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戦死したはずの婚約者が、片腕を失って帰ってきました―「君を両腕で抱けない」と言うので、残った腕を私の背中に回しました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/07

「婚約を解消してほしい。今の俺では、君を幸せにできない」


 三年間、待ち続けた人がそう言った。


 応接室の卓上に、青い革張りの小箱が置かれた。出征前に私が預けた、婚約指輪の箱だった。

 それを置いたのは左手だ。

 レオンの右袖は、肘より上で平らに留められていた。


「指輪を返すために、帰っていらしたのですか」

「君には、新しい縁談があると聞いた」


 つい先ほどまで、私は父の書斎にいた。

 誠実な文官、オスカー・リンドベルク様との縁談を受けようと思いますと、伝えていた。

 その途中で執事が駆け込んできたのだ。


 レオン・アルベール様がお見えです、と。


 三年前に国境で行方不明になり、二年前に戦死を告げられた、私の婚約者。

 廊下を走りながら、また夢を見ているのだと思った。

 目が覚める前に会わなければと、そればかり考えていた。


 金褐色の髪は伸び、頬には傷があった。

 それでも私を見た灰色の瞳は、レオンのものだった。


「クラリス」


 名前を呼ばれたときには、膝から力が抜けそうになった。

 なのに彼は、私が駆け寄る前に一歩引いた。

 そして、別れを切り出した。


「俺が死んだものとして、君の時間はようやく動き始めたんだろう」


 私は小箱を彼のほうへ押し戻した。


「まだ、お返事はしていません」

「だが――」

「縁談にも、今のあなたのお話にもです」


 袖を見ないようにしていた。見れば、泣いてしまいそうだった。

 嬉しくて泣くのか、失われた腕を見て泣くのか、私にも分からない。


「今日は、別れると決めて帰らないでください」

「俺はもう、以前の俺とは」

「まず、何があったのかをお聞かせください」


 生きて帰った人を、また玄関から見送るために、三年待ったのではなかった。


 レオンは私から少し離れた椅子に腰掛けた。


 三年前、彼の部隊は国境の砦から撤退する途中で敵軍に追いつかれた。レオンは負傷した仲間を逃がすために残り、捕らえられた。


 傷を負った右腕は、捕虜収容所で悪化した。助かるには切り落とすしかなかったという。


「手紙は出せなかったのですか」

「捕虜が外へ出せる手紙は、家族宛ての一通だけだった。それも届いたかは分からない」

「アルベール子爵家には届いていません」

「そうか」


 彼は、それだけ言った。


 二年半の捕虜生活を、短い言葉で済ませようとする。どんな場所で、何をされ、何を見てきたのか。尋ねたいのに、今の彼に聞いてよいのか分からなかった。


「春に休戦協定が結ばれ、捕虜交換で帰国した。傷の確認と身元の照合に時間がかかって、王都に着いたのは十日前だ」

「十日前……」


 十日も前に、同じ王国へ帰っていた。

 責める気持ちが顔に出たのだろう。レオンは目を伏せた。


「実家には生還の知らせを送った。君には自分の口で伝えたいと頼んでいた。だが、君には縁談があると聞いて、会いに来るのが怖くなった」

「それで、会わずに帰るおつもりだったのですか」

「そのほうがいいと思った」

「私に確かめずに?」


 レオンは答えなかった。


 腹が立った。

 生きていたことではない。腕を失ったことでもない。


 私を守るという顔をして、私の気持ちまで一人で決めようとしていることに腹が立った。


「あなたがどうしたいのかも、聞きたいです」

「指輪を返して、君を自由にしたい」

「それは、私にどうしてほしいか、でしょう」


 レオンは黙った。

 私も、それ以上は言えなかった。彼が過ごした三年間を、私は何も知らない。

 腕の傷がどれほど痛むのかも、今どれほど疲れているのかも。


