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序章009

 大学は別々だった。

 

 凪は都内の私立大学へ進んだ。経営学部。父の会社を継ぐかどうかはまだ決めていなかったが、経営を学んでおいて損はないと思った。奈々未は同じ都内の別の大学で、教育学部に入った。子どもに関わる仕事がしたいと、高校の終わりに話してくれたことがあった。

 

 高校を卒業する直前、凪は奈々未に告白した。

 

 場所はあの喫茶店だった。特別な演出は何もなかった。コーヒーと砂糖と、いつものマスターと、いつものカウンター席。凪はコーヒーが来るのを待ってから「付き合ってください」と言った。

 

 奈々未はしばらく黙った。砂糖をコーヒーに入れて、スプーンでかき混ぜて、一口飲んだ。それから「はい」と言った。

 

「間があったけど」と凪は言った。

「驚いてたので」

 

「気づいてなかったんですか」

 奈々未は少し考えた。「気づいてたかもしれないけど、信じてなかった」

 

 凪はその言葉の意味を、そのときは半分しかわからなかった。気づいていたのに信じていなかった。奈々未の育ちと、人を信じることへの慎重さが、その言葉の裏にあると気づいたのは、もう少し後のことだった。



 同棲を始めたのは、大学二年の春だった。

 

 きっかけは奈々未のアパートの更新だった。築古で狭く、夏は暑く冬は寒い部屋だった。更新するより引っ越した方がいいという話になり、それなら一緒に住もうという流れになった。

 

 凪の両親への挨拶は、その前に済ませた。

 

 誠一郎は奈々未に会って、最初の十分ほど何も言わなかった。奈々未の話を聞いて、質問を二つして、それから「よく来てくれた」と言った。短かったが、誠一郎らしい言い方だった。佐和子は奈々未の手を両手で包んで「待ってたわ」と言った。奈々未は少し目を丸くして、それから深く頭を下げた。帰り道、奈々未は「お母さん、優しいですね」と言った。声が少し違った。凪は「そうだろ」とだけ言った。

 

 二人で選んだ部屋は、大学と仕事の中間あたりにある、二階建てアパートの一室だった。1LDK、日当たり普通、駅から徒歩十二分。特別な部屋ではなかったが、二人で選んだ部屋だった。



 一緒に住み始めてわかったことがある。

 

 奈々未は朝が強かった。

 

 凪は朝が苦手だった。目覚ましが鳴っても五分は動けない。その間に奈々未は起きて、顔を洗って、台所に立っていた。凪がようやく起き上がると、テーブルにトーストとコーヒーが置いてあった。コーヒーには砂糖が一つ入っていた。

 

「俺、ブラックでいいのに」と凪は言った。

「砂糖入れた方が美味しいので」と奈々未は言った。

 

 凪はそれ以来何も言わなかった。砂糖入りのコーヒーを飲んだ。悪くなかった。



 二人の間に、いくつかの習慣ができた。

 

 夕食は交互に作った。凪の担当の日は大抵、炒め物か丼だった。品数は少ないが量は多かった。奈々未の担当の日は、品数が多かった。味噌汁と、小鉢が二つと、メインが一つ。母の料理に似ていると凪は思った。言ったことはなかったが。

 

 食後は二人でテーブルに座ったまま、しばらく話した。その日あったことや、読んでいる本や、どうでもいいことや。奈々未は食後にもコーヒーを飲んだ。砂糖を一つ入れて。

 

 休日の朝は、近くの公園を歩いた。特に目的はなかった。ただ歩いた。奈々未は歩くのが好きだった。「考えがまとまる」と言った。凪は「何をそんなに考えることがあるんですか」と聞いた。奈々未は「いろいろ」と言った。



 二人の間にしかない言葉が、少しずつ生まれた。

 

 ある夜、凪が授業の課題の話をしていて「なんか、うまくいかないな」と言った。奈々未は「砂糖、足りてないんじゃないですか」と言った。

 

 意味がわからなかった。「砂糖?」

「苦いときは砂糖を足せばいい、っていう」

 

 凪は少し笑った。「それ、解決策じゃなくて誤魔化しですよね」

「でも飲めるようになるので」

 

 それ以来、二人の間で何かうまくいかないことがあると「砂糖が足りない」と言うようになった。解決策ではなく、ただの合言葉だった。でもその言葉が出ると、少し力が抜けた。

 

 もう一つ。奈々未が落ち込んでいるとき、凪は何も言わずに隣に座った。話しかけない。ただそこにいた。奈々未は最初「話さなくていいんですか」と言った。凪は「話したくなったら話せばいいので」と言った。それからは凪が隣に座ると、奈々未は少し経ってから自分から話し始めた。それが二人のやり方になった。



 奈々未は、慣れるのに時間がかかった。

 

 誰かと生活することへの慣れ。毎日同じ場所に帰ってくることへの慣れ。自分のために何かをしてもらうことへの慣れ。施設で育ち、一人暮らしをしてきた奈々未には、それが当たり前ではなかった。

 

 同棲を始めて最初の頃、奈々未は凪が何かしてくれるたびに「ありがとうございます」と言った。丁寧語で。一緒に住んでいるのに、丁寧語だった。

 

 凪がある日「敬語、やめませんか」と言った。

 

 奈々未は少し迷った顔をした。「変になりませんか」

「変になりませんよ」

 

 それからしばらく、奈々未の言葉は丁寧語と普通の言葉が混ざった。「ありがとう、ございます」という妙な感じになることもあった。凪はそのたびに少し笑った。奈々未は「笑わないでください」と言った。それはずっと敬語だった。

 

 半年ほど経って、奈々未の言葉から丁寧語がほぼ消えた。


 ある夜、奈々未が「おかえり」と言った。何でもない一言だった。でも凪には、それがひどく嬉しかった。

 

「ただいま」と凪は言った。

 

 奈々未は台所に向いたまま、小さく「うん」と言った。

 

 それだけだった。でも凪には、その「うん」が、奈々未がここに根を張ろうとしている音に聞こえた。



 大学三年の冬、奈々未がぽつりと言った。

「自分の家族を作りたい」

 

 唐突ではなかった。文脈はあった。二人で将来の話をしていたときだった。でもその言葉の重さは、文脈を超えていた。

 

「施設にいたとき、ずっと思ってた」と奈々未は続けた。「自分だけの家族。どこかに帰れる場所。名前を呼んでくれる人」

 

 凪は黙って聞いた。

「叶うと思ってなかったけど」と奈々未は言った。「今は、叶うかもしれないと思ってる」

 

 凪は奈々未の横顔を見た。奈々未は前を向いていた。左手の薬指を、右手の親指でゆっくりとなぞっていた。

 

「叶うよ」と凪は言った。

 奈々未は凪を見た。何か言おうとして、やめた。それから前を向いて「うん」と言った。

 

 その夜の「うん」は、最初の「おかえり」と同じ声だった。

 

 凪はそれだけで十分だった。

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