幕間:vector A→D ~Aさんの決断~
色々考えたけれど、結局自分のやりたいことをやろうって決めた。
「・・・というわけで、今月いっぱいで退部させていただきます。勝手にすみません、本当に・・・」
わたしは顧問の先生に頭を下げた。部長にはもう話してあったけれど。
「別に気にすることはないさ、今までよくやってくれた。・・・しかしそうか、入れ違いになったんだな」
「入れ違い?」
先生は机の上にあった2枚の紙切れをひらひらと振ってみせる。
「ついさっき入部届けを出しに来たんだ。二人ともマネージャー志望だな」
「この時期にですか?」
「お前だって今からバレー部行くだろう、別に珍しくもない。学校にも慣れて余裕が出てきたから、っていう奴は毎年いる。まあ人手が多いに越したことはないし」
先生が椅子から立ち上がる。
「あと2週間は居るんだし、その間に引き継ぎを済ませておけよ。新人指導も兼ねてな」
「はい、分かりました」
職員室を出てからふと気付いた。
「あ、そういえば名前訊いてなかった・・・」
あの口調からすると多分一年生なんだろうけど、一体誰なんだろう?
さて、これを真っ先に伝えなくちゃいけない人が居た。
『何よ、改まって話って?』
電話の向こうのエリが怪訝そうな口調で尋ねる。
いっぱい、迷惑かけちゃったな・・・本当に。
「わたしたち、中学で一生懸命頑張ってここへ来たよね」
『バレーのこと?まあ、そうね』
「なのに、わたしは一人で勝手にサッカー部へ入部しちゃって・・・本当に、悪かったって思ってる」
『もういいわよそんなの。済んだ話でしょ』
散々言い合って喧嘩して、でもエリはそんなわたしを許してくれた。
「今更だって思うかもしれないけど、でもやっぱりわたしはバレーが好き。またエリと一緒にやらせて欲しいの。だから、わたしサッカー部をやめて来月からバレー部に」
『そんなことより』
「入ろうと思っ・・・って、え?」
・・・今さらっと流しませんでした、この人?
「そんなあっさり・・・」
今のはお互いの友情を確かめ合う熱いシーンじゃないの?そういうフラグじゃなかったの?
『はあ?言っとくけど、あたしアンタほどバレー馬鹿じゃないから。そんなことはどうでもいいの、今はダイチの話が先決』
「え?」
何で今ダイチが出てくるのよ。
『本ッ当にこのままでいいの、明日香?』
「このままって・・・」
『さっさとデレないと、アイツずっと気付かないまんまよ?』
その言葉でなんとなく、エリの言わんとすることを悟った。
『どんだけダイチがアンタを大事にしてるか、ちゃんと分かってるんでしょ?明日香が自分で気持ちを言わない限り、アイツは絶対に手を出さない』
ダイチの優しさに甘えて、縋ってばかりで。このままじゃいけないんだってことは分かってるけど。
『・・・もう、とっくに答えは出てるはずよ』
「それは・・・」
なおも言い澱んでいると、エリが唐突に爆弾を投げた。
『放課後はあんなにラブラブなのにねぇ~?』
「な・・・ッ!?」
うそ、見られた?っていうかこの女が見過ごすわけないか・・・いつ気付いたんだろう。
『とにかく、』
エリは真面目な口調で言った。
『もう付き合ってるも同然なのよ、アンタたちは。あとは気持ちの上でけじめをつけるだけ』
「けじめ・・・」
ひどく曖昧なこの関係に、今度こそ終止符を打たなきゃいけない。
でも、今まで踏み切れなかった理由は・・・・。
「バレー部、行くことにしたんだな」
特に約束していたわけでもないのに放課後ずるずると居残って、教室に二人だけになったのを確認してダイチが笑いかけてくる。
「うん。ありがとう、ダイチのおかげ」
最初は突っかかるばかりだったけれど、少しずつ素直になれるようになってきた。
ダイチが自分の机の上に座る。
「選んだのは明日香だろ?おれは人生の先輩としてアドバイスしただけ~」
「誕生日2ヶ月しか変わらないでしょうが」
わたしはその足の間に腰を下ろす。いつのまにかここが定位置になってしまった。
「よく頑張ったな、明日香」
ダイチがわたしの両肩をぽん、と叩く。
「何が?」
「マネージャーの仕事だよ。半年間、ちゃんとやり遂げた」
・・・本当は最後まで続けるべきだった。でも、わたしはバレーを捨てられないから。
「バレー、頑張れよ」
「・・・うん」
こういうダイチの優しさが、少しずつわたしを溶かしていく。本当のわたしを見つけ出してくれる。
わたしは、それが恐かった。
どんどん本当のわたしが露になっていって、それでもダイチは・・・わたしのことを、好きでいてくれる?