「今日は、この家で休んでください。お父様もお母様も、お会いしたがっています」

「宿を取っている」

「宿へ戻るのは明日にして、今夜だけでも」


 少し待って、付け加えた。


「……私も、もう少し一緒にいたいのです」


 彼が小箱へ目を落とした。

 やがて、左手を離した。


「分かった」


 夕食には、父と母も同席した。


 母はレオンの顔を見た途端に泣き出し、父は何度も無事を喜んだ。レオンは申し訳なさそうにしながらも、二人の言葉に一つずつ答えていた。


 食卓には、厨房が腕を振るった料理が並んだ。

 けれど給仕が肉料理を置いた瞬間、レオンの表情がかすかに強張った。


 大きな肉には、ナイフとフォークの両方が必要だった。


 給仕もすぐに気づいたらしい。


「小さく切り分けてまいります」


 皿を下げようとした手を、レオンが止めた。


「必要ない」

「ですが――」

「食欲がないんだ」


 レオンはフォークだけを取り、付け合わせの野菜を口へ運んだ。

 父も母も何も言わなかった。食卓から会話だけが消えた。


 以前のレオンなら、肉料理を真っ先に平らげていた。遠乗りへ出た日には私の分まで欲しがり、私が呆れると、騎士は身体が資本だからと笑っていた。


 目の前の皿へ手を伸ばしかけて、私は止めた。

 勝手に切り分ければ、彼を助けることはできる。けれど、彼が拒んだものを押しつけることにもなる。


 私は給仕を呼び、自分の皿を指した。


「申し訳ないけれど、私の分も小さく切ってきてもらえる? 今日は少し手首が痛むの」


 嘘は下手だったと思う。

 レオンがこちらを見たからだ。


「私の分も、レオン様の分もお願いします」


 母が続け、父も無言で自分の皿を給仕へ渡した。

 結局、四人分の肉が切り分けられて戻ってきた。


 レオンはしばらく皿を見つめていたが、やがて一切れを口へ運んだ。


「ここの料理は、変わらないな」

「料理長が、レオン様のお好きな味を覚えていたそうです」


 答えると、彼はもう一切れ食べた。

 それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。


 けれど食後、レオンが水の入ったグラスを倒した。

 左手で取ろうとして指先が滑っただけだった。誰にでも起こり得る失敗なのに、彼の顔から血の気が引いた。


「すまない」


 立ち上がろうとした拍子に椅子まで鳴った。


「服が濡れてしまいます。どうか、そのままで」


 給仕が布を持ってくるより先に、レオンは食堂を出ていった。


 私は追いかけなかった。

 今追えば、失敗を見られた彼をさらに追い詰める気がした。


 その晩、私はほとんど眠れなかった。


 小箱から取り出した婚約指輪を、掌の上で何度も転がした。


 出征前夜のことを思い出す。


 私は家族に内緒で、騎士団の詰所までレオンに会いに行った。

 泣けば彼を困らせると分かっていたから、必死に笑っていた。


『帰ってきたら、最初に何をしてくださいますか』


 私が尋ねると、レオンは答える代わりに、私を両腕で抱き締めた。


『今と同じように、君を抱き締める』

『約束ですよ』

『ああ。必ず帰って、今度は君が苦しいと言うまで離さない』


 彼は帰ってきた。


 その声を、もう一度聞けた。

 けれど、抱き締める約束は、彼のほうから一度も口にしなかった。


 水を飲もうと寝台を出たとき、庭に人影が見えた。


 上着を羽織り、外へ出る。

 月明かりの下で、レオンが石の長椅子に座っていた。


「眠れないのですか」


 声をかけると、レオンの肩が跳ねた。


「起こしたか」

「いいえ。私も眠れませんでした」


「隣にいても、よいですか」

「……ああ」


 彼は少し端へ寄った。座ろうとした私を見て、左手を上げる。


「待って。そこは濡れている」


 昼間の雨が、石のくぼみに残っていた。

