戦死したはずの婚約者が、片腕を失って帰ってきました―「君を両腕で抱けない」と言うので、残った腕を私の背中に回しました
「婚約を解消してほしい。今の俺では、君を幸せにできない」
三年間、待ち続けた人がそう言った。
応接室の卓上に、青い革張りの小箱が置かれた。出征前に私が預けた、婚約指輪の箱だった。
それを置いたのは左手だ。
レオンの右袖は、肘より上で平らに留められていた。
「指輪を返すために、帰っていらしたのですか」
「君には、新しい縁談があると聞いた」
つい先ほどまで、私は父の書斎にいた。
誠実な文官、オスカー・リンドベルク様との縁談を受けようと思いますと、伝えていた。
その途中で執事が駆け込んできたのだ。
レオン・アルベール様がお見えです、と。
三年前に国境で行方不明になり、二年前に戦死を告げられた、私の婚約者。
廊下を走りながら、また夢を見ているのだと思った。
目が覚める前に会わなければと、そればかり考えていた。
金褐色の髪は伸び、頬には傷があった。
それでも私を見た灰色の瞳は、レオンのものだった。
「クラリス」
名前を呼ばれたときには、膝から力が抜けそうになった。
なのに彼は、私が駆け寄る前に一歩引いた。
そして、別れを切り出した。
「俺が死んだものとして、君の時間はようやく動き始めたんだろう」
私は小箱を彼のほうへ押し戻した。
「まだ、お返事はしていません」
「だが――」
「縁談にも、今のあなたのお話にもです」
袖を見ないようにしていた。見れば、泣いてしまいそうだった。
嬉しくて泣くのか、失われた腕を見て泣くのか、私にも分からない。
「今日は、別れると決めて帰らないでください」
「俺はもう、以前の俺とは」
「まず、何があったのかをお聞かせください」
生きて帰った人を、また玄関から見送るために、三年待ったのではなかった。
レオンは私から少し離れた椅子に腰掛けた。
三年前、彼の部隊は国境の砦から撤退する途中で敵軍に追いつかれた。レオンは負傷した仲間を逃がすために残り、捕らえられた。
傷を負った右腕は、捕虜収容所で悪化した。助かるには切り落とすしかなかったという。
「手紙は出せなかったのですか」
「捕虜が外へ出せる手紙は、家族宛ての一通だけだった。それも届いたかは分からない」
「アルベール子爵家には届いていません」
「そうか」
彼は、それだけ言った。
二年半の捕虜生活を、短い言葉で済ませようとする。どんな場所で、何をされ、何を見てきたのか。尋ねたいのに、今の彼に聞いてよいのか分からなかった。
「春に休戦協定が結ばれ、捕虜交換で帰国した。傷の確認と身元の照合に時間がかかって、王都に着いたのは十日前だ」
「十日前……」
十日も前に、同じ王国へ帰っていた。
責める気持ちが顔に出たのだろう。レオンは目を伏せた。
「実家には生還の知らせを送った。君には自分の口で伝えたいと頼んでいた。だが、君には縁談があると聞いて、会いに来るのが怖くなった」
「それで、会わずに帰るおつもりだったのですか」
「そのほうがいいと思った」
「私に確かめずに?」
レオンは答えなかった。
腹が立った。
生きていたことではない。腕を失ったことでもない。
私を守るという顔をして、私の気持ちまで一人で決めようとしていることに腹が立った。
「あなたがどうしたいのかも、聞きたいです」
「指輪を返して、君を自由にしたい」
「それは、私にどうしてほしいか、でしょう」
レオンは黙った。
私も、それ以上は言えなかった。彼が過ごした三年間を、私は何も知らない。
腕の傷がどれほど痛むのかも、今どれほど疲れているのかも。
「今日は、この家で休んでください。お父様もお母様も、お会いしたがっています」
「宿を取っている」
「宿へ戻るのは明日にして、今夜だけでも」
少し待って、付け加えた。
「……私も、もう少し一緒にいたいのです」
彼が小箱へ目を落とした。
やがて、左手を離した。
「分かった」
夕食には、父と母も同席した。
母はレオンの顔を見た途端に泣き出し、父は何度も無事を喜んだ。レオンは申し訳なさそうにしながらも、二人の言葉に一つずつ答えていた。
食卓には、厨房が腕を振るった料理が並んだ。
