私は何も間違っていないのに、なぜ婚約破棄されて修道院にいるの?と思っていました
「もう、何なのよ!ふざけないで!どうしてよ!どうしてなの!!!」
狭い部屋に響き渡る声。
大声を出しただけでは怒りと悔しさが収まらず、持ってきた荷物を投げ、枕を放り、ベッドを叩く。
自暴自棄になって必死に暴れてみれば、部屋はひどく散らかった。
全身の力が抜けて、その場に座り込む。
ベッドを殴った手は赤くはれ、ひどく怒ったせいか頭がガンガンと痛い。
ケホッとせき込んだことで、のども痛くなっていることに気づいた。
そんな状況であっても、この狭い部屋には、私一人しかいない。
『大丈夫ですか、お嬢様』と、声を掛けてくれる使用人もいないのだ。
私は昨日、婚約破棄を突き付けられ、先ほどこの修道院へやってきた。
私は何も悪いことはしていない。
自分の婚約者に言い寄っている男爵令嬢に腹が立って、注意しただけだ。
でも男爵令嬢は、注意しても注意しても、私の婚約者にすり寄った。
いい加減にしてほしくて、場所もわきまえず、帰る生徒で賑わっている学院の玄関ホールで男爵令嬢に詰め寄ったのだ。
人の婚約者に言い寄って、何が目的なのかと。
それを見た婚約者は、あろうことか男爵令嬢をかばった挙句、私を非難してきたのだ。
身分を盾に、弱いものをいじめていると。
自分の婚約者が、何を言っているかわからなかった。
「そんな風にずっと彼女をいじめていたんだな、君にはがっかりした。君との婚約は、破棄させてもらう!」
その日の夜には、婚約者のスペンサー公爵家から正式に婚約を破棄する書類が届けられた。
父は怒り「伯爵家をつぶす気か!」と、私との縁を切って放逐すると宣言したのだ。スペンサー公爵家の機嫌を取るために。
着の身着のまま私を屋敷から追い出そうとする父を、兄が押さえ、母が修道院に預けましょうと必死で懇願してくれて、その翌日の昼には、私は王都の中でも貴族街に建てられている修道院に連れてこられた。
そして、与えられた部屋で、ひと暴れして今である。
暴れたら、疲れてしまって、動けなくなった。
私の婚約者に言い寄るなと言うことの、何が悪いのかわからない。
ただ茫然と座り込んでいると、どのくらいか経って、ノックとともにドアが開いた。
「うわ、すげぇ!よくこんな散らかせたな。今から掃除しようと思ったけど、先に片付けだな」
入ってきたのは、帽子をかぶった平民姿の若い男性だった。
身分の低いものにいきなり声を掛けられて、言葉に窮する。
戸惑う私に、その男性は目を見開いた。
「あんた、その手、どうしたんだよ!真っ赤に腫れてる」
掃除用具を壁に立てかけて、慌てて座り込んでいる私の両手を優しくすくい上げ確認する。すると、一旦手を離して、そばのバケツで自分のハンカチを濡らしてぎゅっと絞ると、赤くなっている手に巻いてくれた。
「ちょっとそのまま冷やしとけ。その間に、片付けるから」
そう言って、私が投げた荷物や枕、倒した椅子をひょいひょいと拾ってベッドの側に置いていく。
窓を開け放つと、外から気持ちいい空気が入ってきた。
「お、良い風吹いてんな」
男性は機嫌よさげにそう言うと、私の前にしゃがむ。
「立てそうか?掃除が終わるまでベッドにでも座ってて欲しいんだが」
言われて、ゆっくり立ち上がれば、その男性は頷いた。
「一人で立てて偉いな!ちゃちゃっと終わらせるから、待っててくれ」
私がベッドに腰をかければ、その男性がテキパキと掃除を始める。
手際よく動く様子が見てて心地いい。
部屋の掃除など、私が見てない間に使用人たちが済ませているから、こうして間近で見るのは、初めてだった。
「・・・あなた、誰?」
見知らぬ身分の低いものに、自分から声を掛けた経験がなくて、それだけ尋ねた。
「ん?オレ?カイン」
手を動かしたまま、そう返事が来る。
私はどうしても聞きたいことがあって、その名を呼ぶ。
「ねえ、カイン」
私の問いかけに、彼は掃除の手は止めず、「ん?なんだ?」と優しい声で返事をくれた。
その温かさに涙が溢れそうになる。
だけれど、確かめなければと、口を開いた。
「私・・・平民なの?」
私の震えた声での問いかけに、カインは手を止めた。
そして、こちらに歩いてくると、私の足元に膝をつく。
「さあ、それはオレのあずかり知るところじゃない。でも、修道院では、神の名のもとに身分は同じ『人』だ」
その言葉に、目を瞬かせる。
神の名のもとに、同じ『人』・・・。
「・・・そう、なのね」
不思議とホッとした。
身分がはく奪され、平民になっているのだとしても、ここは、私がいてもいい場所なのだと感じられた。
私の表情に、カインは安心した顔をして掃除に戻り、またテキパキと働いている。
私は、そんなカインの背中にどうしてここに来ることになったか経緯を話し始めた。
「あのね。私の婚約者に言い寄ってくる人がいて、それをその人にやめて欲しいと言ったの」
聞かせたところで、解決するわけでも、現状が変わるわけでもないけれど、カインは聞いてくれる気がしたのだ。
「でもね、何度言ってもやめてくれなくて、いい加減にしてほしくて、人目のあるところで注意したの。そうしたらね・・・」
誰かに、聞いて欲しかった。
「婚約者に『そんな風にずっと彼女をいじめていたんだな』『君との婚約は、破棄させてもらう』って言われて、そして、怒った父に屋敷を追い出されたの」
話し終える頃、カインは掃除を終えていた。椅子をもとの場所に戻し、枕を軽く払ってベッドへ乗せる。
そして、私の方を見て肩をすくめた。
「なんかそれ、いじめられたの、あんたの方だな」
その言葉に、目の前がゆがむ。
喉が熱くなって、体を丸めた。
「わっ!大丈夫か?どっか痛いのか?」
私は首を横に振って、もれる嗚咽を手で押さえる。
その間に、涙はボロボロと零れ落ちていった。
私は悪くなかったのだと、やっと認めてもらえて嬉しい。
「カイン・・・ありがとう」
お礼を言わずにはいられない。
苦しくてたまらなかった心が、温かく救われて落ち着いていくのがわかった。
だからか、しばらく涙が止まらなかった。
涙が止まるまで側にいてくれたカインは、私が落ち着いたのを見ると、「元気ないな、腹減ってないか?」と聞いてきた。
その言葉で思い出す。
昨夜スペンサー公爵家からの書簡が届いてから、今日の昼過ぎに修道院に連れてこられるまで、食事を口にしてない。
とても食べられる精神状態じゃなかったから、そんなこと、気にもならなかった。
その話をすると「すぐ持ってきてやるから!」と言って、カインが掃除道具を持って、私の手からハンカチを回収すると部屋を出て行った。
1人になって、息をつく。
私はこれから、どうやって生きていけばいいのだろう。
ここで奉仕作業をしながら暮らしていくとして、私にできることなどあるのだろうか。
そう、ぼんやりと考えていたら、足音が戻ってくる。
カインが運んできてくれたのは、硬いパンとほんのり温かいスープだった。
私はベッドに掛けたまま、食事の載ったトレーを膝にのせて、ゆっくり食べる。カインは椅子の背を私の方に向けて跨ると、背もたれに腕と顎を載せた。
「そのパン硬いから、よく噛んで。食べ慣れてないと、お腹壊すから」
そう忠告されたので、素直に従っていっぱいモグモグしていたら、「いい子だ」と感動された。
名前を聞かれて、「ダイアナ・フォス・・・」と家名を言いそうになって口を閉じ、言い直す。
「ダイアナよ」
名だけになった自分に心細さを感じながらも、カインに微笑んで見せたら、カインがぐっと眉間にしわを寄せた。
でも、すぐに元の表情に戻る。
そして、年齢を聞かれて17歳だと答えると、「え、オレの6歳も下?それで、そんな修羅場を経験したの!?」と驚かれる。
6歳上ということは、兄と同い年だろうか。
それだけで、何となく親しみがわいた。
先ほど暴れてしまったせいで力が出なくなっていた身体も、食事のおかげで元気が出てきた。自分が平民になったことに対して、ショックではあるけれど、着の身着のまま夜中に屋敷から追い出されなかっただけでも、とても幸運だったと思える。
怒る父に縋って、私をかばってくれた母と兄に感謝でいっぱいだ。
(お母様たちが、ひどい目に遭っていないといいんだけど)
父は思い通りに行かないと、当たり散らす人だから。
(私、お父様のようにはなりたくないと思っていたのに、ここに来て、あんなに暴れて)
誰もいないからと、自暴自棄になってしまった。初めて父のように、叫び暴れてみた。もしかしたら、それで気持ちが楽になるかもしれないと、心のどこかで思っていたのだと思う。だが、ちっともスッキリしなかったし、ただただ、むなしくなっただけだった。