 レオンは畳んで膝に置いていた外套を、私の座る場所へ広げた。


「あなたが寒くなります」

「俺は上着を着ている。君は、昔から冷えると眠れなくなるだろう」


 覚えていてくれた。

 雨の日の遠乗りで、帰ってからも指が冷たいと言ったことまで。


「では、少しだけお借りします」


 外套の上に座ると、彼は私の裾が地面につかないよう、もう少し場所を空けた。

 その動きが、昔と同じだった。幼いころ、二人で菓子を隠れて食べたときも、彼は必ず私の場所を空けてくれた。


 レオンは左手で顔を覆った。


「捕虜収容所では、器を落としても誰も笑わなかった。皆、似たようなものだったからな。だが、ここでは違う。以前の俺を知っている人間ばかりだ」

「変わったところを見られるのが、お嫌なのですね」

「哀れまれるのが嫌なんだ」


 はっきり言われ、胸が痛んだ。


「私も、あなたを哀れんでいるように見えますか」

「分からない」


 取り繕わない返事だった。


「俺自身にも分からないんだ。君に会いたかった。会えば帰ってきたのだと思える気がした。だが、会ったら、以前の俺には戻れないことばかり分かった」


 レオンは、ないはずの右腕へ目を向けた。


「今も指が痛むことがある」

「指が?」

「もうない指だ。握っている気がするのに、開くことができない。眠れば右手で剣を握っている。目を覚まして、なくなったことを思い出す」


 私は何も言えなかった。

 分かるなどと言えば、嘘になる。


 代わりに、長椅子の上へ置かれていた彼の左手に、自分の指先を重ねた。

 レオンは振り払わなかった。


「今すぐ以前のように戻ってほしいとは思っていません」

「戻れない」

「では、今のあなたを知る時間をください」


 彼の左手が、わずかに動いた。

 けれど私の手を握る前に、膝の上へ戻ってしまった。


「君には、俺を知り直す義務などない」

「義務でここにいるのではありません」


 彼が左手の指を握り込んだ。

 私は追って触れず、隣に座っていた。


「明日も、お話しできますか」


 しばらくして、彼が頷いた。


「……ああ」


 部屋へ戻るとき、レオンは私を先に立たせた。立ち上がって外套を返そうとすると、扉まで羽織っていろと言った。

 私はその言葉に甘え、彼と並んで屋敷へ戻った。

 別れを告げるためだけに来たと言っていた彼から、初めて別の言葉を聞けた。


 会いたかった。


 レオンは、確かにそう言った。


 翌朝、レオンは父と話をした。

 昼前に書斎から出てきた彼を、私は廊下で待っていた。


「領地へ戻ることにした。兄上が、屋敷で暮らせばいいと言ってくれている」

「いつ、発つのですか」

「夕方には」


 彼は私の指を見た。

 指輪は、まだはめていなかった。


「君は、オスカー殿と会うんだろう」

「はい。今日、お返事をします」


 レオンの口元が動いた。けれど、笑みにはならなかった。


「立派な方だと聞いている」

「そうです。でも、お返事は私が決めます」


 レオンは頷きかけて、目を伏せた。

 私は彼の前に立った。


「レオン。私と別れたいのですか」

「そういうことじゃない」


 今度は、すぐに返事があった。


「君と結婚したかった。今だって、昨日の食卓にずっと座っていたかった」


 胸が熱くなった。けれど彼は、右袖へ目を落とした。


「着替えにも人の手を借りることがある。夜中に、ない指が痛んで眠れない。君にどれだけ苦労をかけるのか、俺にも分からない」


 私にも分からなかった。

 生きていたことが嬉しくて、これからの暮らしを、まだ具体的には考えられていない。


「一緒に暮らして、困ることはあると思います」


 レオンの顔が硬くなった。


「でも、それをあなた一人で決めないでください。私にも考えさせてください」


 彼の左手が上がった。

 頬へ触れるのかと思った。けれど、私の肩の手前で止まる。


「君を両腕で抱くことさえ、もうできない」