わたしは両肩に乗ったダイチの両手に自分の手を重ねた。
「明日香?」
そのまま手を掴んで前へ引っ張る。あっさりと、ダイチはわたしに覆いかぶさるような格好になった。
「あ、明日香?どうしたんだよいきなり・・・」
後頭部にダイチの鼓動を感じる。少し速い・・・わたしと同じリズムを刻む、鼓動の音。
・・・ごめんね。いっぱい我慢、させたよね。
「―ねえ、ダイチ」
「な、なんだ?」
「ちょっと相談したいことがあるんだけど・・・いいかな?」
ここ数日で何度も口にしたその言葉。ダイチはいつだって、真剣に話を聞いてくれた。
「・・・わたし、ダイチといると血圧が上がるみたい」
「え?」
「すごくね、心臓の音が速くなるんだ・・・。どうしてかな?」
わたしの鼓動が早まるのと同じように、ダイチの鼓動も速くなっていく。
「それは・・・それはさ、」
いつも真剣に話を聞いて、そうしてダイチはそれに答えてくれる。
「―おれのことが好きだから、じゃないの?」
ダイチのくれる答えは、大体いつも的を射ていた。
「そうだね・・・きっと、そう」
だからその言葉もきっと、正しい。
ダイチがわたしを好きでいる保証はないけど、嫌いになる保証もない。そういう風に、思うことにした。
今感じているこの鼓動は、確かに本物だ。それでいい。
お互いに少し黙って、鼓動の音を聞いていた。それは早まったままで、しばらく元には戻りそうもなくて。
―不意に、茶色いセーターを着たダイチの腕が目の前で交差した。
「なあ、明日香・・・」
左の視界にダイチの横顔を捉えて、ようやく抱き締められているんだと気付く。
「―キスしていい?」
わたしは黙ってその頬をぺちん、と叩いた。
「いてっ」
「調子に乗んな」
「えー、てっきりそういう雰囲気かと・・・」
ふっと腕が解かれる。
わたしは軽く身を捩ると、その首に手を掛けて―左頬をさするダイチに、唇を重ねた。
―何秒していたかなんて、数えていられなかった。
唇を離すと、そこには目を丸くしているダイチの顔。
「―ファーストキスはわたしからって決めてるんだから・・・だから勝手にされちゃ、困るの」
ダイチは今更のように赤くなった。
「・・・あ、あのさ明日香」
「何?」
「もう一回痛だだだだだだ!?」
わたしは最後まで聞かずに耳たぶを目いっぱい引っ張った。
「・・・何か言ったかしら?」
「ごめんなさい何でもないですッ!!」
わたしは耳を放す。全くもう・・・そんなにほいほい出来るわけ、ないじゃない。
・・・こっちは恥ずかしくて死にそうなのよ。
「痛ってー・・・・まじで千切れるかと思った」
ダイチが少し涙目になりながら左耳をさする。
「大げさねぇ、もう」
「だって本当に痛かったんだぞー?絶対赤くなってるだろ」
あんまり痛がられるのでちょっと心配になってくる。
「・・・ちょっと見せて」
机の上に膝立ちになって覗き込む。
うわ、本当に真っ赤・・・。わたしの指の跡くっきり残ってるし。
「どうだー?」
「痛そうね、本当・・・ごめん、ちょっとやりすぎた」
ダイチ相手だと手加減忘れちゃうのよね・・・。照れ隠しじゃ済まない。
反省の意味を込めて、わたしはダイチの耳たぶに唇を寄せた。
「えっあ、明日香ァッ!?な、何やって」
ダイチの声が裏返る。
「ちょっと、じっとしてて」
耳たぶを唇で優しく食んで、赤くなったところを舌で舐める。・・・ちょっとはマシになるといいけど。
「あ、明日香・・・」
呼ばれて舐める舌を止めると、ダイチがとんでもないことを口走った。
「これ、なんかすごくエロくない・・・?」
教室内に鈍い音が響いた。もちろん、ダイチの顎とわたしの拳が立てた音。
「いつの間にアッパーを習得したんだ、明日香・・・?」
仰向けに倒れたダイチが呻くけど、知ったこっちゃない。強いて言うならダイチの所為だと思う。
「信じらんない!なんでそういう発想に飛ぶのよ!?」
「しょうがないだろ、おれは健全な男子高校生なの!」
「こっちは心配してるのにどういう神経してんのよ、このスケベ!エロダイチ!!」
「ま、男はみーんな狼さんですからねー」
「開き直るな!」
ダイチは勢いよく上半身を起こすと机の上で胡坐をかき、にっと笑ってみせる。
「―でもおれは明日香限定の狼だから、許して?」
能天気な顔で小首を傾げて。・・・それで許すとでも思ってんのかコイツは。
・・・まあ、本当に許しちゃう自分が悔しいけど。
そういうバカなところが好きって、素直に言えるようになるのはいつの日か。
そんな日は当分来そうにないと、わたしは密かに溜息をついた。