう言えるくらいに自信を持てたら、きっと二人は本当の意味で対等になれる。
天野ちゃんのベクトルが少し動いたのを確認して、あたしは自習スペースへ向かった。
←↓→
幼い頃からベクトルは見えていたけど、それが何なのかを理解したのはある事件がきっかけだった。
パパとママのベクトルはとても長くて、お互いに向かって真っ直ぐ伸びていた。それがいつまで経っても変わらないのであたしは退屈になって、次第に恐ろしい好奇心を持つようになっていく。
――もしあれが反対を向いたら、どうなるんだろうって。
皆でご飯を食べて笑って、三人並んで眠って。そんなありふれた幸せを当たり前のように享受して。
翌日あたしは仕事に出掛けるパパのベクトルをぐるりと回して、ママと正反対の方向へ向けた。
その日、パパは家に帰って来なかった。
ママが心配して何度も電話を掛けたけど、電話口から漏れるのは留守電話サービスの機械的な音声ばかりで。
一週間ほどしてやっとパパが戻ってきて、問い詰めるママに突きつけられたのは一枚の紙切れだった。
パパがママに注いでいた深い愛情は、そのままほかの誰かに向けられた。・・・あたしの所為で。
パパはただ、事務的な処理を済ませるためだけに家に戻ってきたんだって分かって。ママへの感情はもう跡形も残されていないのに、あたしに対するベクトルだけがちゃんと伸びているのがかえって虚しい。
慌ててベクトルを回しても、パパがしたことは変わらない。あたしは再びベクトルを戻すしかなかった。せめてその女の人と、幸せになれたらいい。
パパはあたしを引き取るって言い張ったけれど、ママはそれを許さなかった。その代わり裁判沙汰にはしないと約束して、慰謝料も養育費も受け取らずにあたしを育てた。
あたしには見えていた。ママのベクトルはまだ、変わらないままパパの方を向いているのが。いっそママのベクトルをどこかへ動かしてしまえば楽になれるだろうと思ったけれど、パパと同じことをしたくなかったから自然に動いてくれるのを待った。
あたしが高校へ入った頃やっと、ママのベクトルが動いて。そうしてあたしは今新しいお父さんと、生まれたばかりの弟と一緒に暮らしている。
もう二度と、他人のベクトルを動かしたりしない。あたしはそう決めたのに――。
新堂隆一。それが奴の名前だ。
隣のクラスのイケメン男子、その程度の認識しかなくて、関わることもないだろうと思っていたんだけど。
「ずっと前から気になっていたんだ」
突然呼び出されて、もはや聞き慣れた台詞を聞いたときは少し意外だった。
「女に興味ないのかと思ってた。今まで彼女とか居なかったよね?」
江梨から色々と聞かされたから多少は知っている。
「まあ告白とかはされたけどね。ああいうのは面倒だから」
やけに率直に物を言う。印象悪くするかもとか考えないの、こいつ?
「面倒、ね。それなのにあたしと今こうしてるのは何で?」
「君が気になっているからだよ」
新堂は同じ台詞を吐いた。にこにこと笑みを湛えて。
「・・・あっそ」
変なやつ。笑ってるのに何か・・・有無を言わせないような空気。
・・・ちょっと探ってみよう。新堂に意識を集中して、
「――ッ!?」
呼吸が止まるかと思った。
「どうかしたの?」
「どうか・・・したのって・・・!」
これは・・・これは、何。
目前に鋭い切っ先が迫っていた。妖しく光るそれは間違いなく、奴から伸びているベクトル。
「やっぱり見えているみたいだね」
少し長い前髪の奥で新堂の目が細められる。その時初めて、あたしは気付いた。
――新堂の胸から全方向に、悪意のベクトルが伸びていることに。
「何よ・・・これ・・・」
「こんなのおかしいって、思うかい?」
「だって、今までこんな、」
ちょっと待って。こいつ・・・
「ベクトルが、見えるの・・・?」
新堂は微笑む。
「ベクトルというのが、僕から君へ伸びているものを指すのならね」
居たんだ、あたしの他にも見えるやつが・・・。
「ねえ、教えてくれないかい?」
「な、何を?」
「僕のベクトルは、どんな風に伸びているのかな?」
あたしはもう一度見た、新堂の持つ無数の刃を。・・・震える身体を抑えるので精一杯になる。
「360度全方向に、尖ったベクトルが・・・伸びてる」
「尖った?君は感情によって形状が変わって見えるのかな。ちなみにそれはどういう種類のものだろう」
「・・・“悪意”よ・・・!」
相手を傷付けて、滅ぼしたいという感情。この男はそれを、周り全ての人間に対して持っている。
「・・・なるほど、“悪意”ね。ということは君に対する感情も悪意だと?」
「今あたしに向けてる切っ先が錯覚や幻じゃないならね」
新堂は声を上げて笑い出した。
「つまりとんだ勘違いだったというわけだ。まあ気になっていたのは嘘じゃないけれどね」
確かにあたしに対するベクトルが特に長い。どれだけ想われようとそれが悪意なら嬉しくないけど。
「君は本当に面白いね。君みたいな人間は初めて見る」
「・・・どういう意味?」
「自分のベクトルが見えないのは君も同じようだね。そうだな、僕も教えなければフェアじゃない」
新堂はすっとあたしの胸を指差す。
「君はベクトルがない。360度どこからも伸びていない」
やっぱり、本当にないんだ。誓ったとおりに出来ているんだ。
「本当に不思議だよ。誰にも興味を向けずにずっと生きているなんて、そんなことがあり得るのかってね」
「出来てるから今ここにいるんでしょ、あたしは」
「本当にそう思うかい?」
「はあ?」
新堂の目があたしをじっと捉える。
「君は、この先一生誰にも興味を向けずに生きていくなんてことが、本当にあり得ると思っているのかい?」
「・・・そ、そんなの」
何も、言えなかった。そんなことはあり得ないと、答だけは明確に出ている。
「僕は見てみたいんだよ、君からベクトルが伸びる瞬間をさ」
あたしは背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、立ち去る新堂の背中をただ、眺めていた。