「……あの約束を、覚えていたのですね」


 彼は唇を結び、手を下ろした。


「お返事をしたら、あなたにも話があります」


 レオンはしばらく黙っていた。


「夕方の五時に発つ。それまでは、ここにいる」

「その前に、お話ししに行きます」


 私はそう伝えて、自室へ戻った。


 小箱を開けた。

 指輪を取り出し、指にはめてみた。三年前と変わらず、ぴたりと収まった。


 前のレオンと同じ姿で帰ってくる夢ばかり、見ていた。

 今の彼を見て驚き、触れようとしてためらった。その一瞬を、彼も見ていた。


 怖いことがないわけではない。

 それでも、昨夜、眠れない彼を一人で庭に残して部屋へ戻りたくなかった。

 今日も。明日も。


 指輪を抜き、小箱へ戻した。

 もう一度、はめてもらいたかった。


 午後四時半、約束どおりにオスカー様がお見えになった。

 私は昨日レオンが帰ったことを話し、頭を下げた。


「縁談は、お断りさせてください」


 オスカー様は、しばらく黙っていた。


「レオン殿と、これからをお考えなのですね」

「はい。まだ、あの方に聞いてもらえていませんが」


 顔を上げると、彼は少し困ったように笑った。


「では、私が長居しては、いけませんね」

「申し訳ありません」

「残念です。でも、ご自分で決めたお返事をいただけてよかった」


 彼は席を立ち、帰り際にレオンの無事を喜ぶ言葉を父へ伝えてくださった。

 最後まで誠実な方だった。

 私は礼をして見送り、小箱を取りに自室へ戻った。


 小箱を手に廊下へ出たとき、柱時計の針は五時を少し過ぎていた。

 思っていたより、時間が過ぎていた。

 レオンの部屋の扉が開いている。

 中には誰もいなかった。


 客間を飛び出し、玄関にいた執事に尋ねた。


「レオンは?」

「つい先ほど、馬車で出発なさいました」

「どの道を?」

「西門へ向かう街道です。紺色の車体で、扉にアルベール家の紋章があります」


 家の馬車を用意してもらう時間さえ惜しかった。

 オスカー様をお送りした家の馬車が、ちょうど門から戻ってきた。

 私は御者に行き先を告げ、西門へ急いだ。


 御者が馬を走らせてくれたが、レオンの馬車は見えない。


 三年前も、私は彼を見送ることしかできなかった。

 今度も、何も伝えずに行かせるのか。


 嫌だった。


 街道が西門へ差しかかるころ、前方に一台の馬車が見えた。


「アルベール家の馬車です。あの御者なら、呼べば止まってくれます」


 御者の声に、私は窓から身を乗り出しかけた。

 紺色の車体が見える。


「呼び止めてください!」


 御者が手綱を鳴らした。


 門を出たところで、二台の馬車が並んだ。

 御者が呼びかけると、レオンの馬車も道の端に止まった。

 私の馬車が止まるのを待って、扉を開けた。


 地面へ降りる。

 前の馬車からレオンが姿を現した。


「クラリス? どうしてここに」

「私の話を聞かずに、帰らないでください」


 息を切らしながら、彼の前まで歩いた。


「五時までに伺うと言ったのに、遅くなりました。でも、どうしても今日、お伝えしたくて」

「……オスカー殿への返事は」

「お断りしました」


 レオンが息をのんだ。


「五時になって、君が来なかったから……受けたのだと思った」


 彼の声がかすれた。


「それでも、確かめるのが怖かった。断ったと聞いたら、帰れなくなると思った」

「あなたと結婚したいから、お断りしました。その返事を聞くのが、そんなにお嫌ですか」


 レオンが首を振った。

 朝、私へ伸ばしかけた手が、また持ち上がった。けれど、触れる前に止まってしまう。


 私は婚約指輪の入った小箱を、彼に見せた。


「この三年間、あなたの死を受け入れようとしました。何度も諦めようとしました。それでもできなかった。ようやく帰ってきたあなたに、今度はあなた自身から諦めろと言われるなんて、あんまりです」