けれど給仕が肉料理を置いた瞬間、レオンの表情がかすかに強張った。
大きな肉には、ナイフとフォークの両方が必要だった。
給仕もすぐに気づいたらしい。
「小さく切り分けてまいります」
皿を下げようとした手を、レオンが止めた。
「必要ない」
「ですが――」
「食欲がないんだ」
レオンはフォークだけを取り、付け合わせの野菜を口へ運んだ。
父も母も何も言わなかった。食卓から会話だけが消えた。
以前のレオンなら、肉料理を真っ先に平らげていた。遠乗りへ出た日には私の分まで欲しがり、私が呆れると、騎士は身体が資本だからと笑っていた。
目の前の皿へ手を伸ばしかけて、私は止めた。
勝手に切り分ければ、彼を助けることはできる。けれど、彼が拒んだものを押しつけることにもなる。
私は給仕を呼び、自分の皿を指した。
「申し訳ないけれど、私の分も小さく切ってきてもらえる? 今日は少し手首が痛むの」
嘘は下手だったと思う。
レオンがこちらを見たからだ。
「私の分も、レオン様の分もお願いします」
母が続け、父も無言で自分の皿を給仕へ渡した。
結局、四人分の肉が切り分けられて戻ってきた。
レオンはしばらく皿を見つめていたが、やがて一切れを口へ運んだ。
「ここの料理は、変わらないな」
「料理長が、レオン様のお好きな味を覚えていたそうです」
答えると、彼はもう一切れ食べた。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
けれど食後、レオンが水の入ったグラスを倒した。
左手で取ろうとして指先が滑っただけだった。誰にでも起こり得る失敗なのに、彼の顔から血の気が引いた。
「すまない」
立ち上がろうとした拍子に椅子まで鳴った。
「服が濡れてしまいます。どうか、そのままで」
給仕が布を持ってくるより先に、レオンは食堂を出ていった。
私は追いかけなかった。
今追えば、失敗を見られた彼をさらに追い詰める気がした。
その晩、私はほとんど眠れなかった。
小箱から取り出した婚約指輪を、掌の上で何度も転がした。
出征前夜のことを思い出す。
私は家族に内緒で、騎士団の詰所までレオンに会いに行った。
泣けば彼を困らせると分かっていたから、必死に笑っていた。
『帰ってきたら、最初に何をしてくださいますか』
私が尋ねると、レオンは答える代わりに、私を両腕で抱き締めた。
『今と同じように、君を抱き締める』
『約束ですよ』
『ああ。必ず帰って、今度は君が苦しいと言うまで離さない』
彼は帰ってきた。
その声を、もう一度聞けた。
けれど、抱き締める約束は、彼のほうから一度も口にしなかった。
水を飲もうと寝台を出たとき、庭に人影が見えた。
上着を羽織り、外へ出る。
月明かりの下で、レオンが石の長椅子に座っていた。
「眠れないのですか」
声をかけると、レオンの肩が跳ねた。
「起こしたか」
「いいえ。私も眠れませんでした」
「隣にいても、よいですか」
「……ああ」
彼は少し端へ寄った。座ろうとした私を見て、左手を上げる。
「待って。そこは濡れている」
昼間の雨が、石のくぼみに残っていた。
レオンは畳んで膝に置いていた外套を、私の座る場所へ広げた。
「あなたが寒くなります」
「俺は上着を着ている。君は、昔から冷えると眠れなくなるだろう」
覚えていてくれた。
雨の日の遠乗りで、帰ってからも指が冷たいと言ったことまで。
「では、少しだけお借りします」
外套の上に座ると、彼は私の裾が地面につかないよう、もう少し場所を空けた。
その動きが、昔と同じだった。幼いころ、二人で菓子を隠れて食べたときも、彼は必ず私の場所を空けてくれた。
レオンは左手で顔を覆った。
「捕虜収容所では、器を落としても誰も笑わなかった。皆、似たようなものだったからな。だが、ここでは違う。以前の俺を知っている人間ばかりだ」
「変わったところを見られるのが、お嫌なのですね」
「哀れまれるのが嫌なんだ」
はっきり言われ、胸が痛んだ。
「私も、あなたを哀れんでいるように見えますか」
「分からない」
取り繕わない返事だった。
「俺自身にも分からないんだ。君に会いたかった。会えば帰ってきたのだと思える気がした。だが、会ったら、以前の俺には戻れないことばかり分かった」