物に八つ当たりしても意味はなかったなと自分が情けなく、これらの物の持ち主にも申し訳なかった。ただ、物を投げてベッドを叩いたのが初めてであったから、物を傷つけるほどの強さはなかったようで、壊れたものがなかったのが幸い。カインが掃除とともに、すべて元通りに置き直してくれた。
私の両手が赤く腫れただけでよかったと思う。
その痛みを感じて、少し安心した。
なんだか暴れた罰が、自分に与えられている気がして。
もう、こんな風に物に当たることはしない思う。
だって、やっても何も気分はよくならなかったし、むしろ、周りに申し訳ないと感じてしまった。
そんな自分に、父とは感性が違うのだなとわかって、とても安心する。
食事を終えた頃、部屋の入口に何人かの女性がやってきた。
掃除の時から開けられたままのドアを、コンコンとノックされる。
先頭にいた年配の凛とした女性が、私の膝の上のトレーを見たあと、カインを見る。
「カイン、それはあなたの食事ではないですか?」
その言葉に、私が驚いてカインを見ると、カインは慌てた。
「待った!オレは別に外で食べるからいいけどさ、この子、昨日の夜から何も食べてなかったんだよ」
その言葉に女性が微かに目を見開いた後、私を見て眉を顰める。
「それならば、益々よくありません。もっと消化に良いものを出さねば。・・・あなた、お腹は痛くない?」
毅然とした声に、こちらを心配する色があって、嬉しくて泣きそうになった。
「ありがとうございます。私は大丈夫です」
そう言って、軽く頭を下げればその方が微かに息を飲む。
「エドナ・・・」
母の名を呼ばれて驚いて顔を上げたときには、その方の表情は何事もなかったのように落ち着いていた。
「私はグレース。この修道院の、そうね、代表だと思ってちょうだい」
私はハッとして、トレーをそっとベッドへ載せ、立ち上がって深く頭を下げる。
「私はダイアナと言います。よろしくお願いします」
貴族であれば、礼をするのだろうが、私はもう平民だ。
確か、屋敷の使用人は皆、私を見るとこうして深く頭を下げていたと思う。
私の様子に、周りから驚いた気配が伝わるけれど、いいと言われるまで頭を下げたままでいた。
「ダイアナ、頭を上げなさい」
言われて姿勢を正す。
「あなたのことは、夕食の時に皆へ紹介しましょう。それまでは、ジェマ」
ジェマと呼ばれた私の祖母ほどの年代の女性が、前に進み出て、軽くお辞儀をしてくれた。慌てて私もお辞儀をする。
「ジェマに、ここでのことを教わりなさい。あなたがこの修道院の一員として誠実に過ごすことを私は望みます」
そう言うと、ジェマ様を残してグレース様たちが立ち去って行った。
ジェマ様は軽く息をつくと、私に微笑む。
「私はジェマよ。よろしくね」
穏やかな声に安心して「ダイアナです。よろしくお願いします」とお辞儀をした。
そこで、ジェマ様がカインを見る。
「全く、いくらドアを開けているからと言って、妙齢の女性の部屋に入るとはなにごとですか!・・・ダイアナ、何もされませんでしたか?」
カインを叱りつけた後、私へ心配げに尋ねた。
「何も!カインには、私が散らかした部屋の片付けや、お掃除までしてくれたし、彼の分の食事までいただいてしまいました」
一番つらい時間に、側にいてくれた恩人が予想外のお叱りを受けて慌てる。
必死で擁護すればジェマ様がホッとした顔をした。
「涙の跡があったので心配しました。カインが無体を働いたのではないかと」
その言葉にカインが慌てる。
「ダイアナは可愛いけど、そんなことしないって!ひどい!冤罪!」
カインの言葉に、ジェマ様が目を細め笑った。
「ふふ、わかっておりますよ。ですが、次からはもっと気を付けてください。ダイアナは私たちとは違うのですから」
私たちとは違う・・・?
ジェマ様の言葉に、首を傾げる。
カインは「わかってるよ。気を付ける」と口をとがらせて、小さな子供みたいに拗ねた。
その様子が何だか面白くて、ついフフッと笑う。私の笑い声に、カインも釣られたようにハハッと楽しそうに笑った。
カインの笑った様子にジェマ様はとても驚いた顔をして、そして頬を緩めて嬉しそうに何度も頷くと、私を見る。
「ではダイアナ。ここでは、自分のことは自分でしなければなりません。まず、食器の片付けから始めましょう」
そう言われて「はい」と返事をしたら、ジェマ様が何か思い出したように手を叩いた。
「そうだわ。まず、着替えないと。その格好では何もできないわ」
言われて自分が貴族の娘の格好をしていることに気づく。
ジェマ様がカインに言った。
「そういうわけです。女性の着替えを覗く気ですか?」
言われてカインが慌てて手を振った。
「まさか!あーあ・・・もっとダイアナと話したかったのに。じゃあ、またね、ダイアナ!」
そう言って、私に軽く手を上げるから、私も慌てて「カイン、今日はありがとう」と返事をした。私の言葉に、カインは穏やかに微笑むと部屋から出て行く。すると、ジェマ様がドアを閉めた。
「さあ、確認してくれるかしら。今朝、あなたが来る連絡を受けたので、こちらのワードローブにある程度必要なものは揃えてあるのよ。足りるといいけど」
開けるとそこには、2着の修道女の服が掛けられていて、夜着や下着、ハンカチなども数組ずつ用意されていた。
私を受け入れる準備をしてもらえていたことが嬉しい。
「ありがとうございます」
そう言って、着替えるためにその服を手にしたのだけれど、困った。着方が分からないのだ。いつも使用人たちが何も言わなくても手を貸してくれたから、どうしていいかわからない。
戸惑う様子の私に、ジェマ様がクスクスと笑う。
「なんて言えばいいと思う?」
そう尋ねられて、ハッとして顔を上げた。
「着方を教えていただけますか?」
私の言葉に、「ええ、もちろん!」とジェマ様が返事をくれる。そして、この服の着方や脱いだドレスの保管の仕方を教えてもらった。
修道女の服を着て初めて行ったことは、食器の後片付けだ。
「しっかりとこすって。まだ汚れが残ってますよ。泡を流すときはこのレバーを動かすと水が出ます。そう、泡はきれいに流して。あ、布巾はこちらです、使い終わったら元の場所に掛けるのよ」
ジェマ様の指示を受けて、はじめて洗い物をして、拭いて、戸棚にしまう。たったこれだけなのに、へとへとになってしまった。
(注意する箇所が多かったからかしら。難しかったわ)
ただ、冷たい水のおかげで、腫れた手は冷やされて気持ちよかったけれど。
これは当番制になっていて、何人かで全員分の食器を食事のたびに洗うのだそうだ。
「ダイアナは、私と一緒に当番に入るわ。出来るようになるまで、教えるから大丈夫よ」
ジェマ様の心強い言葉に、「よろしくお願いします」とお辞儀をした。
それから私は、少しずつ修道院での暮らしに慣れていった。
比較的、年配の女性ばかりが暮らしているからか、みな子や孫のように世話を焼いてくれる。
ここで一番発言力のあるグレース様は、私を特別扱いすることも、かといって放置することもなかった。全体の様子を把握し、必要な時に必要なだけ声を掛けて下さる。
ジェマ様の指導はわかりやすいが妥協がなく、求められる水準は高かった。でも、私がどんなに呑み込みに時間がかかっても、何度も失敗しても、根気よく教えてくれる。
そして、自由時間にみんなと一緒に刺繍をしているのだが、そこでよくお話をさせていただいているのが、刺繍が一番上手なフィオナ様だ。フィオナ様は、私の母と年が近い雰囲気の女性で、ここにいるみんなの中では、比較的若い。フィオナ様はこっそりお茶菓子を持って、私の部屋へ遊びに来てくれる。おかげで私は寂しいと感じずに過ごすことが出来ていた。
本当に温かくて優しい人たちばかりだ。
それに報いたくて、私に与えられた奉仕作業は何でも真剣に取り組んだ。
屋敷のように豪華な食事は出ないが、みんなでおしゃべりしながら食べる硬いパンとスープはとても美味しい。
私が経験したことのない人生を聞くことができるのは、とても貴重な機会だと感じた。
修道院の庭の畑で実った果物を収穫して食べたときも、とても美味しくて驚いた。
気づけば、掃除の仕方も随分上達した。
刺繍も、今まで習ったことのないような美しい図案もさせるようになった。
伯爵家で過ごしていたときより、学院で学んでいた頃より、ずっとたくさんのことを学ぶことが出来ている気がする。
ここは、ひどい目に遭ったからこそ来れた場所。
なのに世界で一番安心できる場所となった。
カインは、男手が必要な時に修道院を訪れる、外の人間だった。
冷静に考えて、修道院に男性が住んでいるわけないのだから、それはそうだ。
私が来た日は、別の用事で修道院に来ていたらしい。