「クラリス……」

「あなたは、私を幸せにできないと言いました。でも、あなたが死んだと聞かされた日より不幸な日に、私はまだ出会っていません」


 レオンの左手が強く握られた。


「昨夜、私が冷えると眠れないことを、覚えていてくださいましたね」


 レオンが私を見た。


「私の好きな人が帰ってきたのです。以前と違うところもありました。でも、隣にいたいと思いました。今のあなたと」


 小箱をポケットへ戻し、私は彼の左手を取った。


 硬い指だった。剣を握っていたころとは違う場所に、いくつもの傷が残っている。


「君を両腕で抱くこともできない」

「両腕でなくても構いません」


 彼の左腕を持ち上げ、自分の背中へ回した。

 そして私から一歩近づき、彼の胸に頬を寄せた。


「片方あれば、私を抱き締めるには十分でしょう」


 背中に回された腕は、すぐには動かなかった。


 やがて、恐る恐る確かめるように力がこもった。

 少しずつ、強くなる。


「もう少し、強く」


 私が言うと、頭上でレオンの息が止まった。


「苦しくなる」

「まだです」

「クラリス」

「三年分です。私が苦しいと言うまで離さない約束でしょう」


 レオンの身体が震えた。


 私の髪に、温かい雫が落ちる。


「帰るのが遅くなった」

「はい。本当に」

「すまなかった」

「それはもう聞きました」

「ただいま、クラリス」


 私は目を閉じた。


「おかえりなさい、レオン」


     ◇


 その日は二人で屋敷へ戻り、両親にこれからも会い続けたいと伝えた。

 翌日、レオンは一度領地へ戻った。

 家族と会い、傷の診察を受け、暮らしを整える時間が必要だった。


 私は手紙を書いた。次はいつ会えるかと、遠慮せずに尋ねた。

 左手で書かれた返事は、字の大きさがばらばらだった。けれど二通目には、私が尋ねる前に日付があった。


『来月の十七日に行ってもいいか。君に会いたい』


 その日、私は彼の左肘に手を添え、庭を歩いた。

 領地で飼い始めた犬のこと、私が母の代わりに出た夜会のこと。昔話だけでは、一日が足りなくなった。


「今日は、もう休みたい」


 話の途中で、レオンがそう言ったこともある。

 少し寂しかったけれど、次に来る日を決めて見送った。帰り際、彼が私の指に触れた。


「続きは、次に聞かせてくれ」


 三か月後、レオンは王都へ住まいを移した。

 元の上官から、王立騎士学校の教官補佐に誘われていたのだ。

 剣技ではなく、撤退の判断や、負傷者を運ぶ方法を教える仕事だった。


 すぐに引き受けることはできず、まず見学だけすると返事をしたらしい。

 彼に誘われ、私も学校の門までついていった。


 訓練を終えた少年たちが、泥だらけで戻ってきた。

 一人がレオンの顔を見て、足を止めた。


「アルベール騎士ですか」

「そうだが」

「兄から聞きました。兄を逃がすために、その場に残ってくださったと。学校に来られるのでしたら、きっとお会いできると」


 少年は姿勢を正し、深く頭を下げた。


「兄は、今年子供が生まれました」


 レオンが唇を開き、閉じた。

 少しして、「そうか」と答えた。


「……よかった」


 少年が去ったあとも、彼は門の向こうを見ていた。

 私はその横で、待っていた。


「上官に、話を聞いてくる」


 レオンは自分から、門をくぐった。


 数日後、教官補佐の職を受けたと教えてくれた。

 初めは週に二日、ほかの教官と一緒に授業へ出ることになった。


 初日の帰り、彼は私の屋敷へ寄った。


「一人の生徒が、負傷者を背負ったまま転んだんだ」


 外套を脱ぎながら話す彼に、私は椅子を勧めた。


「どこか、お怪我を?」

「大きな傷はなかった。ただ、自分は騎士に向いていないと言い出して」


 レオンは少し黙った。


「俺も転んだことがあると話した。背負った仲間に、落とすなら先に言えと怒られたことも」

「その生徒は、どうなさったのですか」

「笑ったよ。上官も覚えていて、余計な話までしてくれた」


 困ったように言う口元が、緩んでいた。

 私はお茶を注ぎ、向かいに座った。


「その余計なお話も、聞いてよいですか」


 彼は嫌そうな顔をして、それでも話してくれた。


 眠れない夜は、まだあった。

 右袖を留めたあと、長く鏡の前に立つ日も。

 けれど、会う日を決めるのも、話を始めるのも、私からばかりではなくなった。


 翌年の春、レオンが小箱を持って訪ねてきた。


 青い革の端が、少し擦れていた。

 王都へ戻ったとき、私が彼へ預け直したものだった。


「父上に、お話があるのですか」

「その前に、君に」


 彼は庭の長椅子の前で、私に向き直った。

 今度は小箱を卓上へ置かず、自分の手で開けた。


「クラリス。俺と結婚してほしい」


 すぐに頷こうとして、彼がまだ私を見つめていることに気づいた。


 指輪が、春の光を受けていた。

 私は彼の次の言葉を待った。


「君と暮らしたい。今日あったことを話して、明日の約束をして。君が夜会で嫌な思いをした日には、その話も聞きたい」


 夜会の話は、三日前にしたばかりだった。

 つまらない嫌味を言われ、腹を立てて帰ったことまで。


「話が長くなるかもしれませんよ」

「知っている」


 彼が笑った。


「君が好きだ。今も、結婚してからも、一緒にいたい」


 私は、左手を差し出した。


「はい。私も、あなたと暮らしたいです」


 レオンが、私を長椅子へ座らせた。

 小箱を隣へ置き、指輪をつまむ。

 私は自分の手を、彼の膝の上へ載せた。


 少し時間はかかった。

 彼は角度を確かめながら、ゆっくり指輪をはめた。


「入った」


 ほっとした声がおかしくて、私は笑った。

 レオンも笑い、私の手を持ち上げて、指輪のすぐ上へ口づけた。


 その初夏、私たちは結婚した。


 式を終え、二人だけになった部屋で、レオンが私に近づいた。

 左腕が、背中へ回る。

 今度は私が持ち上げなくても、彼のほうから。


「最初にすることは、決めていた」


 彼の胸へ頬を寄せた。


「約束を覚えていらっしゃいますか」

「一日も忘れたことはない」


 抱き寄せる腕に、力がこもった。

 私は彼の上着をつかんだ。


「苦しくないか」

「まだです」


 頭上で、小さく笑う声がした。

 背中に添えられた手が、私をもう少し近くへ寄せた。


「もう少し、強く抱き締めてください」


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