レオンは、ないはずの右腕へ目を向けた。
「今も指が痛むことがある」
「指が?」
「もうない指だ。握っている気がするのに、開くことができない。眠れば右手で剣を握っている。目を覚まして、なくなったことを思い出す」
私は何も言えなかった。
分かるなどと言えば、嘘になる。
代わりに、長椅子の上へ置かれていた彼の左手に、自分の指先を重ねた。
レオンは振り払わなかった。
「今すぐ以前のように戻ってほしいとは思っていません」
「戻れない」
「では、今のあなたを知る時間をください」
彼の左手が、わずかに動いた。
けれど私の手を握る前に、膝の上へ戻ってしまった。
「君には、俺を知り直す義務などない」
「義務でここにいるのではありません」
彼が左手の指を握り込んだ。
私は追って触れず、隣に座っていた。
「明日も、お話しできますか」
しばらくして、彼が頷いた。
「……ああ」
部屋へ戻るとき、レオンは私を先に立たせた。立ち上がって外套を返そうとすると、扉まで羽織っていろと言った。
私はその言葉に甘え、彼と並んで屋敷へ戻った。
別れを告げるためだけに来たと言っていた彼から、初めて別の言葉を聞けた。
会いたかった。
レオンは、確かにそう言った。
翌朝、レオンは父と話をした。
昼前に書斎から出てきた彼を、私は廊下で待っていた。
「領地へ戻ることにした。兄上が、屋敷で暮らせばいいと言ってくれている」
「いつ、発つのですか」
「夕方には」
彼は私の指を見た。
指輪は、まだはめていなかった。
「君は、オスカー殿と会うんだろう」
「はい。今日、お返事をします」
レオンの口元が動いた。けれど、笑みにはならなかった。
「立派な方だと聞いている」
「そうです。でも、お返事は私が決めます」
レオンは頷きかけて、目を伏せた。
私は彼の前に立った。
「レオン。私と別れたいのですか」
「そういうことじゃない」
今度は、すぐに返事があった。
「君と結婚したかった。今だって、昨日の食卓にずっと座っていたかった」
胸が熱くなった。けれど彼は、右袖へ目を落とした。
「着替えにも人の手を借りることがある。夜中に、ない指が痛んで眠れない。君にどれだけ苦労をかけるのか、俺にも分からない」
私にも分からなかった。
生きていたことが嬉しくて、これからの暮らしを、まだ具体的には考えられていない。
「一緒に暮らして、困ることはあると思います」
レオンの顔が硬くなった。
「でも、それをあなた一人で決めないでください。私にも考えさせてください」
彼の左手が上がった。
頬へ触れるのかと思った。けれど、私の肩の手前で止まる。
「君を両腕で抱くことさえ、もうできない」
「……あの約束を、覚えていたのですね」
彼は唇を結び、手を下ろした。
「お返事をしたら、あなたにも話があります」
レオンはしばらく黙っていた。
「夕方の五時に発つ。それまでは、ここにいる」
「その前に、お話ししに行きます」
私はそう伝えて、自室へ戻った。
小箱を開けた。
指輪を取り出し、指にはめてみた。三年前と変わらず、ぴたりと収まった。
前のレオンと同じ姿で帰ってくる夢ばかり、見ていた。
今の彼を見て驚き、触れようとしてためらった。その一瞬を、彼も見ていた。
怖いことがないわけではない。
それでも、昨夜、眠れない彼を一人で庭に残して部屋へ戻りたくなかった。
今日も。明日も。
指輪を抜き、小箱へ戻した。
もう一度、はめてもらいたかった。
午後四時半、約束どおりにオスカー様がお見えになった。
私は昨日レオンが帰ったことを話し、頭を下げた。
「縁談は、お断りさせてください」
オスカー様は、しばらく黙っていた。
「レオン殿と、これからをお考えなのですね」
「はい。まだ、あの方に聞いてもらえていませんが」
顔を上げると、彼は少し困ったように笑った。
「では、私が長居しては、いけませんね」
「申し訳ありません」
「残念です。でも、ご自分で決めたお返事をいただけてよかった」
彼は席を立ち、帰り際にレオンの無事を喜ぶ言葉を父へ伝えてくださった。
最後まで誠実な方だった。
私は礼をして見送り、小箱を取りに自室へ戻った。
小箱を手に廊下へ出たとき、柱時計の針は五時を少し過ぎていた。