新しく人が来たと聞いて、部屋の掃除なんてすでにされていることを承知のうえで、掃除道具を持って、興味本位で私の部屋へ顔を出してくれたのだそうだ。てっきりジェマ様たちのような年齢の女性だと思ったら、自分より年下でかなりびっくりしたらしい。加えて、部屋は荒れてるし、床に座り込んでるし、手は真っ赤だしで、「だいぶ予想と違ってたな」と笑っていたっけ。
そして、みんなが昼食中で、私の部屋にはまだ来ないとわかっていたから、アレコレ世話を焼いてくれたそうだ。
確かに修道院に着いた時、案内をしてくれた年配の女性は、とりあえず、この部屋でゆっくり待っていて欲しいと言っていた。そうか、私の到着が、丁度昼食の時間だったのね。
それならば、私は幸運だったと思う。
あの時、カインに話を聞いてもらえて、気持ちを立て直せたのだから。
カインは週に1、2回ほど、御用聞きにやってくる。
その度、私の様子も見に来てくれた。
今日も庭掃除をしていたら、私へのお土産を片手に、カインに呼び止められた。
「ダイアナ!庭掃除を頑張ってる君に、プレゼント」
そう言いながら、飴玉のたくさん入った可愛い袋を差し出してくれる。
「ありがとう、カイン。嬉しいわ」
受け取った袋を大切に胸に抱きしめて言えば、カインがちょっと照れたように笑った。
「そんな高いもんじゃないけど、喜んでくれてオレも嬉しい」
優しいなって思う。
こんな風に男性が気に掛けてくれて、優しくしてもらえる経験が、今までなかったから不思議な感覚だ。
心がフワフワと跳ねて、落ち着かない。
婚約者は、家同士での取り決めで決まったものだったし、あまり話をした覚えがない。交流を持った方がいいのはわかっていても、学院では女性から声を掛けるなんて、そんな恥知らずなこと出来なかった。かといって、相手からは一切声はかからなかったのだけど。
「ダイアナはすごいな。この一か月、急な生活の変化だったろうに、ちゃんと頑張っててさ」
言われて首を傾げる。
カインが力なく笑った。
「だって、庭掃除なんて、したことなかっただろ?」
私は肩をすくめる。
「そうね・・・ここに来て、初めてのことばかりだわ」
一人で起きて、誰の手も借りず朝の身支度をして、顔を洗うための水を貰いに行って・・・。
洗濯も、食事の支度も、こんなに手がかかってるなんて知らなかった。
カインが不安そうに私を見る。
「ダイアナは、人に裏切られてここに来ただろ。人がイヤにならないか?」
そう言われて、私は笑った。
「ふふ、まさか。確かに、婚約者に言われたことや父に追い出されそうになったことはつらかったわ。でも、兄は父を止めようとしてくれたし、母は修道院へ逃がしてくれた。そして、ここではみんなが助けてくれる。周りを見渡せば、助けてくれる人ばかりだわ」
私の言葉に、カインが視線を逸らして呟く。
「周りを見渡せば・・・助けてくれる人ばかり」
私は頷いた。
「ええ、グレース様やジェマ様、フィオナ様に・・・この修道院の女性はみんな、とても優しくて温かいわ。厳しい言葉も、結局私のために言ってくださってるもの」
最初は失敗ばかりでみんなにたくさん注意された。
でも、どうして駄目だったか教えてくれるし、上手くできたら認めてくれた。
それだけのことが、とても嬉しい。
それに、頑張れているのはそれだけが理由じゃない。
「カインにもいつも助けられてるわ。ありがとう」
カインがくれた言葉は、私の宝物だ。出会って以降、いつも気に掛けて声を掛けてもらえて、それもとても嬉しい。
私の言葉に、カインが首を横に振る。
「オレは、自分勝手に、好きなことをしてるだけだから」
後ろめたそうにしているカインに首を傾げつつ、もらった飴の袋を見て、少し申し訳ない気持ちで口を開いた。
「でも、いつも貰ってばかりでごめんなさい。何かお返しできたらいいんだけど」
そう言うと、カインが慌てる。
「そんなの、気にしなくていいから!オレは、ただ・・・ダイアナの喜ぶ顔が、見たいだけだし」
ちょっと照れたように言ってくれて、心が温まる。
だからもう少しだけと、カインとのおしゃべりの時間を楽しませてもらった。
私がここに来てすぐの時の情けない姿を知っているから、カインは私を気に掛けてくれているのだと思う。
カインの行動に特別な意味はないとわかっていても、私はカインの訪れを心待ちにするようになり、修道院の皆からも応援されるようになった。
グレース様からは、「あなた、カインを選ぶなんて、とても趣味がいいわ」と感心されたし、ジェマ様からは「たくさん貢いでもらいましょうね」なんて冗談を言われて、フィオナ様からは「今度ハンカチに刺繍をして、プレゼントしてみませんか?」と勧められた。
そんな風に言われて恥ずかしくて、でもとても嬉しくて、私はちょっと浮かれていたのだと思う。
街の衣料品店に、カインへのプレゼントするための、刺繍を刺すハンカチを買いに行ったときのことだ。
共に買い物に来ていたジェマ様が、店主と修道院で必要な布の仕入れのことで熱心に話をしていた。ハンカチを買い終えた私は、邪魔をしてはいけないと思い、入り口から出て軒先でジェマ様を待つことにしたのだが、突然誰かにかぶっているウインプルを髪と一緒に引っ張られた。
「きゃっ!」
痛みにびっくりしてそちらを見れば、年の近い女の子が、怒りに震えて私を見ている。
「あんたね!カインにちょっかいをかけてる修道女って」
その言葉に、体が硬直した。
そんなにあからさまにアプローチしていただろうか?
修道院に来てくれたときに、少し話をする程度なのだが・・・。
私が戸惑ってる間に、その女の子は手を振り上げ、私の頬をパンっと叩いた。
「この泥棒猫!二度とカインに近寄らないで!」
そういうだけ言って、彼女は怒ったまま私に背を向けて去っていった。
彼女の大きな声が店の中にも聞こえたのだろう、ジェマ様が慌てて外へ出てくる。
「ごめんなさい、ダイアナ!私がついていたのに」
ジェマ様が、私の腫れた頬を痛々しく見て、謝った。
それに首を横に振る。
「いえ、私が勝手に外に出て待っていたのが悪いんです」
しゃべりながら、口の中に血の味が広がるのがわかった。
口の中まで切れてしまっているようだ。
「とにかく、急いで帰りましょう!」
ジェマ様に手を引かれ、足早に修道院へ戻る。
歩きながら、先ほどの女性に言われた意味を理解し、血の気が引いていく。
(私・・・・なんてことを・・・)
カインには特別な女の子がいたのだ。
そんなこと、考えもしなかった。
叩かれた頬がじんじん痛い。
私は悔しくてたまらなかった。
なぜなら、男爵令嬢と同じことを、自分がしたのだと気付いたから。
片方の頬を真っ赤に腫らして帰ってきた私を見て、修道院は大騒ぎになった。
「まずは冷やさないといけないわね」
「あの薬草が効くんじゃないかしら?」
「湿布がどこかに余っていたはずよ!」
慌ただしくしながら、みんなが私を守り、大切にしてくれる。
それが嬉しくて、でも自分が情けなくて、みんなに叩かれた経緯と私がここに来た理由を全部話した。
自分は男爵令嬢のように、いけないことをしたのだから、当然の罰を受けただけなのだと。
みんなが優しくしてくれたのに、申し訳ありません、と。
「もう・・・カインとは、話さないようにします」
言いながら、胸がすごく痛くなった。
その痛みの強さに、自分がカインをこんなに好きになっていたのだと気付く。
あの優しくて温かな声に、今の自分がどれほど支えてもらっているのかと。
でも、ダメだ。
人のものを取ってはいけない。
私はされて、とてもつらかった。
だから、私は、私だけは、同じ思いを人にさせてはいけないんだから。
自分の浅はかさが悔しい。
そう、自分を責めていたら、グレース様が口を開いた。
「あらそれは、街で出会ったその女性の方がおかしいわよ。あなたからカインに話しかけに行ったことなど、一度もないのだから」
言われてハッとする。
私はいつも、カインの訪れを心待ちにしてはいたけれど、女性から声を掛けるのは貴族のマナーに反するから、平民になったとはいえ、自分から声を掛けに行ったことはない。
(そうよ。男爵令嬢は自分から話しかけに行っていた。だから、それはマナーとして違反と伝えたし、私という婚約者がいるのだからやめて欲しいと最初に伝えたわ)
なのに、何度も繰り返し言い寄るから、どうしてもやめてほしくてあの騒ぎにまで発展したのだ。
私が自分と男爵令嬢との違いを理解した様子に、グレース様はホッとして微笑んだ。
「あなたは何もしてないのよ?むしろ、カインがあなたにちょっかいを出しているというのに」
彼女の言葉に、周りの女性たちもクスクスと笑う。
カインが私にちょっかいを出している?
