序章008
奈々未には、いくつかの癖があった。
考えごとをするとき、左手の薬指の付け根を右手の親指でなぞる。無意識にやっているらしく、本人は気づいていないようだった。凪が最初にそれを見たのは、試験前に図書館で問題集を睨んでいたときだった。奈々未の右手が、左手の薬指をゆっくりとなぞっていた。
何か意味があるのか、と思ったが聞かなかった。ただ、その仕草を見ると奈々未が何かを考えていることがわかった。
もう一つ。本を読むとき、無意識に背表紙を親指で撫でている。読んでいる間中ずっと、右手の親指が背表紙の上を行ったり来たりしていた。本人は気づいていないようだった。凪がある日「それ、癖ですか」と聞くと、奈々未は自分の手を見て少し驚いた顔をした。「知らなかった」と言った。
夏になって、二人でいる時間が増えた。
放課後に図書館で勉強することが習慣になった。試験前だけでなく、特に理由のない日も、どちらからともなく図書館へ向かった。
ある日、図書館が空調の工事で閉まっていた。
二人で廊下に立って、どうするか少し考えた。
「近くに喫茶店ありますよ」と奈々未が言った。
それが最初だった。
駅の近くの、古びた喫茶店。カウンターに五席、テーブルが四つ。マスターが一人でやっている店で、客の回転が遅く、長居しても何も言われなかった。図書館より少し騒がしかったが、悪くなかった。
その日から、図書館が使えないときはその喫茶店へ行くようになった。
そこで凪は、ブラックコーヒーに砂糖を入れる奈々未を初めて見た。
奈々未はいつもコーヒーを頼んだ。凪はアイスティーが多かった。
最初の日、奈々未はコーヒーが来ると砂糖を一つ入れた。スプーンでゆっくりかき混ぜて、一口飲んだ。
凪はそれを見て「ブラックじゃないんですか」と言った。
「ブラックは飲めないです」と奈々未は言った。
「じゃあカフェオレとか、甘いやつ頼めばいいのに」
奈々未は少し考えた。「なんか、コーヒーはコーヒーの味がしないといけない気がして」
「砂糖入れてる時点でコーヒーの味じゃなくないですか」
「コーヒーです」と奈々未は言った。「砂糖入れてもコーヒーはコーヒーなので」
凪にはその論理がよくわからなかったが、それ以上聞かなかった。奈々未の中に、奈々未にしかわからない基準がある。それはそれでいい、と思った。
次に来たときも、奈々未はコーヒーに砂糖を一つ入れた。その次も。それが奈々未の頼み方だった。
夏休みに入って、学校で会う機会は減った。
でも二人は時々、その喫茶店で会った。
どちらかが誘うというより、「明日暇ですか」という短い連絡が来て、特に予定がなければ行く、という感じだった。約束の形が緩かった。それが二人には合っていた。
ある日の午後、勉強に飽きて話していると、奈々未が「施設って、誕生日とか特別なことないんですよ」と言った。
唐突だった。前の話題とも繋がっていなかった。
「ケーキとかないんですか」と凪は聞いた。
「ないわけじゃないけど、みんな一緒の日にまとめてやるので。自分だけ特別、みたいなのがなくて」
「それは寂しくないですか」
「寂しいかどうか、よくわからなかったです。そういうものだと思ってたので」
凪は少し考えた。
「今は?」
「今は」と奈々未は繰り返した。「寂しかったんだなって、少しわかります。比べるものができたから」
比べるもの、という言葉が凪には刺さった。奈々未が高校に来て、他の人間の普通を見て、初めて自分の過去の輪郭がわかった。そういうことだと思った。
凪は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
「来年の誕生日、何か食べに行きましょう」と絞り出した。
奈々未は少し目を瞬かせた。「なんで来年なんですか」
「今年の誕生日、いつですか」
「来月です」
「じゃあ来月」
奈々未はしばらく黙った。それから「高原さんって」と言った。
「なんですか」
「思ったより、ちゃんとしてますね」
凪は「どういう意味ですか」と聞いた。
「いい意味です」と奈々未は言った。コーヒーカップを持ち上げて、一口飲んだ。
奈々未の誕生日は八月の終わりだった。
凪は少し調べて、駅の近くに新しく開いたレストランを見つけた。特別高級ではないが、落ち着いた雰囲気の店だった。
当日、奈々未はいつもより少しだけ違う服を着てきた。特別に着飾っているわけではなかったが、凪には「選んできた」ことがわかった。
食事をしながら、いつも通りの話をした。学校のこと、本のこと、どうでもいいこと。特別な話はしなかった。ただ、いつもより少し長く話した。
帰り際、駅の改札の前で奈々未が「ありがとうございました」と言った。
「どういたしまして」
「あの」と奈々未は少し間を置いた。「誕生日に、誰かとご飯食べたの、初めてで」
凪は何も言わなかった。何か言うより、黙っている方がいい気がした。
奈々未も何も言わなかった。少しの間、二人で改札の前に立っていた。
「また来年も」と凪は言った。
奈々未はうつむいて、小さく笑った。さっき言ったのと同じ、口角が上がってすぐ戻る笑い方。でもそのとき凪には、その笑い方がひどく大切なものに見えた。
夏が終わって、二人は三年生の後半に入った。
受験勉強が本格化して、喫茶店へ行く頻度は減った。でも連絡は続いた。短い、他愛のないやり取り。「今日の数学、難しくなかったですか」「あの問題、俺も詰まった」。そういう話。
奈々未の癖は、凪の中に蓄積していった。
左手の薬指をなぞる仕草。本の背表紙を撫でること。コーヒーに砂糖を一つ。答えが決まっていることへの安心感。自分の過去を重く語らないこと。誰かといることに、少しだけ不慣れなこと。
一つ一つは小さかった。でも積み重なると、それは奈々未という人間そのものだった。
凪はいつの間にか、その全部を好きになっていた。
好きだと気づいたのは、ある夜、布団の中で奈々未の笑い方を思い出したときだった。口角が上がって、すぐ戻る。それだけの笑い方を、凪は何度も思い返していた。
これが好きということか、と凪は思った。
遅いと自分でも思ったが、凪にとっては自然な速度だった。