思っていたより、時間が過ぎていた。
レオンの部屋の扉が開いている。
中には誰もいなかった。
客間を飛び出し、玄関にいた執事に尋ねた。
「レオンは?」
「つい先ほど、馬車で出発なさいました」
「どの道を?」
「西門へ向かう街道です。紺色の車体で、扉にアルベール家の紋章があります」
家の馬車を用意してもらう時間さえ惜しかった。
オスカー様をお送りした家の馬車が、ちょうど門から戻ってきた。
私は御者に行き先を告げ、西門へ急いだ。
御者が馬を走らせてくれたが、レオンの馬車は見えない。
三年前も、私は彼を見送ることしかできなかった。
今度も、何も伝えずに行かせるのか。
嫌だった。
街道が西門へ差しかかるころ、前方に一台の馬車が見えた。
「アルベール家の馬車です。あの御者なら、呼べば止まってくれます」
御者の声に、私は窓から身を乗り出しかけた。
紺色の車体が見える。
「呼び止めてください!」
御者が手綱を鳴らした。
門を出たところで、二台の馬車が並んだ。
御者が呼びかけると、レオンの馬車も道の端に止まった。
私の馬車が止まるのを待って、扉を開けた。
地面へ降りる。
前の馬車からレオンが姿を現した。
「クラリス? どうしてここに」
「私の話を聞かずに、帰らないでください」
息を切らしながら、彼の前まで歩いた。
「五時までに伺うと言ったのに、遅くなりました。でも、どうしても今日、お伝えしたくて」
「……オスカー殿への返事は」
「お断りしました」
レオンが息をのんだ。
「五時になって、君が来なかったから……受けたのだと思った」
彼の声がかすれた。
「それでも、確かめるのが怖かった。断ったと聞いたら、帰れなくなると思った」
「あなたと結婚したいから、お断りしました。その返事を聞くのが、そんなにお嫌ですか」
レオンが首を振った。
朝、私へ伸ばしかけた手が、また持ち上がった。けれど、触れる前に止まってしまう。
私は婚約指輪の入った小箱を、彼に見せた。
「この三年間、あなたの死を受け入れようとしました。何度も諦めようとしました。それでもできなかった。ようやく帰ってきたあなたに、今度はあなた自身から諦めろと言われるなんて、あんまりです」
「クラリス……」
「あなたは、私を幸せにできないと言いました。でも、あなたが死んだと聞かされた日より不幸な日に、私はまだ出会っていません」
レオンの左手が強く握られた。
「昨夜、私が冷えると眠れないことを、覚えていてくださいましたね」
レオンが私を見た。
「私の好きな人が帰ってきたのです。以前と違うところもありました。でも、隣にいたいと思いました。今のあなたと」
小箱をポケットへ戻し、私は彼の左手を取った。
硬い指だった。剣を握っていたころとは違う場所に、いくつもの傷が残っている。
「君を両腕で抱くこともできない」
「両腕でなくても構いません」
彼の左腕を持ち上げ、自分の背中へ回した。
そして私から一歩近づき、彼の胸に頬を寄せた。
「片方あれば、私を抱き締めるには十分でしょう」
背中に回された腕は、すぐには動かなかった。
やがて、恐る恐る確かめるように力がこもった。
少しずつ、強くなる。
「もう少し、強く」
私が言うと、頭上でレオンの息が止まった。
「苦しくなる」
「まだです」
「クラリス」
「三年分です。私が苦しいと言うまで離さない約束でしょう」
レオンの身体が震えた。
私の髪に、温かい雫が落ちる。
「帰るのが遅くなった」
「はい。本当に」
「すまなかった」
「それはもう聞きました」
「ただいま、クラリス」
私は目を閉じた。
「おかえりなさい、レオン」
◇
その日は二人で屋敷へ戻り、両親にこれからも会い続けたいと伝えた。
翌日、レオンは一度領地へ戻った。
家族と会い、傷の診察を受け、暮らしを整える時間が必要だった。
私は手紙を書いた。次はいつ会えるかと、遠慮せずに尋ねた。
左手で書かれた返事は、字の大きさがばらばらだった。けれど二通目には、私が尋ねる前に日付があった。
『来月の十七日に行ってもいいか。君に会いたい』
その日、私は彼の左肘に手を添え、庭を歩いた。
領地で飼い始めた犬のこと、私が母の代わりに出た夜会のこと。昔話だけでは、一日が足りなくなった。