言われて、そんなはずはないと思ってるのに、勝手に顔が熱くなる。
ずっと励ますように、私の背を撫でていてくれたフィオナ様が軽く息をついた。
「私たちの可愛いダイアナがどうしてここに来たのか、そして婚約破棄を告げた愚かな男が誰なのか、本人の口から教えてもらえてよかったわ」
修道女たちがニコニコと顔を見合わせる。
不思議と気温が下がった気がして、私が「どうかしたのですか?」とジェマ様に尋ねたら、「なんでもないのよ。ダイアナは気にしなくていいわ」と誤魔化された。
グレース様がスッと立ち上がる。
「私、少しお手紙を書かなくてはいけなくなったの。この子をお願いね」
その言葉に私の背を撫でていたフィオナ様も立ち上がった。
「すみません、私も至急文を出さなければなりません。ダイアナは頬の腫れが引くまで、休んでいるのですよ?」
立ち去る二人に私が戸惑っていると、みんなが「もう、大丈夫よ」「怖い思いをしたわね」と代わる代わる声を掛けて、励ましてくれた。
翌日、息を切らせて私に会いに来たのは、カインだった。
私は普段通りに窓ふきをして過ごしていたから、カインの様子に驚く。
「ダイアナ!大丈夫か?」
そう言うなり、私のまだ少し腫れている頬を痛々しそうに見た。
「今からでも医者を呼ぼう。痛みは?」
言われて首を横に振る。
「ううん、もう、見た目ほど痛くないの。腫れも明日にはきっと引くと思うわ」
そう言って、カインには平気そうに振舞った。
本当は口の中の怪我も、まだ、だいぶ痛いけど、それを知ったらカインがもっとつらい顔をする気がしたのだ。
するとカインが、悔しそうに顔をゆがめる。
「すまない、オレも身に覚えがないんだ。街に知り合いはいるけど、親しい女の子なんて作ってない。どんな人物だったか、教えてくれないか」
言われて私は、昨日出会った女の子の容姿と引き止められた場所を説明した。
すると、カインが不思議そうに首をひねる。
「あの食堂の子か?でもオレ、話したことないけど・・・」
言いながら、カインがハッとした顔をした。
「そういえば!この前ダイアナに会った帰りに、昼ご飯を食べに行ったんだよ。そうしたらおかみさんに機嫌がいいねって声を掛けられて、この修道院からの帰りだって話したんだ」
その瞬間、カインの頭が後ろからペシッと扇子で叩かれた。
「全く、浮かれているからこのようなことになるのよ」
グレース様が呆れたようにそう言うと、カインが慌てた。
「浮かれてたわけじゃないって!・・・たぶん、いや、ちょっと浮かれてたかも」
言い返した声が、だんだん力を失っていく。
その様子がなんだかかわいく見えて、私はクスクス笑う。
グレース様は呆れ顔で、軽く肩をすくめた。
カインが私に頭を下げる。
「ごめん、ダイアナ。どう考えてもオレの不始末だ。申し訳ない」
それに私は慌てた。
「いいえ。私も少し浮かれていて、自分が見えてなかったから。びっくりしたけど、おかげでわかったこともあるの」
誰かを好きになると、周りが見えなくなるのだとわかった。
きっと、婚約者は男爵令嬢に恋をしてたから、私が彼女をいじめたと決めつけた。
私は婚約者に恋してなかったから、周りは見えていたけど、恋を知らなくてひどい目に遭った。
きっと、そういうことだ。
男爵令嬢がスペンサー公爵家の令息へ、私の注意をどんな風に伝えたのかは知らないが、二人にとってはそれが真実だったのだろう。
あの時、どうすればよかったかなんてわからない。
ただ、あんな目に遭わなければ、カインに会うことも、グレース様たちとともに暮らせる今もなかったのだと思うと、巡り合わせというのは不思議だなって思う。
この修道院に連れてこられたとき、自分の行動は間違っていなかったはずなのに、どうしてこんな目に遭ったんだと腹が立ってしょうがなかった。
でも、今なら、わかる。
(婚約者と男爵令嬢の仲を裂く、そんな立ち位置になってしまっていたのね)
悔しくて仕方なかった思いも、あの時カインが言ってくれた言葉で救われた。
『なんかそれ、いじめられたの、あんたの方だな』
公爵家にも父親にも否定された私のことを、肯定してくれた。
だからこそ、前を向くことが出来たのだと思う。
まだ、腫れてひきつる頬をできる限りいつも通り動かして、カインに笑顔を見せた。
「カイン、ありがとう。ここであなたに出会えて、本当に良かった」
あなたのおかげで、今の私がある。
この修道院で頑張ろうって思えたのは、カインに出会えたおかげだから。
私の言葉に、カインは目を見開いて息を止めた。
そして、困ったように笑う。
「それは、こっちのセリフ。ダイアナと出会えたおかげで、また声を上げて笑えるようになったし。・・・オレも覚悟ができたから。もう一度、人を信じてみようって」
何のことだろうと首を傾げると、カインがグレース様に向き直る。
そして、姿勢を正し、礼をした。
貴族の。
カインの礼を見て、グレース様の空気が変わる。
ピンと張りつめたそれに、私も背筋が伸びた。
「頭を上げなさい」
グレース様の言葉に、カインが顔を上げる。
そしてカインはグレース様に宣言した。
「本日をもって、私の療養期間は終わりとし、公務に復帰いたします」
先ほどまでのカインとは全然違う雰囲気に、言葉も出ずにいると、グレース様が目を見開き、嬉しそうに頷いた。
「よくぞ申しました。陛下へはいつ伝えるのです?」
陛下?
とんでもない言葉が出てきて、気が動転していると、カインが答えた。
「父上には、この後王宮に戻り次第、すぐに」
私が慌てて、その場に跪き頭を下げる。
どう考えても、平民の私が立って聞いていて許される会話ではない。
私の様子に、カインが苦笑いして私の側にしゃがむ。
「やめて、ダイアナにそんなことされたら、やっぱりやめるって言いたくなるから」
聞きなれた口調の懇願に、ゆっくり顔を上げた。
その私をカインが真っ直ぐ見る。
「お願いだから、はいと言って欲しい」
真剣な声に、息を飲んだ。
「君をかけがえのない存在だと思ってる。どうか私と、生涯を共にしてほしい」
私がびっくりしすぎて目を真ん丸にすると、カインが不安そうに目を揺らす。
「でも、私、平民だから・・・」
王族と生涯を共にすると言っても、王宮に足を踏み入れることすらできないと思うのだけれど。
私の言葉に、カインがホッとした。
「よかった。嫌って言われなくて」
そう言われて慌てて口を押える。
その通りだ。
身分の心配を先にしたってことは、私自身『はい』と答えているようなもの。
あまりに恥ずかしくて耳まで熱くなる。
そんな私を見て、カインが「わあ・・・かわいい・・・」なんて言うから、もう恥ずかしくて、顔を上げることも出来なくなった。
そしてふと思い出した。
私がここに来る少し前、兄から、我が国の王太子殿下が南の反乱軍の鎮圧で怪我を負い、療養中だと聞いたことがある。
私はパッと顔を上げた。
「カイン、怪我は?」
カインが目をパチパチした後、ハッとした顔をする。
そして、苦笑いした。
「大丈夫、怪我は大したことなかったんだ。ただ、少しだけ、ここが疲れてしまって」
胸を押さえてそう言ったカインの、悲しみに染まった目が痛々しい。
じっとカインを見つめていたら、カインが力なく笑った。
「親友がいたんだ、反乱軍の中に」
その言葉に驚く。
カインが私をそっと抱きしめた。
「ずっと裏切られていることに、気づかなかった」
私はカインの背中に手を回す。すると、カインの抱きしめる力が強くなった。
「もう、誰を、何を信じていいか、わからなくなって、ここで休ませてもらっていた」
知らなかった。
あんなに飄々として、いつも私を励ましてくれたカインが、胸の中にそんな辛い思いを抱えていたなんて。
親友に裏切られたなんて、辛いに決まってる。
それ以上に、カインの立場だからこそ、きっと私が想像つかないような多くの苦しみがあるのだろう。
ただ、私が一番辛いとき、救ってくれたのはカインだ。
今度は私がカインの役に立ちたい。
覚悟を決めて、カインに尋ねる。
「私、何をしたらいい?どうしたら、カインの力になれる?」
顔を上げ、真っ直ぐカインの目を見たら、カインが一瞬泣きそうな顔をして、でも、嬉しそうに笑う。
「もう助けて貰ったから!でも、そうだな。しばらく会えないと思うから、ここで待っていて欲しい。グレース様が・・・王太后である私の祖母が、あなたを守ってくれるだろう」
(グレース様が、王太后さま!?)
