幕間:vector B→C ~Bくんの不意打ち~
長い残暑の影響でまだ少し暖かかったから、たまには外に出ようかという話になった。
天野の図書当番のない日を見計らって、昼休みに裏庭へ出る。
「向こうの方はもうイチョウが色付いてるね、万里くん」
「ああ、ちょっと銀杏の匂いはきついけど」
「でもあの匂いがすると、秋だなあって感じがしない?」
「ああ・・・なんか、分かる気がする」
毎年顔を顰める、秋の風物詩。そう言われると嫌な気分も軽くなる。
「―少し冷える、天野?」
「あ・・・ちょっとだけ」
天野はカーディガンの袖から覗いた指先をこすり合わせるようにしている。
「今日は風があるからな・・・これ着て」
「・・・ありがとう」
上着を脱いで被せると、天野は少し顔を赤らめた。
適当なベンチに腰を下ろして、一息つく。こちらの木にも葉の赤いものがちらほらと混ざっていて、秋が確かにやってきていることを感じさせる。
お互いいつものように本は持って来ていたけれど、読む気にはならなかった。さっき拾ったイチョウの葉をくるくると弄んでいる俺に、天野が怪訝そうな顔を向ける。
「どうかしたの、万里くん?」
「ああ・・・もう半年以上経ったんだなって思ってさ」
「高校に入ってから?」
「いや、それもあるけど・・・」
天野と知り合ってから、半年。
もちろん同じクラスなのだから入学式の日には顔を合わせていたわけだけれど、俺にとって大事なのはあの日―図書室で初めて話した日。
―“ええと、図書委員だっけ?”“好きな人が・・・居るんだよね”
―“私、好きな人居るよ・・・”“私が好きなのは、万里くんだけ”
この半年を思い返しながら天野の方へ視線をやって。
「・・・どうしたの、万里くん?」
「いや・・・落葉、付いてる」
「え?」
「あ、待って。今取るから」
前髪辺りの赤く色付いたそれを取って、その視線の先。
―いつもより近くにある、天野の顔。
・・・いや待て。俺は一体何を考えているんだ?
「万里くん?」
天野が不思議そうに見上げてくるけれど、俺の意識はそこから離れてくれない。
濡れたように光る瞳。寒さに少し赤くなった頬。そして・・・。
いや駄目だ、よく考えろ。女の子にとってファーストキスって結構大事なものだったはず。それを許可もなく簡単に奪うのはまずいんじゃないか?
固まってしまった俺の背後から、少し強い風が吹きつけた。
「きゃっ・・・」
天野の前髪が風にふわりと揺れて、白い小さな額がのぞいた。
・・・このくらいなら、許されるかな。
栗色の柔らかい髪に手を添えて、俺はその額へそっと唇を落とした。
校庭を駆け回る男子たちの歓声。
中庭でお弁当を食べている女子たちの笑い声。
体育館から響くバスケットボールをドリブルする音。
確かにそこにあるのに、どこか遠かった。俺の意識は唇に触れた白い額にあったから。
火照った頬に冷たい風が心地よくて、しばらく時間を忘れた。
・・・これいつ離せばいいんだろう。
しまったタイミングを逃した、と思ったところで、さっきから天野の反応がないことに気付く。
唇を寄せたまま様子を窺うと・・・どうやら固まっているらしい。
「ご、ごめん天野。大丈夫?」
慌てて離れるも、天野はぼうっとしたまま微動だにしない。
「天野?・・・天野!」
「あ・・・万里くん・・・・・・え、あれ、っばば!?」
「え?」
「あ、あのっば、おで、え?だ、きす、いま」
何を言っているのかは分からないけれど、どうやらいきなりのことで混乱しているみたいだった。
肩に手を置いて軽く揺さぶる。
「お、落ち着いて天野」
「あ・・・うん・・・」
手を置いたまま俺は頭を下げた。
「・・・ごめん、驚かせて。もうしないから」
反省。つい出来心で、なんて誤魔化しはしない。
「いや、あの・・・顔上げて、万里くん」
「でも」
「ちょっと・・・びっくりしただけだから」
ちょっと、というレベルじゃなかった気もするけれど。
「本当に大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
「うん。・・・もう、信じてよ」
天野は困ったように苦笑して、
―ふと、頬に温かな感触。
“おかえし”だって、彼女はそう囁いて。
どうせなら唇にして欲しかったなんて、思わないでもなかったけれど。
・・・君が、桜色に染まった頬で微笑んでみせるから。
だからこれでいいやって、そう思うんだ。
「・・・信じてくれた?」
言葉に出来ない、込み上げるこのどうしようもない愛しさを、彼女にも与えてあげられたというのなら。
「・・・うん」
俺のしたことは確かに、間違いじゃない。
抱き締めたい衝動にかられたのを遮るように、天野がおずおずと口を開いた。
「・・・万里くん、あの」
「え?」
「葉っぱ、付いてるんだけど・・・」
「あ・・・」
格好悪いな、と自分でそれを取って、その台詞に天野がちょっと笑って。
こういう背伸びのいらない関係がひどく心地いいから、だからこのままでいい。このままでいたい。
そんな、ある秋の午後。