「今日は、もう休みたい」
話の途中で、レオンがそう言ったこともある。
少し寂しかったけれど、次に来る日を決めて見送った。帰り際、彼が私の指に触れた。
「続きは、次に聞かせてくれ」
三か月後、レオンは王都へ住まいを移した。
元の上官から、王立騎士学校の教官補佐に誘われていたのだ。
剣技ではなく、撤退の判断や、負傷者を運ぶ方法を教える仕事だった。
すぐに引き受けることはできず、まず見学だけすると返事をしたらしい。
彼に誘われ、私も学校の門までついていった。
訓練を終えた少年たちが、泥だらけで戻ってきた。
一人がレオンの顔を見て、足を止めた。
「アルベール騎士ですか」
「そうだが」
「兄から聞きました。兄を逃がすために、その場に残ってくださったと。学校に来られるのでしたら、きっとお会いできると」
少年は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「兄は、今年子供が生まれました」
レオンが唇を開き、閉じた。
少しして、「そうか」と答えた。
「……よかった」
少年が去ったあとも、彼は門の向こうを見ていた。
私はその横で、待っていた。
「上官に、話を聞いてくる」
レオンは自分から、門をくぐった。
数日後、教官補佐の職を受けたと教えてくれた。
初めは週に二日、ほかの教官と一緒に授業へ出ることになった。
初日の帰り、彼は私の屋敷へ寄った。
「一人の生徒が、負傷者を背負ったまま転んだんだ」
外套を脱ぎながら話す彼に、私は椅子を勧めた。
「どこか、お怪我を?」
「大きな傷はなかった。ただ、自分は騎士に向いていないと言い出して」
レオンは少し黙った。
「俺も転んだことがあると話した。背負った仲間に、落とすなら先に言えと怒られたことも」
「その生徒は、どうなさったのですか」
「笑ったよ。上官も覚えていて、余計な話までしてくれた」
困ったように言う口元が、緩んでいた。
私はお茶を注ぎ、向かいに座った。
「その余計なお話も、聞いてよいですか」
彼は嫌そうな顔をして、それでも話してくれた。
眠れない夜は、まだあった。
右袖を留めたあと、長く鏡の前に立つ日も。
けれど、会う日を決めるのも、話を始めるのも、私からばかりではなくなった。
翌年の春、レオンが小箱を持って訪ねてきた。
青い革の端が、少し擦れていた。
王都へ戻ったとき、私が彼へ預け直したものだった。
「父上に、お話があるのですか」
「その前に、君に」
彼は庭の長椅子の前で、私に向き直った。
今度は小箱を卓上へ置かず、自分の手で開けた。
「クラリス。俺と結婚してほしい」
すぐに頷こうとして、彼がまだ私を見つめていることに気づいた。
指輪が、春の光を受けていた。
私は彼の次の言葉を待った。
「君と暮らしたい。今日あったことを話して、明日の約束をして。君が夜会で嫌な思いをした日には、その話も聞きたい」
夜会の話は、三日前にしたばかりだった。
つまらない嫌味を言われ、腹を立てて帰ったことまで。
「話が長くなるかもしれませんよ」
「知っている」
彼が笑った。
「君が好きだ。今も、結婚してからも、一緒にいたい」
私は、左手を差し出した。
「はい。私も、あなたと暮らしたいです」
レオンが、私を長椅子へ座らせた。
小箱を隣へ置き、指輪をつまむ。
私は自分の手を、彼の膝の上へ載せた。
少し時間はかかった。
彼は角度を確かめながら、ゆっくり指輪をはめた。
「入った」
ほっとした声がおかしくて、私は笑った。
レオンも笑い、私の手を持ち上げて、指輪のすぐ上へ口づけた。
その初夏、私たちは結婚した。
式を終え、二人だけになった部屋で、レオンが私に近づいた。
左腕が、背中へ回る。
今度は私が持ち上げなくても、彼のほうから。
「最初にすることは、決めていた」
彼の胸へ頬を寄せた。
「約束を覚えていらっしゃいますか」
「一日も忘れたことはない」
抱き寄せる腕に、力がこもった。
私は彼の上着をつかんだ。
「苦しくないか」
「まだです」
頭上で、小さく笑う声がした。
背中に添えられた手が、私をもう少し近くへ寄せた。
「もう少し、強く抱き締めてください」