衝撃が大きすぎて固まれば、グレース様とカインが目を合わせて楽しそうに笑った。
その後、私はアーヴィング公爵家の養女となった。
フィオナ様の養女だ。フィオナ様は現国王陛下の姉君にあたり、アーヴィング公爵家の当主でいらっしゃる。グレース様の娘で、カインの伯母に当たる方なのだ。結婚はせず一代限りの公爵として一生を過ごすつもりでいたそうだ。
初めて話を聞いた時、すごくびっくりしたっけ。言われてみればグレース様とフィオナ様は面立ちが似ていた。
ハッとして周りを見回せば、ジェマ様が苦笑する。
「ダイアナに隠していたわけではないけれど、言う必要もないかと思っていたの」
そう言って教えてくれたのは、ここにいる修道女は皆、王太后とアーヴィング公爵の侍女であると。もちろん、それほど位の高い貴族の侍女に平民など、居るわけがない。
私がショックで何も言えずにいると、「あらあら」「びっくりしたかしら?」とみんな楽しそうに笑った。
その時に、ここに来てすぐの頃、ジェマ様がカインに『ダイアナは私たちとは違うのですから』と言っていた謎が解けた。
私だけが、グレース様やフィオナ様の侍女ではないという意味だったのだと。
そして今は、修道院でグレース様から王妃教育を受けながらすごしている。
アーヴィング公爵家の屋敷で暮らすかと提案されたが、フィオナ様がここにいるので私もここにいることを望んだ。貴族の暮らしに執着はないし、ドレスより修道女の服の方が、身軽だ。掃除や炊事、洗濯をしていると、大変なこともあるけれど、気持ちは落ち着くし、何よりここの皆と一緒にいられることの方が、私には価値があるから。
勉強の合間に、グレース様が教えてくれた。
私の母が昔、王宮へ行儀見習いとして上がったとき、グレース様のもとで過ごしていたらしい。
その時に伝えておいたそうだ。困ったことがあったら、この王太后宮に隣接して建てられた修道院を頼りなさいと。
そして預けられたのが、私だったそうだ。
だからすんなりと受け入れてもらえたのかと、納得した。
フィオナ様が「あなたのお母様には、詳しい顛末をお手紙で知らせておきました。あの子はきっと、すごく心配しているでしょうから」と言ってくれる。
私は一時平民であったし、その後アーヴィング公爵家の養女となったため、実の母に手紙を書いていいものなのかわからず迷っていたから、本当に有難かった。
そして、カインと私の婚約が発表された。
新聞では、療養中に献身的に支えたのが私という美談になっていた。
その上、私が伯爵家の出で、どういった経緯で修道院に来たかも詳しく書かれていた。
一方的に婚約破棄をしたスペンサー公爵家や、その跡取り息子に言い寄っていた男爵令嬢。
婚約破棄後に家からすぐさま放逐しようとした父。
そして、そんな父に懇願し、私を修道院へ逃がした母と兄。
ほぼ正確に書かれていて、私の話を聞いてくれた修道院の誰かが書いたのかしらと思ったほどだ。
ただ、家名は伏せられていたけれど。
そんなことをしたところで、平民にはわからなくとも、貴族ならばすぐにわかる。
きっと、とんでもなく居心地の悪い思いをしているのではないだろうか。
例えば、婚約破棄を言い渡したスペンサー公爵家は、王太子殿下に見初められるような娘をご子息の言葉を信じて、手放してしまったし。
そして、そんな娘と縁を切った、伯爵家当主も。
その発表からしばらくたった頃、母が突然面会に訪れてくれた。
面会室に入ってきた母は、すごく疲れた顔をしていたけれど、私を見たらとても嬉しそうに笑顔になってくれた。
「お母様!」
堪えられなくて、子どものように抱き着く。
母もぎゅっと抱きしめてくれた。
「ダイアナ!ダイアナ!無事でよかったわ・・・ああ、よかった、私の大切な娘」
そう言って、目を潤ませてくれる。
「私が無事なのは、お母様がかばってくれたからだわ。本当にありがとう、お母様」
私の言葉に、「いいえ、あなたが無事なら、それでいいのよ」と母がニコニコした。
母から聞いたところによると、私がアーヴィング公爵家の養女となり、王太子殿下の婚約者となったことで、父はとても荒れたらしい。
社交界では遠回しに馬鹿にされ、笑いものにされ、八つ当たりに屋敷の調度品を壊すことも増えたのだという。その上、母に暴言を吐くことも増えた。それに兄が気づいて、止めに入っていたようだけれど、父が当主である以上、兄はそれ以上何もできなかったようだ。
だから、父が外出した隙に、兄が母をここまで送り届けてくれたらしい。
兄からは「伯爵家のことは気にせず、母上とダイアナは幸せになれ」と。
話が一区切りついた頃、グレース様が面接室へ入ってきてくれた。
「久しぶりね、エドナ。元気にしていて?」
母はグレース様の登場にとても驚いた後、笑顔で礼をしようとして、泣き崩れてしまった。普段、父がどんなに荒れていても、涙を見せずに兄と私を守ってくれた母だ。こんな風に泣き出してしまうなんて、どれほど苦しかっただろうと胸が痛い。
その母の側に、グレース様が膝をついた。
「ねえ、私、エドナの入れるお茶が大好きだったわ。これからは、ここで入れてくれないかしら」
優しい声に、母は「よろしいのですか?」とボロボロ泣きながら顔を上げる。
それにグレース様が「もちろんよ」と頷いた。
母はもともと、私の顔を見たら屋敷に戻るつもりでいたみたい。だけど、フィオナ様が内密に兄と連絡を取ってくれて、そのままこちらに移れるよう取り計らってくれた。
修道院のみんなが、私と母を優しく守ってくれる。
それが嬉しくて、有難くて、母と一緒に深く頭を下げた。
母とともに修道院で暮らせるようになって、私はとても嬉しかった。みんなで集まって、いつものように刺繍を刺す。カインに渡したいと思っているハンカチの刺繍も、あと少しで完成だ。私がニコニコしていると、グレース様に「幸せそうね、ダイアナ」と言われ、大きく頷く。
「はい。だって、素敵なお母様が私には二人もいるんですもの!」
両側に座る、母とフィオナ様を見て、胸を張った。
するとジェマ様が「あらあら、ダイアナったら小さな子供みたいね」って言うから、皆が楽しそうに笑う。フィオナ様は私の言葉に「まあ」とびっくりされた後、涙ぐんだ。
「いいのかしら?私もあなたのお母様にしてくれるのですか?」
小さい声で尋ねられて、何度も頷いた。
「はい、私の方こそ、娘にしていただけますか?」
もう養子縁組をしているというのに、今更こんなことを願ってしまうなんてとモジモジ尋ねたら、フィオナ様にぎゅっと抱きしめられた。
「もちろんです!もちろん」
温かい。
ここは本当に、温かい場所だ。
「さて、ダイアナ。覚悟は良いですか?」
グレース様に言われて、「はい」と頷く。
修道院のみんなが、私を心配そうに見守っている。
なぜなら、私が今日から学院に復学するからだ。
貴族の子どもは、絶対に学院に通い卒業しなくてはいけない。
王太子殿下の婚約者として、アーヴィング公爵家の養女として、乗り越えなくてはいけない義務。
私は、数か月学院を休学したと扱われているので、前と同じクラスへ戻るだけだ。
平民となって、てっきり学院に席はなくなったと思っていたけれど、母が休学届を出してくれていて、学費も払い込み済みだったから問題なかったと、グレース様が教えてくれた。どうしてグレース様がそんなことをご存じなのかと尋ねたら、もし、ここの誰かが私を娘にしたいと言ったとき、学院には戻らねばならなくなる。その時のために先に手を回してくれたのだそうだ。
そんな有り難い話が私に?と首を傾げたら、グレース様が優しく微笑む。今回は王太子殿下の婚約者という立場上、フィオナ様が私を養子縁組したけれど、ジェマ様やほかの方からもちらほら養子の話は出ていたのだと、こっそり教えてもらった。
それにまた、幸せ過ぎて泣きそうになったっけ。
なので、私は学院に通わねばならない。
でも、学院に行けばあの騒ぎをみんなが知っている。
そして、新聞の記事で、詳しいことの顛末も知っている。
そんな中へ飛び込まなくてはいけない。
痛い目に遭った場所に戻るというのは、こんなにも不安で苦しいものなのかと、少し手が震えたけれど、カインは一足先に王宮に戻り、王太子殿下として公務に励んでいる。
私が怖気づくわけにはいかない。
私たちは、修道院の裏手を抜けて、王太后宮の馬車寄せにいる。
皆が見守る中、私はグレース様に貴族の礼をする。
「行ってまいります」
グレース様が頷いた。
「あなたの帰りを待っています」
その言葉に笑顔で頷いて、馬車に乗り込む。
見送ってくれる皆に手を振れば、御者が馬車を走らせた。
遠くなっていくみんなに不安を感じはするけれど、でも、私はもうダイアナ・アーヴィング。アーヴィング公爵家の娘だ。フィオナ様に恥じない娘でありたい。
ぐっと背筋を伸ばして、お腹に力を入れた。
学院に着くと、私を見た数人が囁き合う。
それを気にしないようにして、まっすぐ前を見て歩いた。
職員室に立ち寄り、復学の書類を手渡す。
私のクラス担任が、ホッとした顔で頷いた。
席はいったん、一番後ろの窓際に移動させてあるとのこと。
ロッカーの荷物は鍵を新しいものに付け替えて、そのまま保管となっているからと、そっと私に新しい鍵をくれた。
そうよね、古い鍵はフォスター伯爵家の私の荷物のどこかだわ。
職員室のソファーで少し待機し、担任の先生とともに教室へ向かう。
幸いなのは、元婚約者も男爵令嬢も、同じクラスではないことだろう。
先生が教室の前側のドアから中に入るのに対して、私は後ろのドアから入った。
先生が来たことに注目する生徒が多いため、私は視線を気にすることなく一番後ろの窓際の席に座る。
軽く教室を見渡せば、数か月前と同じ顔ぶれ・・・いや、2人ほど見たことのない顔がいる。
「みなさん、お知らせがあります」
先生が話し始めたので、一旦思考を切って前を向く。
「長く休んでいた、ダイアナ・アーヴィングさんが今日から復学されました」
その発言で、クラスがどよめき、一斉に私の方へ振り返った。
私は不安を押し隠し、穏やかに微笑んで見せる。
すると、何故か拍手が起きた。
それに戸惑っていると、「おかえり!」「おかえりダイアナ!」って、声が聞こえた。
それに驚いて、でも、安心して、ちょっとだけ情けない笑顔になってしまった。
休み時間、久しぶりにクラスの友人たちと話す。
私が玄関ホールで婚約破棄されたことは、翌日には学院内で有名になっていたそうだ。男爵令嬢が言い寄って、スペンサー公爵令息が彼女にいい顔をしていたのをみんなが知っていたため、私に非がないことは理解されていたらしい。私を不憫な伯爵令嬢と認識するくらいにとどまっていたそうだ。
ところがその数か月後、私とカインの婚約が発表され、新聞に馴れ初めが書かれたことで一気に風向きが変わる。
公爵令息が一方的に婚約破棄を叫んだだけで、婚約は継続されていると思われていたことが、スペンサー公爵家主導でその日の内に婚約が破棄されたのだとわかったからだ。その上、私が休学していたのも、婚約破棄の騒動のせいで傷心だからだと認識されていたのだが、実際は伯爵家から縁を切られ、修道院に入れられたからだと判明し、一気に二人から人が離れた。
それはそうだ。
近寄ったら、スペンサー公爵家からどんな難癖をつけられるかわからない。
難癖をつけられたうえ、身分を平民に落とさなければいけなくなる。
その恐怖に勝てる貴族の子どもは、そう多くない。
そして何より影響が大きかったのは、私が男爵令嬢をいじめたのではなく、男爵令嬢にマナー違反を注意していただけだという至極正当な理由が、元婚約者の親に伝わったことだ。スペンサー公爵家の内部では大騒ぎだったらしい。
そのため、急ぎスペンサー公爵家から男爵家へ問い合わせがされたが、男爵令嬢は公爵令息に声を掛けるように言われ、それに従わないわけにはいかなかったと返事をしたそうだ。
確かに、男爵令嬢にしてみれば、公爵令息に命令されて従わないというわけにはいかない。
まあ、私が注意した時に、そんな話は彼女の口から出たことはなかったのだけど。
真実はどうかわからないが、結果的に、男爵家が男爵令嬢を守ったということはわかる。それが少しだけ、羨ましく感じてしまって、心はままならないなと思った。
しかし、なんでそんな裏事情を学院の生徒が知っているのかと言ったら、社交界では男爵が、学院では男爵令嬢が自分を被害者のように話したからだ。
ただ、男爵家は世渡り上手なようで、今回のことは不幸なすれ違いと表現して言って回っているのだと。決して公爵家を責めず、そして、私のことには一切言及せずに。
確かに、周りもカインとの婚約が発表されるまで、私が本当に婚約破棄されてるとは思っていなかった。だって、そもそも、婚約は家同士の契約で、当人とはいえ、当主以外がその契約を一方的に破棄すると宣言しても、何の効力もないからだ。男爵令嬢も驚き顔で言って回ったらしい。
「ご令息が口喧嘩で、婚約破棄だとおっしゃっただけだと思っていました」と。
修道院に送られて一度平民に落ちた私から見ると、男爵令嬢の世渡りの上手さは圧巻だ。おそらく彼女は、最初から逃げ道を確保して行動していた。以前の自分の頭の固さを思うと、とても太刀打ちできる相手ではなかったのだと冷静に思える。
結果、スペンサー公爵家は、社交界で腫れもの扱いになっていった。高位の貴族であるため無視することもできないが、かといって関わりたくもない。そういう微妙な扱いなのだそうだ。
それを聞いていて怖くなった。
いま私は、アーヴィング公爵家の娘。
私の行動の結果が、やがて巡りに巡って、フィオナ様の評価に直結するということだ。
教室の中のみんなが、私の動向を気にして、私がなんて言うか聞き耳を立てている。
友人たちの話を聞き終えた私は、穏やかに微笑んで見せた。
「そうだったのね。心配してもらえて、とても嬉しいわ。私が休んでいた授業のことも、教えていただけて?」
私の言葉に、教室の中がほっと緩んだ気がした。
あんな目に遭ったのに、ダイアナ・アーヴィングは、スペンサー公爵家を責める様子がないと認識されたようだ。
休学前は真面目で堅い印象が強かったから、腹を立てスペンサー公爵家の状況を当然と言い放ってもおかしくはないと思われていたのだろう。
確かにあの頃の私は、元婚約者と男爵令嬢の関係を理解する前に、物を申していたのだから。
それが今や、穏やかに周りの者たちに感謝をし、教えを乞う。
確かに、王太子殿下にふさわしい女性だ。
そんな風に思われているのを感じる。
考えすぎなのかもしれないけれど、今は不思議と、周りが良く見える気がした。
友人たちが、「任せて!」「何でも聞いて」と言ってくれる。
それに「ありがとう」と返事をした。
私の学院復帰は、予想よりずっと順調な滑り出しとなった。
昼食、食堂に向かう。
その頃には、数か月ぶりの学院生活もだんだん、以前の感覚が戻ってきていた。友人たちが変わらずに接してくれたからだろう。
それに少し気を緩めていたら、知ってはいるが聞きなれてはいない声で呼ばれた。
「待ってくれ、アーヴィング公爵令嬢!」
驚いて立ち止まり、振り返る。
そこには、数か月前、玄関ホールで声高に私へ婚約破棄を言い渡したスペンサー公爵令息がいた。
彼が足早にこちらへ向かってくる。
友人たちが息をのんで、それでも私の側にいてくれた。
それに有り難いなという思いと、怖いだろうから無理しないでという思いで、どう声を掛けるか悩んでいると誰かが私を庇うように立った。
教室で見かけた見知らぬ生徒二人の内の一人。
その様子に、彼が王太子殿下の婚約者である自分のためにつけられた護衛だと気付いた。
スペンサー公爵令息は護衛の彼を見て、それ以上私に近づくのをやめる。
「アーヴィング公爵令嬢・・・話をしたい。ともに昼食を取らせてくれないか」
思いつめた表情の元婚約者に戸惑いながら、私は両脇で離れずにいてくれる友人たちに尋ねた。
「スペンサー公爵令息とご一緒でもいいかしら?」
気まずいだろうから断られるかなと心配していたら、彼女たちは「かまいませんわ」「ご一緒します」と力強く返事をくれたから、少し驚いた後、頬が緩む。
元婚約者を見て「はい」と頷いた。
私の返事をきいて、護衛であろう彼がスッと身を引く。
食堂の個室スペースへ向かい、食事をとることになった。
席に着くなり、元婚約者は開口一番に言う。
「アーヴィング公爵令嬢に謝罪を。一方的な婚約破棄を言い渡したこと、お詫びしたい」
その言葉に友人たちが息を詰めるが、私は事前にフィオナ様と相談した通りにお返しした。
「それに関しては、アーヴィング公爵家の当主へお伝えください。私は何も判断をしないようにと、申し付けられております」
私の返事に元婚約者は「え・・・」と驚いた顔をする。
しかし、ハッとしたように言葉を重ねた。
「いや、違う。僕は君に謝りたいんだ!」
そう言われて、私は苦笑した。
「はい、ですから、それについて私は判断しないようにとアーヴィング公爵家の当主から申し付けられており、お返事のしようがありません」
そう、許すも許さないも、返事をしないようにフィオナ様から言われている。何を言ってもその言葉がまた独り歩きしてしまうから、とにかく当主へ言うように伝えるよう指示されたのだ。
フィオナ様は笑顔でこう仰った。
『だって、スペンサー公爵家から婚約破棄に関する連絡は、未だに何一つ届いてはいないのですから当然ですよ』
戸惑う私にフィオナ様は微笑んで続ける。
『だから、絶対にダイアナが返事をしてはだめですよ?あなたに謝りたいと言われても、私を通すように言ってくださいね。これは当主命令です』
命令を言うには、すごく優しくて温かい目のフィオナ様に、私は安心して頷いたっけ。
私が穏やかに返事をするからか、元婚約者は戸惑っている。
怒っていない様子に、すぐに謝罪に対しての答えが貰えると信じて疑っていなかったのだろう。
そんなやり取りをしていたら、食事が運ばれてきた。
私が穏やかに「温かいうちに、いただきましょう?」と声を掛けると、元婚約者も「ああ・・・そうだね」と相槌を打ってくれる。その様子に、婚約者であったときよりも、普通に会話しているなと気づいた。
それから一週間たった。すっかり普通に学院生活を送っていると、私が一人になったタイミングで男爵令嬢が目の前に現れた。すごく申し訳なさそうな顔で。
やっぱりこの人は賢い。
(きっとこの一週間で、学院内の風向きや私の様子を観察してたんだわ)
元婚約者なんて、初日に突撃してきたというのに。
私は彼女に「ごきげんよう」と声を掛ける。高位の私から声を掛けないと、彼女は私に話すこともできない。マナー的には。ただ、学院内ならば友人同士の気さくな会話は、特に問題視されないのだけど。
彼女は「すみませんでした!」と勢いよく頭を下げた。
(すごい・・・平民のように深いお辞儀だわ。)
私は一人だが、ここは人目がないわけではない。
この行動が迷わず取れるところに、息を飲む。
「もう私、スペンサー公爵令息に声を掛けていません!」
まあ、それはそうだと思うけど、面白いなと思う。
この人は婚約破棄騒動の謝罪に見せかけて、あの頃の私の注意を守るようになったと、今更報告に来ただけなのだ。自分がどうして元婚約者に声を掛けていたのかとか、どうして私の注意を当時無視していたのかとか、そういうことは一切言わずに。
言わないからこそ、私が勝手な思い込みで判断してしまうことになるのだろう。そして、彼女はそれについて言葉に出していないから、知らぬ存ぜぬで通せるのだ。きっと元婚約者も、私が彼女をいじめていると勝手に誤解しただけで、彼女はそんな言葉は言っていなかったのだろうと今ならわかる。
立ち回りが上手すぎて、まだデビュタント前の同い年の女性とは思えない。
(これは、私ではとてもかなわないわ)
私はこっそり感心しながら口を開く。
「そのことに関しては、アーヴィング公爵家の当主へお伝えください。私は謝罪を受け取らないようにと命令されています」
その言葉に、顔を上げた男爵令嬢は、「そんな!お許しいただけないということですか!?」とわざと大きな声で言う。
だから、思わず「ふふっ」と笑ってしまった。
「ですから、私個人では判断するなとアーヴィング公爵家の当主から厳命されております」
そう穏やかに言うと、彼女が一瞬真顔になる。そして、肩をすくめた。
「やっぱり、国王陛下の姉君がご当主のアーヴィング公爵家は、手強いわね」
小さく言われて、ちょっと嬉しく思いながら、私は声を掛ける。
「ねえ、全く関係ないのだけど、私が王太子妃になったらあなた、私の侍女になってくれないかしら」
私の言葉に彼女はギョッとした後、「はあ?頭大丈夫ですか?」と嫌そうな顔をした。
それにもまた笑う。
「だって、あなたみたいに頭のいい人、なかなかいないもの」
素直にそう言ったら、男爵令嬢が虚を突かれた顔をした。
その後、眉間にぎゅっと皺を寄せると、泣きそうな顔で「失礼します!」と言って走り去っていく。
(まあ、卒業まで一緒ですし、根気よく口説きましょう)
ついご機嫌な気持ちになってしまった。
学院から帰ると、カインが修道院へ来ていた。
「ダイアナ!」
そう言って、手を広げてくれるから、思わず駆け寄って抱き着いてしまいたいくらい嬉しいのだけれど、ぐっとこらえる。平民ではない格好をしているカイン相手だから、私はつい早足になってしまった歩みをゆったりしたスピードに落として側まで行くと、貴族の礼をした。
久しぶりに会えてすごく嬉しい。当たり前だけれど、カインが公務に復帰してから、なかなか修道院へは来れなくなっていた。
以前まで毎週会えていたことが、特別だったのだと思う。
すると、カインは微笑んで優雅に貴族の礼を返した。そして、私に手を差し伸べる。ドキドキしながら、そっとその手に自分の手を載せた。
その途端、抱き寄せられる。
「きゃっ」
エスコートされるのだと思っていたから、とても驚くと「ははっ!」とカインが笑った。そして、ぎゅっと私を抱きしめる。
「会いたかった」
耳元で甘く囁かれて、ドキドキと胸が高鳴る。
ゆっくりとカインの背中に手を回せば、カインから安心したような気配がして少し抱き寄せる力が緩んだ。
「学院、大丈夫だった?」
カインの問いかけに、頷く。
「ええ。周りの皆が、意外と正確に事実を認識してくれていて、驚いたくらい」
私の言葉に、カインは目を瞬かせて笑った。
「そっか、ダイアナもそうだったか。オレもそうだったよ。気負ってたのが馬鹿らしくなるくらい、周りが助けてくれる」
カインはそう言いながらとても嬉しそうで、私もニコニコしてしまう。
カインがこつんと私のおでこに自分のおでこをくっつけてきた。
「裏切られることもあるって思いながら過ごしてると、裏切らずに助けてくれる周りが有難くて仕方ないんだ」
弾んだカインの声に、私も幸せな気持ちで心が満たされていく。
「そうなのね。私も、今まで見えなかったものに、少しだけ気づけるようになったわ」
二人で目を合わせて、クスクスと笑って離れた。お互いが頑張っていることが嬉しくて心強い。私はカインにもう一つ報告した。
「あのね、ここに来るきっかけになった男爵令嬢なんだけど、今、私の侍女になってくれないかって口説いているの。彼女の立ち回りが、本当に素晴らしくて」
目的さえ同じならば、とても心強いから。
カインは「ええ!」ってびっくりした後、「ははっ!」と楽しそうに笑った。
「ダイアナもか!オレもさ、牢屋にいる親友を口説いてる。だってアイツ。減刑の嘆願をしないどころか、反乱軍にいて知った王家に仇なす勢力を、詳細に報告してきたんだぜ。その上で、さっさと処刑しろ!だもんな」
カインの親友は、反乱軍の内部情報こそカインにはもたらさなかったけれど、カインが制圧に行く前から、反乱軍を内部から崩壊させようと奮闘していたらしい。
だから、反乱軍の中からもカインの親友は『裏切者』で『王太子の手下』だったと裏付けが取れてるのだとか。
反乱軍に父親の後ろ盾になっている貴族が絡んでいて、家族も人質にされてしまい、父親共々そこから逃げることが出来なかったらしい。貴族のしがらみとは恐ろしいものだと思う。
そうした事情も重なって、カインの親友はむしろ、王家側に有利な働きをしていたことが証明されているから、牢に入ってなくていいらしい。鍵もかけてないというのに、頑なに出てきてくれないんだとか。
「もう、執務室と往復するのが面倒くさくて、あいつの牢屋の中で仕事して、一緒に昼食を食べてるよ」
呆れた口調のわりに、声が嬉しそう。
「私も彼女を口説くために、一緒に昼食を取りましょうって、明日からお誘いしようかしら」
そんな風に相槌を打つと、カインが「それいいね」って幸せそうに笑った。
その笑顔に満たされた気持ちになったら、ハッと大事なことを思い出す。
「カイン渡したいものがあるの、私の部屋に来てくれる?」
そう言って、手を引き私の部屋へ急ぐ。
ドアを開けたままにして、そのまま入ろうとしたら、手を後ろに引っ張られた。カインが廊下で立ち止まったのだ。
「あの、ドアは開けておくから、入って?」
不思議に思って振りかえってそう言うと、カインが苦笑いする。
「ダメだよ。オレはここで待ってるから、取ってきて」
そう言うと、繋いでいる私の手を引き寄せて、私の頬にキスをした。
「きゃっ!」
びっくりして手を離して、キスされた頬に手を当てると、カインが楽しそうに笑っている。
顔が真っ赤になるのを感じながら、慌てて部屋の中に駆けこんだ。そして、机の引き出しから刺繍を刺したハンカチを手に取る。そして深呼吸したけれど、ドキドキしている心臓は、あまり落ち着いてくれない。でも、これだけは今、渡したい。
それを胸に抱きしめて、廊下に出て部屋のドアを閉める。
すると、カインが「うん、いい子」と笑いをかみ殺しながら言った。
その様子にちょっと口をとがらせながら、ハンカチを両手でカインに差し出した。
「カインにいつものお礼をしたくて。フィオナ様たちに教えてもらいながら、刺したの。受け取ってくれる?」
私の言葉にカインがぽかんとした顔をして、私の手に持っている刺繍の入ったハンカチと私の顔を交互に見る。
「え・・・ちょ・・・え・・・?」
てっきりいつもの調子で「ありがとう!」って受け取ってくれると思ったから、予想外の反応に戸惑っていると、カインが片手で口を押さえた。
そして、頬を赤くしていく。
その様子に、私も目をパチパチとする。
「うそ、そんなすごいもの、くれるの?オレ、貰ってもいいの?」
上手く言葉が出ないようで、たどたどしく尋ねてくるカイン。
(緊張してるカインなんて、初めて見たわ・・・)
「ええ、貰ってくれるなら・・・」
びっくりしつつ、そう返したら、カインが慌てた。
「貰う!貰うに決まってる!」
そう言って、私の手からそのハンカチを両手で大切に受け取ってくれる。そして、「へへっ」と照れた表情で嬉しそうに笑って、ハンカチをまじまじと見た。
「あの・・・そんなに見ないで?みんなに比べたら、まだ上手くないし・・・」
何だか恥ずかしくなってそう言うと、カインが「そんなことないけど、じゃあ、後でじっくり見るね」なんてニコニコして、そっと胸の内ポケットにしまってくれた。
なんだか、自分がカインの胸元にしまわれたみたいで落ち着かない。
すると何故かカインが私の部屋のドアを開ける。
そして、身をかがめて私の耳元で囁いた。
「ちょっとだけ、部屋にお邪魔させてもらってもいい?」
甘い声にカアッと、のぼせそうになる。
私の部屋に入りたいとはどういう意味だろうと、戸惑いながらカインを見上げたら、カインが射貫くように私を見ていて体が固まった。
全身が心臓になったみたいにドキドキしている。
(わ、私、なんて答えれば・・・)
頭がくらくらして、上手く答えが出てこない。オロオロしていたら、カインの後ろから「コホン」と小さな咳払いが聞こえた。
カインが「あ・・・しまった」と小さく苦笑いして、振り向く。
カインの視線から解放されてもドキドキしたまま、カインの後ろへ視線を向ければ、グレース様をはじめ、修道院の皆さまが勢ぞろいしていた。
代表してジェマ様が言う。
「カイン殿下!妙齢の女性の部屋に入ろうとするとは、なにごとですか!」
カインが「・・・すみません」と言って、がっくりと肩を落とす。
その様子になんだかホッとして、私はフフッと笑った。
その後しばらくして、カインの親友は職場復帰をしたらしい。
きっかけはカインが言った「それでお前、いつまで働かずに、囚人食食べてるんだ?」という問いかけ。
それに親友が「お前が処刑しねえからだ!」って言い返したけど、「でも、働かずに、食べて寝てるだけじゃん」ってカインが指摘したら、親友が急に真顔になったらしい。
「確かに、そうだな」
そう言って、牢から出て「それで、何すればいいんだ?」って牢の中で仕事をしているカインを振り返ったらしい。
その言葉にカインはそのまま牢を飛び出し、親友に抱きついたそうだ。
こちらは、まだまだ男爵令嬢と距離を縮め切れていない。
彼女は危機回避能力が高いようで、休み時間になると私の接近に気づいて、すぐにどこかへ姿をくらます。益々、味方に欲しい!
最初は見つからなくて苦労したけれど、徐々に捕まえることを許してくれるようになってきて、今では週に1、2回は一緒に昼食を食べてくれるようになった。
だから、きっといつか、いい返事を貰えるのではないかと睨んでいる。
最初は戸惑っていた友人たちも、私の必死な様子に、今では男爵令嬢と仲良くなれるよう応援してくれている。
そして、先日、兄が私たちに会いに来てくれた。
「母上が屋敷を出て行った途端、父上は急に大人しくなったよ。家督もオレに譲るといって、今、書類を作ってる所なんだ」
それに驚いていると、兄が母を見た。
「母上の戸籍はいじっていない。父上には、母上の籍は抜くなって言われてる。ダイアナの籍は抜いたのに?って聞き返したら、言っていたよ。ほとぼりが冷めたら、戻すつもりだったって。もう戻したくても戻せないが、ってさ」
それに驚いて「え、でも、着の身着のまま追い出されそうだったけど」と聞き返せば、「母上とオレが止めるってわかってたんだよ、父上は。それもどうかと思うけど」と兄が肩をすくめる。
そして、続けてため息をついた。
「実は以前、領地で大きな赤字が出ていたんだ。前に水害があっただろ?それで、援助を頼んだのがスペンサー公爵家だったんだ。それでダイアナの婚約が結ばれたんだよ。そして、嫁入りするときに持参金とともに援助の返済をするはずだったんだ」
私が目を丸くして「知りませんでした」と言えば、「父上は見栄っ張りだからな」と兄が苦笑いした。
「まあでも、お前が婚約してる期間中に、返済のめどは立ったんだ。だから、婚約破棄と同時に全額返済とはなったが、何とか持ちこたえられた。ぎりぎりだったけどな」
それならば、婚約破棄で父があれだけ激しく「伯爵家をつぶす気か!」と怒ったのも、分からなくもない。下手をしたら、爵位の返上もありえたのだから。
しかしそれに、母がため息をついた。
「馬鹿を言わないで。領主はもともと災害に備えておかなくてはいけないのよ。それを怠ったのはあの人だわ。なのに、ダイアナのせいにするなんて、そんなのただの八つ当たりよ。・・・オースティンはそんな領主にならないと信じているわ」
母の指摘がもっとも過ぎたのか、兄が天井を見上げる。
「はい、気を付けます」
その言葉とともにがっくりと項垂れた兄に母が頷いた後、付け加えた。
「それと・・・そうね。たまには面会に来てもいいですよと、あの人に伝えてくれる?」
その言葉に兄と私が驚けば、母が肩をすくめる。
「しょうがないわ。私はエドナ・フォスターのままみたいだから」
その言葉に、私が言う。
「今度は、私がお母様を守るわ!」
両手をぎゅっと握りしめて見せたら、母がクスクスと笑った。
「嬉しいけど、大丈夫よ。私、一対一ならあの人に負けないから」
悠然と微笑む母に、兄と目を合わせる。
そうだ、母は私たちが小さい頃から機嫌の悪い父と渡り合って、私たちを守ってくれた強い人だった。
「お母様、素敵!」
そう言って抱き着けば「まあまあ、ふふ」と抱き返してくれた。
学院が休みの天気のいい日。
風がないので、私は修道女の格好で庭の掃き掃除をしている。
「ダイアナ!庭掃除を頑張ってる君に、プレゼント」
帽子をかぶった平民姿のカインがやってきて、飴玉のたくさん入った可愛い袋を手渡してくれた。
「ありがとう、カイン。嬉しい」
それを大事に抱きしめると、カインは嬉しそうに頷いて言う。
「さて、久しぶりに修道院に御用聞きに来たんだけど、まだオレにも仕事あるかな?」
そんな風にわざとらしく心配そうな顔をするから、つい笑ってしまった。
「ふふっ、わからないけど、グレース様たちに聞きに行きましょ?」
私がそう言うと、カインが「よし、じゃあ、箒はいったん片付けるか」って私が持っていた箒を手に取り、庭の小さな物置へ向かって歩き出す。
私はそれに「ええ」と頷いて、その背を追ったら、すぐにカインが振り返って空いた手で私の手を摑まえた。
カインの大きな手に少しドキドキしながら、一緒に並んで歩き出す。
優しい日差しが、とても心地よい午後だった。




